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温泉宿の庭園で、エーリカは湯上がりの火照りを冷ましながら、のんびりと庭の池を眺めていた。
隣には、相変わらず「一人の男」として寄り添っているクラウスがいる。
「……静かですわね、閣下。王宮の喧騒が嘘のようですわ」
「あぁ。ここには君を縛る書類も、君の才能を搾取する無能もいない。……と言いたいところだが、どうやら無粋な客が紛れ込んだようだな」
クラウスが鋭い視線を、庭園の隅にある大きな岩影へと向けた。
そこには、黒い頭巾を被り、いかにも「怪しい者です」と言わんばかりの格好をした男が潜んでいた。
「――出ろ。隠行の技術が甘すぎる。そんなもので私から逃げられると思っているのか?」
クラウスの威圧感に気圧されたのか、岩影から男が震えながら飛び出してきた。
「ま、待ってください! 私は刺客です! ジュリアン殿下の命を受け、エーリカ様を連れ戻しに来た、恐ろしい刺客なのです!」
「……刺客?」
エーリカは、男の顔をじっと見つめた。
どこかで見覚えがある。
「あなた、騎士団の経理担当だったボリスじゃない。その格好、どうしたの? ハロウィンの余興にはまだ早いですわよ」
「エーリカ様! お分かりになりますか!? そうです、ボリスです! 殿下が『エーリカを強引にでも連れ戻せ、できないなら刺し違えてこい』と仰るから、形だけでも刺客っぽくしてきたんです!」
ボリスと呼ばれた男は、その場で泣き崩れた。
手にした短剣は、よく見ると刃がついていない模造品だ。
「殿下はもう、パニック状態です! 『あいつがいないとパンが買えない!』『お風呂のお湯が冷たいのはエーリカの呪いだ!』と叫びながら、毎日キャベツを食べていらっしゃいます!」
「お風呂のお湯が冷たいのは、単にボイラーの予算承認を殿下が忘れたからでしょう。私が管理していた予備費を、リリアーヌ様の香水代に変えた報いですわ」
エーリカは冷淡に言い放つ。
ボリスは地面に額を擦り付けた。
「お願いします、戻ってください! あなたがいない騎士団は、今や『遠征の精算書』が書けなくて、みんな自腹で戦場に行っている状況なんです!」
「自腹で遠征……。それは騎士として誇らしいことではなくて? ボランティア精神に溢れた素晴らしい軍隊ですわ」
「無理です! 家計が破綻して離婚の危機にある騎士が続出しています! これはもう、立派な国家危機なんです!」
ボリスの悲痛な叫びに、隣で聞いていたクラウスが静かに一歩前へ出た。
「おい、刺客。いや、ボリスと言ったか」
「は、はいぃ!」
「今の話、聞き捨てならんな。ジュリアンは、私のエーリカを、そんな地獄のような職場に戻そうとしているのか?」
クラウスの背後から、目に見えるような漆黒のオーラが立ち昇る。
ボリスは恐怖で歯をガタガタと鳴らした。
「い、いいえ! 殿下は『戻ってきてくれたら、給料を二倍にする』と……!」
「二倍? 笑わせるな。私が彼女を我が領に迎える際は、私の財産の半分を譲渡し、労働時間も彼女の自由、さらには毎日私が淹れた茶を供すると決めている」
「さ、三倍……三倍ではいかがでしょう……?」
「桁が違うのだ、小僧。消えろ。さもなくば、その模造品の短剣で自分を刺すことになるぞ」
クラウスの殺気に、ボリスは「ひぃっ!」と叫び声を上げて、脱兎のごとく逃げ出した。
嵐のような去り際に、エーリカは呆れたように肩をすくめる。
「……閣下。いつから私の給料が『閣下の財産の半分』になったのですか?」
「今決めた。いや、少なすぎたか? 全財産でも構わんぞ」
「そういう問題ではありませんわ。……でも、刺客まで送ってくるなんて。あの王子、本当に追い詰められているようね」
エーリカは遠い空を見上げた。
かつて自分が必死に守った国が、キャベツと精算書の山で沈んでいく。
それは少しだけ痛快で、そして、それ以上に「もう自分には関係のないことだ」という解放感に満ちていた。
「大丈夫だ、エーリカ。何が来ようと、私が君を守る」
「閣下がいると、守られているというよりは『新しい職場に監禁』されそうな気がしますけれど」
「ははは。買い被りすぎだ。私はただの、君の淹れたスープを愛する一人の男だよ」
エーリカは、クラウスの少しズレた優しさに、また一つ溜息をついた。
休日の終わりはまだ遠そうだが、退屈だけはしなさそうであった。
隣には、相変わらず「一人の男」として寄り添っているクラウスがいる。
「……静かですわね、閣下。王宮の喧騒が嘘のようですわ」
「あぁ。ここには君を縛る書類も、君の才能を搾取する無能もいない。……と言いたいところだが、どうやら無粋な客が紛れ込んだようだな」
クラウスが鋭い視線を、庭園の隅にある大きな岩影へと向けた。
そこには、黒い頭巾を被り、いかにも「怪しい者です」と言わんばかりの格好をした男が潜んでいた。
「――出ろ。隠行の技術が甘すぎる。そんなもので私から逃げられると思っているのか?」
クラウスの威圧感に気圧されたのか、岩影から男が震えながら飛び出してきた。
「ま、待ってください! 私は刺客です! ジュリアン殿下の命を受け、エーリカ様を連れ戻しに来た、恐ろしい刺客なのです!」
「……刺客?」
エーリカは、男の顔をじっと見つめた。
どこかで見覚えがある。
「あなた、騎士団の経理担当だったボリスじゃない。その格好、どうしたの? ハロウィンの余興にはまだ早いですわよ」
「エーリカ様! お分かりになりますか!? そうです、ボリスです! 殿下が『エーリカを強引にでも連れ戻せ、できないなら刺し違えてこい』と仰るから、形だけでも刺客っぽくしてきたんです!」
ボリスと呼ばれた男は、その場で泣き崩れた。
手にした短剣は、よく見ると刃がついていない模造品だ。
「殿下はもう、パニック状態です! 『あいつがいないとパンが買えない!』『お風呂のお湯が冷たいのはエーリカの呪いだ!』と叫びながら、毎日キャベツを食べていらっしゃいます!」
「お風呂のお湯が冷たいのは、単にボイラーの予算承認を殿下が忘れたからでしょう。私が管理していた予備費を、リリアーヌ様の香水代に変えた報いですわ」
エーリカは冷淡に言い放つ。
ボリスは地面に額を擦り付けた。
「お願いします、戻ってください! あなたがいない騎士団は、今や『遠征の精算書』が書けなくて、みんな自腹で戦場に行っている状況なんです!」
「自腹で遠征……。それは騎士として誇らしいことではなくて? ボランティア精神に溢れた素晴らしい軍隊ですわ」
「無理です! 家計が破綻して離婚の危機にある騎士が続出しています! これはもう、立派な国家危機なんです!」
ボリスの悲痛な叫びに、隣で聞いていたクラウスが静かに一歩前へ出た。
「おい、刺客。いや、ボリスと言ったか」
「は、はいぃ!」
「今の話、聞き捨てならんな。ジュリアンは、私のエーリカを、そんな地獄のような職場に戻そうとしているのか?」
クラウスの背後から、目に見えるような漆黒のオーラが立ち昇る。
ボリスは恐怖で歯をガタガタと鳴らした。
「い、いいえ! 殿下は『戻ってきてくれたら、給料を二倍にする』と……!」
「二倍? 笑わせるな。私が彼女を我が領に迎える際は、私の財産の半分を譲渡し、労働時間も彼女の自由、さらには毎日私が淹れた茶を供すると決めている」
「さ、三倍……三倍ではいかがでしょう……?」
「桁が違うのだ、小僧。消えろ。さもなくば、その模造品の短剣で自分を刺すことになるぞ」
クラウスの殺気に、ボリスは「ひぃっ!」と叫び声を上げて、脱兎のごとく逃げ出した。
嵐のような去り際に、エーリカは呆れたように肩をすくめる。
「……閣下。いつから私の給料が『閣下の財産の半分』になったのですか?」
「今決めた。いや、少なすぎたか? 全財産でも構わんぞ」
「そういう問題ではありませんわ。……でも、刺客まで送ってくるなんて。あの王子、本当に追い詰められているようね」
エーリカは遠い空を見上げた。
かつて自分が必死に守った国が、キャベツと精算書の山で沈んでいく。
それは少しだけ痛快で、そして、それ以上に「もう自分には関係のないことだ」という解放感に満ちていた。
「大丈夫だ、エーリカ。何が来ようと、私が君を守る」
「閣下がいると、守られているというよりは『新しい職場に監禁』されそうな気がしますけれど」
「ははは。買い被りすぎだ。私はただの、君の淹れたスープを愛する一人の男だよ」
エーリカは、クラウスの少しズレた優しさに、また一つ溜息をついた。
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