婚約破棄? 喜んで! ついでにこれも返却しますね?

ちゅんりー

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「……本当に、数字の話はなさらないのでしょうね?」

月見台へと続く静かな廊下を歩きながら、エーリカは何度も念を押した。
隣を歩くクラウスは、湯上がりの浴衣姿という無防備な格好ながら、その佇まいは一本の研ぎ澄まされた剣のように凛としている。

「あぁ。約束しよう。今夜の私は、ハインリヒ領の主でもなければ、貴殿を追うスカウトマンでもない。ただの、少しばかり人生に迷った不器用な男だ」

「人生に迷った、ですか。閣下のような完璧超人がそんなことを仰ると、世の中のほとんどの男性が路頭に迷ってしまいますわよ」

エーリカは鼻で笑ったが、月見台に到着し、彼の横顔を盗み見て言葉を失った。
夜風に揺れる銀髪と、月光を反射する氷のような瞳。
だが、その瞳の奥には、戦場でも内政の場でも見せたことのない、深い陰影が落ちていた。

二人は月見台の縁に腰を下ろした。
眼下には、夜の静寂に包まれた渓谷と、銀色に輝く川の流れが広がっている。

「エーリカ殿。貴殿から見て、私はどのように映っている?」

唐突な問いに、エーリカは眉をひそめた。

「そうですね。……有能で、冷徹で、強引で、筋肉の密度が異常で、人の話を聞かない、仕事の鬼。といったところでしょうか」

「……最後の方は、かなり私情が入っているようだが」

「あら、客観的な事実ですわ」

クラウスは苦笑し、大きく溜息をついた。
その吐息は、白く夜気に溶けていく。

「私は、不器用なのだ。剣を振れば敵を倒せるし、命令を下せば兵は動く。だが、人の心……特に、大切にしたいと思う相手との距離感が、どうしても掴めない」

エーリカは、思わず隣を二度見した。
あの、隣国を恐怖させた「氷の騎士」が、恋愛相談のような弱音を吐いている。

「……意外ですわね。閣下なら、欲しいものは力ずくで奪い去るタイプだと思っていましたわ。現に、私のことも半ば強引に連れ去ろうとしていらっしゃるでしょう?」

「それは、貴殿がそれほどまでに価値のある女性だからだ。だが、私のこの『熱』が、貴殿にとってはただの『負担』でしかないのではないかと……最近、夜も眠れずに考えてしまうのだ」

クラウスは自嘲気味に笑い、自分の大きな掌を見つめた。

「私は、貴殿に笑ってほしい。王宮で押し付けられていた苦役から解放され、心から安らいでほしいと願っている。だが、私が貴殿に提示できるのは、結局のところ『別の仕事』でしかない」

「……」

「私は、仕事以外の言葉を知らないのだ。貴殿を口説くための甘い言葉も、心を溶かすような詩も、何一つ持ち合わせていない。だから、貴殿が最も興味を持つであろう『数字』や『課題』を餌にするしかなかった」

クラウスの声は、夜風に混じってどこか切なく響いた。
エーリカは、胸の奥を小さな針で突かれたような感覚を覚えた。

(……この人、本気で悩んでいたのね。私が『働きたくない』と言い続けていたことが、彼なりにショックだったのかしら)

王宮にいた頃、ジュリアン王子はエーリカの「労働」を当然のものとして享受していた。
彼女がどれほど疲れ、どれほど孤独だったかなど、想像すらしたことがなかっただろう。
だが、目の前の男は違う。
彼は、エーリカの「有能さ」に恋をしつつも、その「有能さ」が彼女を苦しめている矛盾に、彼自身が苦しんでいたのだ。

「閣下。……一つ、アドバイスを差し上げてもよろしいかしら?」

「あぁ、頼む。今の私には、貴殿の言葉こそが唯一の指針だ」

「相談に乗るのも『労働』に入りますので、後でしっかり相談料は請求させていただきますわよ?」

エーリカは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
クラウスは驚いたように目を見開き、それから今日一番の穏やかな顔で頷いた。

「よかろう。私の全財産を担保にしても構わん」

「そんなに要りませんわ。……いいですか、閣下。女性を口説くのに、詩や甘い言葉なんて必要ありません。少なくとも、私のような『現実主義者』には、そんなものは何の役にも立ちませんわ」

エーリカは月を見上げながら、淡々と言葉を紡ぐ。

「私が必要としているのは、私の価値を正しく理解し、私の時間を尊重し、そして……。私が疲れた時に、何も言わずに隣にいてくれる存在です」

「……隣にいるだけでいいのか?」

「ええ。小難しい改善案や、火の車のような帳簿を持ってくるのではなく。ただ、温かいお茶を淹れて、一緒に月を眺めてくれるような、そんな静かな時間ですわ」

クラウスは、エーリカの言葉を一つ一つ噛みしめるように沈黙した。
そして、彼はゆっくりと、彼女の方へと体を向けた。

「……では、今この時間は、貴殿にとっての『正解』に近いということか?」

「……。まぁ、あなたが余計な数字の話を始めなければ、の話ですけれど」

エーリカが照れ隠しに顔を背けると、クラウスの手が、そっと彼女の肩に触れた。
今度は強引な力ではなく、重さを感じさせないほどの、優しい触れ方だった。

「エーリカ。私は、貴殿の隣にいたい。仕事のパートナーとしてではなく、一人の男として。貴殿が休みたい時は私が盾となり、貴殿が何かを成し遂げたい時は私が剣となろう」

「……。随分と、コストパフォーマンスの悪い契約ですわね。閣下のような有能な方を、ただの『盾』や『剣』として使うなんて」

「あぁ。だが、それが私の望みだ。……今夜はもう、仕事の話はしない。ただ、こうして貴殿と同じ月を見ていたい」

二人の間に、心地よい沈黙が流れた。
渓谷を渡る風が、エーリカののぼせた肌を優しく冷ましていく。

(……困ったわね。こんな風に素直に『弱み』を見せられると、仕事中毒の私としては、放っておけなくなってしまうじゃない)

エーリカは、自分の胸が高鳴っているのを、温泉のせいにしようと必死に言い訳を考えていた。
だが、彼女の指先は、無意識のうちにクラウスの浴衣の袖を、ほんの少しだけ掴んでいたのである。
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