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「……なぜだ。なぜ、これほどまでに『ペン』という道具は重いのだ」
王宮の豪華な執務室。
第一王子ジュリアンは、金装飾が施された高級な万年筆を握りしめたまま、震えていた。
目の前には、エーリカがいれば五分で片付いていたはずの『領民向けの減税申請書』が、一通だけ鎮座している。
「殿下、もう三時間もその紙を見つめておいでですよ。いい加減にサインをいただけませんか。廊下には、許可を待つ商人の行列が王宮の正門まで続いております」
筆頭書記官の声は、もはや死霊の囁きのように生気がない。
「わ、分かっている! だが、この『第4項・乙の特例条項』というやつが、先ほどの『甲の補足事項』と矛盾しているように見えるのだ! これを認めれば、王家の威厳が損なわれるのではないか?」
「殿下、それは三ページ前の『附帯決議』を読めば解決する問題です。……というか、エーリカ様なら、そもそも矛盾が起きないように事前に調整を済ませておられました」
「またエーリカか! 貴様ら、口を開けばあの冷徹女のことばかり! 私は王子だぞ! 王子の判断が、法律なのだ!」
ジュリアンがヤケクソになってペンを走らせようとした、その時。
「ジュリアン様ぁ、お疲れではありませんかぁ?」
リリアーヌが、ふわふわとしたドレスを揺らしながら、お盆を持って入ってきた。
その上には、色とりどりのマカロンと、甘い香りのする紅茶が乗っている。
「おお、リリアーヌ! ちょうど良いところに来てくれた。この無能な書記官たちが、私を寄ってたかって責めるのだよ」
「まぁ、ひどいですわね。ジュリアン様はこんなに頑張っていらっしゃるのに。……ほら、そんな難しい紙なんてポイッてして、一緒に甘いものをいただきましょう?」
「そうだな! リリアーヌの言う通りだ。休憩も王子の務めだからな!」
ジュリアンが嬉々としてペンを置いた瞬間、書記官が絶叫した。
「お待ちください! 今そのペンを置いたら、西の街道の物流が止まり、明日の朝には王都のパンの値段が三倍になります! 昨日から王宮を埋め尽くしている『キャベツ一万トン』の処分も、まだ決まっていないのですよ!」
「キャベツなら、みんなに配ればよろしいじゃない。あ、そうだわ! リリアーヌ、とっても良いことを思いつきました!」
リリアーヌが、名案を思いついた子供のように手を叩いた。
「ジュリアン様、このキャベツを全部、エーリカ様の公爵家に送りつけてはどうかしら? あの方、お野菜が大好きだって仰っていましたものぉ。きっと喜んで食べてくださるわ」
「なっ……それは名案だ! あやつのことだ、山のようなキャベツを見て、自分の無力さを嘆き、泣きながら戻ってくるに違いない!」
「違いますよ! 送料だけで国家予算が飛びますし、そもそも公爵家に嫌がらせをしたら、アステリア公爵が軍を率いて攻めてきますよ!」
書記官の必死の制止も、今のジュリアンの耳には届かない。
彼はリリアーヌが差し出したマカロンを口にし、現実逃避の甘みに浸っていた。
しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。
「――ジュリアン殿下! 失礼する!」
扉が乱暴に開け放たれ、財務大臣、軍務卿、そして法務卿の三人が、般若のような形相でなだれ込んできた。
「ど、どうしたのだ、お前たち。揃いも揃って怖い顔をして……」
「殿下、怖い顔どころの話ではありません! 今朝、エーリカ様から各省庁に『退職に伴う最終引き継ぎ資料』が届きました!」
財務大臣が、一冊の分厚い本のようなものを机に叩きつけた。
「これを見てください! ここには、殿下が過去三年間、いかに適当な指示を出して国を混乱させ、それをエーリカ様がどれほどの超人的な努力で隠蔽してきたかが、一分一秒の単位で記録されています!」
「い、いんぺい……? 何のことだ」
「殿下が『気分が乗らない』と言ってサボった外交交渉も! 殿下が『リリアーヌとのデート代』として横領した機密費も! すべて彼女が、自分の個人資産や夜なべした内職で補填していたのですよ!」
ジュリアンの顔が、見る間に青ざめていく。
彼は知らなかったのだ。
自分が「有能な王子」として振る舞えていたのは、自分の才能ではなく、婚約者が文字通り「命を削って」整えた舞台の上だったということを。
「さらに、彼女の『追放』を聞きつけた隣国のハインリヒ閣下から、正式な抗議文が届きました! 『我が国の至宝を侮辱するとは、宣戦布告と受け取っても良いのか』とのことです!」
「せ、宣戦布告!? たかが女一人のことでか!」
「たかが、ではありません! 彼女は我が国の『脳』だったのです! 脳を捨てて、どうやって体を動かせと言うのですか!」
軍務卿の怒鳴り声に、ジュリアンは腰を抜かして椅子から転げ落ちた。
リリアーヌが慌てて駆け寄るが、大臣たちの冷ややかな視線は彼女を貫き、まるで汚物を見るようなものに変わっていた。
「殿下。今すぐエーリカ様を呼び戻してください。さもなくば、我々閣僚は全員辞職いたします。殿下一人で、そのキャベツの山と一緒に滅んでください」
「ま、待て! 待ってくれ! 私が悪かった! 私が謝るから!」
ジュリアンの叫びは、虚しく執務室に響いた。
彼が二度と握ることができないのは、ペンの重みだけではなかった。
それは、彼が当然のように享受していた「平和」と「権力」という、あまりにも重すぎる責任の鎖だった。
王宮の豪華な執務室。
第一王子ジュリアンは、金装飾が施された高級な万年筆を握りしめたまま、震えていた。
目の前には、エーリカがいれば五分で片付いていたはずの『領民向けの減税申請書』が、一通だけ鎮座している。
「殿下、もう三時間もその紙を見つめておいでですよ。いい加減にサインをいただけませんか。廊下には、許可を待つ商人の行列が王宮の正門まで続いております」
筆頭書記官の声は、もはや死霊の囁きのように生気がない。
「わ、分かっている! だが、この『第4項・乙の特例条項』というやつが、先ほどの『甲の補足事項』と矛盾しているように見えるのだ! これを認めれば、王家の威厳が損なわれるのではないか?」
「殿下、それは三ページ前の『附帯決議』を読めば解決する問題です。……というか、エーリカ様なら、そもそも矛盾が起きないように事前に調整を済ませておられました」
「またエーリカか! 貴様ら、口を開けばあの冷徹女のことばかり! 私は王子だぞ! 王子の判断が、法律なのだ!」
ジュリアンがヤケクソになってペンを走らせようとした、その時。
「ジュリアン様ぁ、お疲れではありませんかぁ?」
リリアーヌが、ふわふわとしたドレスを揺らしながら、お盆を持って入ってきた。
その上には、色とりどりのマカロンと、甘い香りのする紅茶が乗っている。
「おお、リリアーヌ! ちょうど良いところに来てくれた。この無能な書記官たちが、私を寄ってたかって責めるのだよ」
「まぁ、ひどいですわね。ジュリアン様はこんなに頑張っていらっしゃるのに。……ほら、そんな難しい紙なんてポイッてして、一緒に甘いものをいただきましょう?」
「そうだな! リリアーヌの言う通りだ。休憩も王子の務めだからな!」
ジュリアンが嬉々としてペンを置いた瞬間、書記官が絶叫した。
「お待ちください! 今そのペンを置いたら、西の街道の物流が止まり、明日の朝には王都のパンの値段が三倍になります! 昨日から王宮を埋め尽くしている『キャベツ一万トン』の処分も、まだ決まっていないのですよ!」
「キャベツなら、みんなに配ればよろしいじゃない。あ、そうだわ! リリアーヌ、とっても良いことを思いつきました!」
リリアーヌが、名案を思いついた子供のように手を叩いた。
「ジュリアン様、このキャベツを全部、エーリカ様の公爵家に送りつけてはどうかしら? あの方、お野菜が大好きだって仰っていましたものぉ。きっと喜んで食べてくださるわ」
「なっ……それは名案だ! あやつのことだ、山のようなキャベツを見て、自分の無力さを嘆き、泣きながら戻ってくるに違いない!」
「違いますよ! 送料だけで国家予算が飛びますし、そもそも公爵家に嫌がらせをしたら、アステリア公爵が軍を率いて攻めてきますよ!」
書記官の必死の制止も、今のジュリアンの耳には届かない。
彼はリリアーヌが差し出したマカロンを口にし、現実逃避の甘みに浸っていた。
しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。
「――ジュリアン殿下! 失礼する!」
扉が乱暴に開け放たれ、財務大臣、軍務卿、そして法務卿の三人が、般若のような形相でなだれ込んできた。
「ど、どうしたのだ、お前たち。揃いも揃って怖い顔をして……」
「殿下、怖い顔どころの話ではありません! 今朝、エーリカ様から各省庁に『退職に伴う最終引き継ぎ資料』が届きました!」
財務大臣が、一冊の分厚い本のようなものを机に叩きつけた。
「これを見てください! ここには、殿下が過去三年間、いかに適当な指示を出して国を混乱させ、それをエーリカ様がどれほどの超人的な努力で隠蔽してきたかが、一分一秒の単位で記録されています!」
「い、いんぺい……? 何のことだ」
「殿下が『気分が乗らない』と言ってサボった外交交渉も! 殿下が『リリアーヌとのデート代』として横領した機密費も! すべて彼女が、自分の個人資産や夜なべした内職で補填していたのですよ!」
ジュリアンの顔が、見る間に青ざめていく。
彼は知らなかったのだ。
自分が「有能な王子」として振る舞えていたのは、自分の才能ではなく、婚約者が文字通り「命を削って」整えた舞台の上だったということを。
「さらに、彼女の『追放』を聞きつけた隣国のハインリヒ閣下から、正式な抗議文が届きました! 『我が国の至宝を侮辱するとは、宣戦布告と受け取っても良いのか』とのことです!」
「せ、宣戦布告!? たかが女一人のことでか!」
「たかが、ではありません! 彼女は我が国の『脳』だったのです! 脳を捨てて、どうやって体を動かせと言うのですか!」
軍務卿の怒鳴り声に、ジュリアンは腰を抜かして椅子から転げ落ちた。
リリアーヌが慌てて駆け寄るが、大臣たちの冷ややかな視線は彼女を貫き、まるで汚物を見るようなものに変わっていた。
「殿下。今すぐエーリカ様を呼び戻してください。さもなくば、我々閣僚は全員辞職いたします。殿下一人で、そのキャベツの山と一緒に滅んでください」
「ま、待て! 待ってくれ! 私が悪かった! 私が謝るから!」
ジュリアンの叫びは、虚しく執務室に響いた。
彼が二度と握ることができないのは、ペンの重みだけではなかった。
それは、彼が当然のように享受していた「平和」と「権力」という、あまりにも重すぎる責任の鎖だった。
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