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(……嘘でしょう? どうしてここに、あの『仕事の亡者』がいるのよ!)
エーリカは湯船の中で、音を立てないようにじっと身を潜めた。
幸いなことに、男湯と女湯を隔てているのは、年季の入った厚い木板の壁一枚だ。
こちらが沈黙を守っていれば、隣にいるのが誰かまでは気づかれないはずである。
「閣下、やはりこのバート・マリスのお湯は格別ですな。長旅で凝り固まった筋肉が、見る見るうちに解れていくようです」
「あぁ。だが、私の心までは解れん。あの財務諸表の第三項目、やはりあそこには致命的な計算ミスがある。エーリカ殿なら、一目でそれを見抜き、冷ややかな瞳で私を蔑んでくれたはずなのだ……!」
(お湯に浸かりながら何の話をしているのよ、あの男は!)
エーリカは心の中で全力のツッコミを入れた。
蔑んでほしいだなんて、英雄と呼ばれる男が口にするセリフではない。
というか、温泉に来てまで計算ミスの話をしないでほしい。聞いているこちらの右手が、また修正ペンを求めて震え出してしまう。
「閣下、今は仕事を忘れましょう。エーリカ様も、この近くの公爵家保養地に来られているという噂ですし、明日にはお会いできるかもしれませんぞ」
「……いや、彼女は今、休息を求めている。無理に追いかけては、私という存在そのものが『残業』と同じカテゴリーに分類されてしまう。それは避けねばならん」
(もう分類されていますわよ。特大の『休日出勤』扱いですわ!)
エーリカはお湯の中で、ぷくぷくと泡を吹いた。
意外にも思慮深いことを言っているようだが、結局のところ、彼は自分を追いかけてここまで来たのだ。
ストーカー一歩手前ではないか。
「それにしても閣下、そのお体。相変わらず凄まじい鍛え方ですな。戦場を退いても、一切の妥協がない」
「騎士が牙を研ぐのをやめれば、守るべきものも守れんからな。……よし、そろそろ上がるか。あまり長湯をして、のぼせてしまっては彼女に顔向けできん」
隣の男湯から、ざばぁっという豪快な水の音が聞こえてきた。
エーリカは、彼らが完全に立ち去るまで、石像のように固まって待った。
数分後、ようやく静寂が戻ると、彼女は肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。
「……危なかったわ。あんなところで遭遇したら、裸の付き合いどころか、全裸で内政相談をされるところだったわね」
エーリカは、すっかり温まった……というより、少しのぼせ気味の体を引きずって湯船から上がった。
早く部屋に戻って、冷たいミルクでも飲んで寝てしまおう。そうすれば、今日の出来事はすべて悪い夢だったことにできる。
脱衣所で手早く着替えを済ませ、エーリカは長い廊下を歩き始めた。
旅館の廊下は、薄暗い行灯の光が情緒を醸し出している。
ふらふらと、のぼせた頭で角を曲がった、その瞬間。
「――おっと。失礼」
正面から来た大きな影と、まともにぶつかってしまった。
エーリカの小さな体が、反動で後ろに倒れそうになる。
それを、太くて熱い腕が、ガシッという確かな手応えとともに支えた。
「大丈夫か、お嬢さん。少々のぼせているようだが……」
聞き覚えのある、低く響く声。
エーリカがおそるおそる視線を上げると、そこには、はだけた浴衣の間から、彫刻のように美しく強靭な「筋肉」が鎮座していた。
「ひゃっ……!」
「……エーリカ殿?」
「ハ、ハハハ……ハインリヒ閣下。奇遇ですわね。こんなところで、野生の筋肉にお会いするなんて」
目の前にいたのは、湯上がりで髪を無造作にかき上げたクラウスだった。
普段の厳格な甲冑姿とは異なり、薄い浴衣一枚を羽織っただけの彼は、毒気が抜けるほどに男性的で、かつ、危うい色気を放っている。
「野生の、筋肉……? 貴殿、やはり相当のぼせているな。顔が真っ赤だ」
クラウスは、支えていた腕を離さず、もう片方の手でエーリカの額にそっと触れた。
冷たい指先が、熱を持った肌に触れて、エーリカの心臓が跳ね上がる。
「あ、あの。触らないでいただけます? 私、今、情緒が不安定なんです。仕事のことを思い出して、発狂しそうなんですの!」
「そうか。ならば、落ち着くまで私が支えてやろう。……ちょうどいい、あちらの月見台で涼まないか? 貴殿に、ぜひ見せたいものがあるのだ」
「見せたいもの? まさか、新しい帳簿とかではありませんわよね?」
エーリカが警戒心を剥き出しにすると、クラウスは微かに笑った。
「いいえ。今夜は、数字の話は一切しないと誓おう。ただの『一人の男』として、貴殿と月を眺めたいだけだ」
その言葉に含まれた、あまりに真っ直ぐな熱。
エーリカは、逃げ出すタイミングを完全に失ってしまった。
温泉の熱のせいか、それとも彼の視線のせいか。
彼女の頭は、今度こそ完全に、オーバーヒートを起こしそうになっていた。
エーリカは湯船の中で、音を立てないようにじっと身を潜めた。
幸いなことに、男湯と女湯を隔てているのは、年季の入った厚い木板の壁一枚だ。
こちらが沈黙を守っていれば、隣にいるのが誰かまでは気づかれないはずである。
「閣下、やはりこのバート・マリスのお湯は格別ですな。長旅で凝り固まった筋肉が、見る見るうちに解れていくようです」
「あぁ。だが、私の心までは解れん。あの財務諸表の第三項目、やはりあそこには致命的な計算ミスがある。エーリカ殿なら、一目でそれを見抜き、冷ややかな瞳で私を蔑んでくれたはずなのだ……!」
(お湯に浸かりながら何の話をしているのよ、あの男は!)
エーリカは心の中で全力のツッコミを入れた。
蔑んでほしいだなんて、英雄と呼ばれる男が口にするセリフではない。
というか、温泉に来てまで計算ミスの話をしないでほしい。聞いているこちらの右手が、また修正ペンを求めて震え出してしまう。
「閣下、今は仕事を忘れましょう。エーリカ様も、この近くの公爵家保養地に来られているという噂ですし、明日にはお会いできるかもしれませんぞ」
「……いや、彼女は今、休息を求めている。無理に追いかけては、私という存在そのものが『残業』と同じカテゴリーに分類されてしまう。それは避けねばならん」
(もう分類されていますわよ。特大の『休日出勤』扱いですわ!)
エーリカはお湯の中で、ぷくぷくと泡を吹いた。
意外にも思慮深いことを言っているようだが、結局のところ、彼は自分を追いかけてここまで来たのだ。
ストーカー一歩手前ではないか。
「それにしても閣下、そのお体。相変わらず凄まじい鍛え方ですな。戦場を退いても、一切の妥協がない」
「騎士が牙を研ぐのをやめれば、守るべきものも守れんからな。……よし、そろそろ上がるか。あまり長湯をして、のぼせてしまっては彼女に顔向けできん」
隣の男湯から、ざばぁっという豪快な水の音が聞こえてきた。
エーリカは、彼らが完全に立ち去るまで、石像のように固まって待った。
数分後、ようやく静寂が戻ると、彼女は肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。
「……危なかったわ。あんなところで遭遇したら、裸の付き合いどころか、全裸で内政相談をされるところだったわね」
エーリカは、すっかり温まった……というより、少しのぼせ気味の体を引きずって湯船から上がった。
早く部屋に戻って、冷たいミルクでも飲んで寝てしまおう。そうすれば、今日の出来事はすべて悪い夢だったことにできる。
脱衣所で手早く着替えを済ませ、エーリカは長い廊下を歩き始めた。
旅館の廊下は、薄暗い行灯の光が情緒を醸し出している。
ふらふらと、のぼせた頭で角を曲がった、その瞬間。
「――おっと。失礼」
正面から来た大きな影と、まともにぶつかってしまった。
エーリカの小さな体が、反動で後ろに倒れそうになる。
それを、太くて熱い腕が、ガシッという確かな手応えとともに支えた。
「大丈夫か、お嬢さん。少々のぼせているようだが……」
聞き覚えのある、低く響く声。
エーリカがおそるおそる視線を上げると、そこには、はだけた浴衣の間から、彫刻のように美しく強靭な「筋肉」が鎮座していた。
「ひゃっ……!」
「……エーリカ殿?」
「ハ、ハハハ……ハインリヒ閣下。奇遇ですわね。こんなところで、野生の筋肉にお会いするなんて」
目の前にいたのは、湯上がりで髪を無造作にかき上げたクラウスだった。
普段の厳格な甲冑姿とは異なり、薄い浴衣一枚を羽織っただけの彼は、毒気が抜けるほどに男性的で、かつ、危うい色気を放っている。
「野生の、筋肉……? 貴殿、やはり相当のぼせているな。顔が真っ赤だ」
クラウスは、支えていた腕を離さず、もう片方の手でエーリカの額にそっと触れた。
冷たい指先が、熱を持った肌に触れて、エーリカの心臓が跳ね上がる。
「あ、あの。触らないでいただけます? 私、今、情緒が不安定なんです。仕事のことを思い出して、発狂しそうなんですの!」
「そうか。ならば、落ち着くまで私が支えてやろう。……ちょうどいい、あちらの月見台で涼まないか? 貴殿に、ぜひ見せたいものがあるのだ」
「見せたいもの? まさか、新しい帳簿とかではありませんわよね?」
エーリカが警戒心を剥き出しにすると、クラウスは微かに笑った。
「いいえ。今夜は、数字の話は一切しないと誓おう。ただの『一人の男』として、貴殿と月を眺めたいだけだ」
その言葉に含まれた、あまりに真っ直ぐな熱。
エーリカは、逃げ出すタイミングを完全に失ってしまった。
温泉の熱のせいか、それとも彼の視線のせいか。
彼女の頭は、今度こそ完全に、オーバーヒートを起こしそうになっていた。
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