10 / 27
10
しおりを挟む
「……なぜだ。なぜ、これほどまでに『ペン』という道具は重いのだ」
王宮の豪華な執務室。
第一王子ジュリアンは、金装飾が施された高級な万年筆を握りしめたまま、震えていた。
目の前には、エーリカがいれば五分で片付いていたはずの『領民向けの減税申請書』が、一通だけ鎮座している。
「殿下、もう三時間もその紙を見つめておいでですよ。いい加減にサインをいただけませんか。廊下には、許可を待つ商人の行列が王宮の正門まで続いております」
筆頭書記官の声は、もはや死霊の囁きのように生気がない。
「わ、分かっている! だが、この『第4項・乙の特例条項』というやつが、先ほどの『甲の補足事項』と矛盾しているように見えるのだ! これを認めれば、王家の威厳が損なわれるのではないか?」
「殿下、それは三ページ前の『附帯決議』を読めば解決する問題です。……というか、エーリカ様なら、そもそも矛盾が起きないように事前に調整を済ませておられました」
「またエーリカか! 貴様ら、口を開けばあの冷徹女のことばかり! 私は王子だぞ! 王子の判断が、法律なのだ!」
ジュリアンがヤケクソになってペンを走らせようとした、その時。
「ジュリアン様ぁ、お疲れではありませんかぁ?」
リリアーヌが、ふわふわとしたドレスを揺らしながら、お盆を持って入ってきた。
その上には、色とりどりのマカロンと、甘い香りのする紅茶が乗っている。
「おお、リリアーヌ! ちょうど良いところに来てくれた。この無能な書記官たちが、私を寄ってたかって責めるのだよ」
「まぁ、ひどいですわね。ジュリアン様はこんなに頑張っていらっしゃるのに。……ほら、そんな難しい紙なんてポイッてして、一緒に甘いものをいただきましょう?」
「そうだな! リリアーヌの言う通りだ。休憩も王子の務めだからな!」
ジュリアンが嬉々としてペンを置いた瞬間、書記官が絶叫した。
「お待ちください! 今そのペンを置いたら、西の街道の物流が止まり、明日の朝には王都のパンの値段が三倍になります! 昨日から王宮を埋め尽くしている『キャベツ一万トン』の処分も、まだ決まっていないのですよ!」
「キャベツなら、みんなに配ればよろしいじゃない。あ、そうだわ! リリアーヌ、とっても良いことを思いつきました!」
リリアーヌが、名案を思いついた子供のように手を叩いた。
「ジュリアン様、このキャベツを全部、エーリカ様の公爵家に送りつけてはどうかしら? あの方、お野菜が大好きだって仰っていましたものぉ。きっと喜んで食べてくださるわ」
「なっ……それは名案だ! あやつのことだ、山のようなキャベツを見て、自分の無力さを嘆き、泣きながら戻ってくるに違いない!」
「違いますよ! 送料だけで国家予算が飛びますし、そもそも公爵家に嫌がらせをしたら、アステリア公爵が軍を率いて攻めてきますよ!」
書記官の必死の制止も、今のジュリアンの耳には届かない。
彼はリリアーヌが差し出したマカロンを口にし、現実逃避の甘みに浸っていた。
しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。
「――ジュリアン殿下! 失礼する!」
扉が乱暴に開け放たれ、財務大臣、軍務卿、そして法務卿の三人が、般若のような形相でなだれ込んできた。
「ど、どうしたのだ、お前たち。揃いも揃って怖い顔をして……」
「殿下、怖い顔どころの話ではありません! 今朝、エーリカ様から各省庁に『退職に伴う最終引き継ぎ資料』が届きました!」
財務大臣が、一冊の分厚い本のようなものを机に叩きつけた。
「これを見てください! ここには、殿下が過去三年間、いかに適当な指示を出して国を混乱させ、それをエーリカ様がどれほどの超人的な努力で隠蔽してきたかが、一分一秒の単位で記録されています!」
「い、いんぺい……? 何のことだ」
「殿下が『気分が乗らない』と言ってサボった外交交渉も! 殿下が『リリアーヌとのデート代』として横領した機密費も! すべて彼女が、自分の個人資産や夜なべした内職で補填していたのですよ!」
ジュリアンの顔が、見る間に青ざめていく。
彼は知らなかったのだ。
自分が「有能な王子」として振る舞えていたのは、自分の才能ではなく、婚約者が文字通り「命を削って」整えた舞台の上だったということを。
「さらに、彼女の『追放』を聞きつけた隣国のハインリヒ閣下から、正式な抗議文が届きました! 『我が国の至宝を侮辱するとは、宣戦布告と受け取っても良いのか』とのことです!」
「せ、宣戦布告!? たかが女一人のことでか!」
「たかが、ではありません! 彼女は我が国の『脳』だったのです! 脳を捨てて、どうやって体を動かせと言うのですか!」
軍務卿の怒鳴り声に、ジュリアンは腰を抜かして椅子から転げ落ちた。
リリアーヌが慌てて駆け寄るが、大臣たちの冷ややかな視線は彼女を貫き、まるで汚物を見るようなものに変わっていた。
「殿下。今すぐエーリカ様を呼び戻してください。さもなくば、我々閣僚は全員辞職いたします。殿下一人で、そのキャベツの山と一緒に滅んでください」
「ま、待て! 待ってくれ! 私が悪かった! 私が謝るから!」
ジュリアンの叫びは、虚しく執務室に響いた。
彼が二度と握ることができないのは、ペンの重みだけではなかった。
それは、彼が当然のように享受していた「平和」と「権力」という、あまりにも重すぎる責任の鎖だった。
王宮の豪華な執務室。
第一王子ジュリアンは、金装飾が施された高級な万年筆を握りしめたまま、震えていた。
目の前には、エーリカがいれば五分で片付いていたはずの『領民向けの減税申請書』が、一通だけ鎮座している。
「殿下、もう三時間もその紙を見つめておいでですよ。いい加減にサインをいただけませんか。廊下には、許可を待つ商人の行列が王宮の正門まで続いております」
筆頭書記官の声は、もはや死霊の囁きのように生気がない。
「わ、分かっている! だが、この『第4項・乙の特例条項』というやつが、先ほどの『甲の補足事項』と矛盾しているように見えるのだ! これを認めれば、王家の威厳が損なわれるのではないか?」
「殿下、それは三ページ前の『附帯決議』を読めば解決する問題です。……というか、エーリカ様なら、そもそも矛盾が起きないように事前に調整を済ませておられました」
「またエーリカか! 貴様ら、口を開けばあの冷徹女のことばかり! 私は王子だぞ! 王子の判断が、法律なのだ!」
ジュリアンがヤケクソになってペンを走らせようとした、その時。
「ジュリアン様ぁ、お疲れではありませんかぁ?」
リリアーヌが、ふわふわとしたドレスを揺らしながら、お盆を持って入ってきた。
その上には、色とりどりのマカロンと、甘い香りのする紅茶が乗っている。
「おお、リリアーヌ! ちょうど良いところに来てくれた。この無能な書記官たちが、私を寄ってたかって責めるのだよ」
「まぁ、ひどいですわね。ジュリアン様はこんなに頑張っていらっしゃるのに。……ほら、そんな難しい紙なんてポイッてして、一緒に甘いものをいただきましょう?」
「そうだな! リリアーヌの言う通りだ。休憩も王子の務めだからな!」
ジュリアンが嬉々としてペンを置いた瞬間、書記官が絶叫した。
「お待ちください! 今そのペンを置いたら、西の街道の物流が止まり、明日の朝には王都のパンの値段が三倍になります! 昨日から王宮を埋め尽くしている『キャベツ一万トン』の処分も、まだ決まっていないのですよ!」
「キャベツなら、みんなに配ればよろしいじゃない。あ、そうだわ! リリアーヌ、とっても良いことを思いつきました!」
リリアーヌが、名案を思いついた子供のように手を叩いた。
「ジュリアン様、このキャベツを全部、エーリカ様の公爵家に送りつけてはどうかしら? あの方、お野菜が大好きだって仰っていましたものぉ。きっと喜んで食べてくださるわ」
「なっ……それは名案だ! あやつのことだ、山のようなキャベツを見て、自分の無力さを嘆き、泣きながら戻ってくるに違いない!」
「違いますよ! 送料だけで国家予算が飛びますし、そもそも公爵家に嫌がらせをしたら、アステリア公爵が軍を率いて攻めてきますよ!」
書記官の必死の制止も、今のジュリアンの耳には届かない。
彼はリリアーヌが差し出したマカロンを口にし、現実逃避の甘みに浸っていた。
しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。
「――ジュリアン殿下! 失礼する!」
扉が乱暴に開け放たれ、財務大臣、軍務卿、そして法務卿の三人が、般若のような形相でなだれ込んできた。
「ど、どうしたのだ、お前たち。揃いも揃って怖い顔をして……」
「殿下、怖い顔どころの話ではありません! 今朝、エーリカ様から各省庁に『退職に伴う最終引き継ぎ資料』が届きました!」
財務大臣が、一冊の分厚い本のようなものを机に叩きつけた。
「これを見てください! ここには、殿下が過去三年間、いかに適当な指示を出して国を混乱させ、それをエーリカ様がどれほどの超人的な努力で隠蔽してきたかが、一分一秒の単位で記録されています!」
「い、いんぺい……? 何のことだ」
「殿下が『気分が乗らない』と言ってサボった外交交渉も! 殿下が『リリアーヌとのデート代』として横領した機密費も! すべて彼女が、自分の個人資産や夜なべした内職で補填していたのですよ!」
ジュリアンの顔が、見る間に青ざめていく。
彼は知らなかったのだ。
自分が「有能な王子」として振る舞えていたのは、自分の才能ではなく、婚約者が文字通り「命を削って」整えた舞台の上だったということを。
「さらに、彼女の『追放』を聞きつけた隣国のハインリヒ閣下から、正式な抗議文が届きました! 『我が国の至宝を侮辱するとは、宣戦布告と受け取っても良いのか』とのことです!」
「せ、宣戦布告!? たかが女一人のことでか!」
「たかが、ではありません! 彼女は我が国の『脳』だったのです! 脳を捨てて、どうやって体を動かせと言うのですか!」
軍務卿の怒鳴り声に、ジュリアンは腰を抜かして椅子から転げ落ちた。
リリアーヌが慌てて駆け寄るが、大臣たちの冷ややかな視線は彼女を貫き、まるで汚物を見るようなものに変わっていた。
「殿下。今すぐエーリカ様を呼び戻してください。さもなくば、我々閣僚は全員辞職いたします。殿下一人で、そのキャベツの山と一緒に滅んでください」
「ま、待て! 待ってくれ! 私が悪かった! 私が謝るから!」
ジュリアンの叫びは、虚しく執務室に響いた。
彼が二度と握ることができないのは、ペンの重みだけではなかった。
それは、彼が当然のように享受していた「平和」と「権力」という、あまりにも重すぎる責任の鎖だった。
19
あなたにおすすめの小説
【完】夫から冷遇される伯爵夫人でしたが、身分を隠して踊り子として夜働いていたら、その夫に見初められました。
112
恋愛
伯爵家同士の結婚、申し分ない筈だった。
エッジワーズ家の娘、エリシアは踊り子の娘だったが為に嫁ぎ先の夫に冷遇され、虐げられ、屋敷を追い出される。
庭の片隅、掘っ立て小屋で生活していたエリシアは、街で祝祭が開かれることを耳にする。どうせ誰からも顧みられないからと、こっそり抜け出して街へ向かう。すると街の中心部で民衆が音楽に合わせて踊っていた。その輪の中にエリシアも入り一緒になって踊っていると──
【完】ある日、俺様公爵令息からの婚約破棄を受け入れたら、私にだけ冷たかった皇太子殿下が激甘に!? 今更復縁要請&好きだと言ってももう遅い!
黒塔真実
恋愛
【2月18日(夕方から)〜なろうに転載する間(「なろう版」一部違い有り)5話以降をいったん公開中止にします。転載完了後、また再公開いたします】伯爵令嬢エリスは憂鬱な日々を過ごしていた。いつも「婚約破棄」を盾に自分の言うことを聞かせようとする婚約者の俺様公爵令息。その親友のなぜか彼女にだけ異様に冷たい態度の皇太子殿下。二人の男性の存在に悩まされていたのだ。
そうして帝立学院で最終学年を迎え、卒業&結婚を意識してきた秋のある日。エリスはとうとう我慢の限界を迎え、婚約者に反抗。勢いで婚約破棄を受け入れてしまう。すると、皇太子殿下が言葉だけでは駄目だと正式な手続きを進めだす。そして無事に婚約破棄が成立したあと、急に手の平返ししてエリスに接近してきて……。※完結後に感想欄を解放しました。※
妹に全部取られたけど、幸せ確定の私は「ざまぁ」なんてしない!
石のやっさん
恋愛
マリアはドレーク伯爵家の長女で、ドリアーク伯爵家のフリードと婚約していた。
だが、パーティ会場で一方的に婚約を解消させられる。
しかも新たな婚約者は妹のロゼ。
誰が見てもそれは陥れられた物である事は明らかだった。
だが、敢えて反論もせずにそのまま受け入れた。
それはマリアにとって実にどうでも良い事だったからだ。
主人公は何も「ざまぁ」はしません(正当性の主張はしますが)ですが...二人は。
婚約破棄をすれば、本来なら、こうなるのでは、そんな感じで書いてみました。
この作品は昔の方が良いという感想があったのでそのまま残し。
これに追加して書いていきます。
新しい作品では
①主人公の感情が薄い
②視点変更で読みずらい
というご指摘がありましたので、以上2点の修正はこちらでしながら書いてみます。
見比べて見るのも面白いかも知れません。
ご迷惑をお掛けいたしました
私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?
きららののん
恋愛
優しきおっとりでマイペースな令嬢は、太陽のように熱い王太子の側にいることを幸せに思っていた。
しかし、悪役令嬢に刃のような言葉を浴びせられ、自信の無くした令嬢は……
婚約破棄されてイラッときたから、目についた男に婚約申し込んだら、幼馴染だった件
ユウキ
恋愛
苦節11年。王家から押し付けられた婚約。我慢に我慢を重ねてきた侯爵令嬢アデレイズは、王宮の人が行き交う大階段で婚約者である第三王子から、婚約破棄を告げられるのだが、いかんせんタイミングが悪すぎた。アデレイズのコンディションは最悪だったのだ。
結婚記念日をスルーされたので、離婚しても良いですか?
秋月一花
恋愛
本日、結婚記念日を迎えた。三周年のお祝いに、料理長が腕を振るってくれた。私は夫であるマハロを待っていた。……いつまで経っても帰ってこない、彼を。
……結婚記念日を過ぎてから帰って来た彼は、私との結婚記念日を覚えていないようだった。身体が弱いという幼馴染の見舞いに行って、そのまま食事をして戻って来たみたいだ。
彼と結婚してからずっとそう。私がデートをしてみたい、と言えば了承してくれるものの、当日幼馴染の女性が体調を崩して「後で埋め合わせするから」と彼女の元へ向かってしまう。埋め合わせなんて、この三年一度もされたことがありませんが?
もう我慢の限界というものです。
「離婚してください」
「一体何を言っているんだ、君は……そんなこと、出来るはずないだろう?」
白い結婚のため、可能ですよ? 知らないのですか?
あなたと離婚して、私は第二の人生を歩みます。
※カクヨム様にも投稿しています。
恋の締め切りには注意しましょう
石里 唯
恋愛
侯爵令嬢シルヴィアは、ウィンデリア国で2番目に強い魔力の持ち主。
幼馴染の公爵家嫡男セドリックを幼いころから慕っている。成長につれ彼女の魔力が強くなった結果、困った副作用が生じ、魔法学園に入学することになる。
最短で学園を卒業し、再びセドリックと会えるようになったものの、二人の仲に進展は見られない。
そうこうしているうちに、幼い頃にシルヴィアが魔力で命を救った王太子リチャードから、
「あと半年でセドリックを落とせなかったら、自分の婚約者になってもらう」と告げられる。
その後、王太子の暗殺計画が予知されセドリックもシルヴィアも忙殺される中、シルヴィアは半年で想いを成就させられるのか…。
「小説家になろう」サイトで完結済みです。なろうサイトでは番外編・後日談をシリーズとして投稿しています。
虐げられ令嬢の最後のチャンス〜今度こそ幸せになりたい
みおな
恋愛
何度生まれ変わっても、私の未来には死しかない。
死んで異世界転生したら、旦那に虐げられる侯爵夫人だった。
死んだ後、再び転生を果たしたら、今度は親に虐げられる伯爵令嬢だった。
三度目は、婚約者に婚約破棄された挙句に国外追放され夜盗に殺される公爵令嬢。
四度目は、聖女だと偽ったと冤罪をかけられ処刑される平民。
さすがにもう許せないと神様に猛抗議しました。
こんな結末しかない転生なら、もう転生しなくていいとまで言いました。
こんな転生なら、いっそ亀の方が何倍もいいくらいです。
私の怒りに、神様は言いました。
次こそは誰にも虐げられない未来を、とー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる