婚約破棄ですか? 結構です。慰謝料代わりに「魔物が湧く不毛の地」をください。

ちゅんりー

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「シスイ・ランカスター! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」

王立学園の卒業記念パーティー。

シャンデリアの煌めきと、着飾った貴族たちの喧騒。

その中心で、この国の王太子であるジュリアン殿下が、高らかに宣言した。

彼の隣には、小動物のように震える男爵令嬢、ミアの姿がある。

周囲の令嬢たちが扇子で口元を隠し、ざわめきが波紋のように広がっていく。

「あら、まあ……」

「ついにあの方が……」

「『氷の悪女』と噂されるランカスター公爵令嬢が、断罪されるのね」

好奇の視線が、一斉に私――シスイ・ランカスターへと注がれた。

普通の令嬢であれば、ここで顔面蒼白になり、あるいは涙を流して崩れ落ちるのが通例だろう。

しかし、私はゆっくりと扇子を閉じ、懐中時計を一瞥した。

午後七時三十二分。

予定より二分遅い。

殿下は相変わらず、時間の管理もできないらしい。

私は静かに顔を上げ、冷ややかな視線で元婚約者を見据えた。

「承知いたしました」

会場が、しんと静まり返る。

ジュリアン殿下が、予想外の反応に眉をひそめた。

「……は? 承知した、だと?」

「ええ。殿下がおっしゃったのは、私との婚約破棄ですよね? 確かに承りました」

私は淡々と答え、ハンドバッグから一枚の書類を取り出した。

上質な羊皮紙に、びっしりと条文が書き連ねられた合意書だ。

「な、なんだそれは」

「婚約破棄の合意書です。すでに私の署名は済ませてあります。あとは殿下がサインなさるだけで、法的に効力を持ちます」

「貴様……最初からこのつもりだったのか!?」

殿下の顔が赤く染まる。

無理もない。

断罪劇の主役として、私が泣いて縋る姿を想像していたのだろう。

だが、私にとってこの婚約は、長年にわたる「不良債権」でしかなかった。

浪費癖のある王太子。

実務能力の欠如。

そして、あからさまな浮気。

彼との結婚生活がもたらすであろう損失を試算した時、私の脳内コンピューターは常に「損切り」という答えを弾き出していたのだ。

「シスイ! その態度はなんだ! 自分が何をしたか分かっていないのか!」

殿下が声を荒らげる。

どうやら、まだ茶番を続けるつもりらしい。

私は小さく溜息をついた。

時間の無駄だ。

「私が何をしたとおっしゃるのですか?」

「とぼけるな! ミアへの陰湿な嫌がらせの数々だ!」

殿下がミアの肩を抱き寄せ、彼女が涙目で私を見上げる。

「シスイ様……ごめんなさい。私の身分が低いからって、教科書を破いたり、階段から突き落とそうとしたり……怖かったです」

会場から非難の声が上がる。

しかし、私は眉一つ動かさなかった。

「訂正させていただきます。まず、教科書についてですが、あれは彼女が計算式を間違えていたため、私が赤ペンで修正を入れて差し上げたのです。破れたのは、彼女が驚いて引っ張ったからでは?」

「えっ……」

「次に階段の件。あれは手すりの老朽化を調査していた際、彼女が勝手にバランスを崩して私にぶつかってきたのです。私はそれを支えようとして、二人で転びかけた。違いますか?」

「そ、それは……」

ミアが口ごもる。

私の行動は全て「効率」と「事実」に基づいている。

だが、感情論で生きる彼らには、それが「冷酷な嫌がらせ」に映るらしい。

説明するコストすら惜しい。

「まあ、過去の査定はどうでもよろしいですわ。重要なのは『今』です。殿下、婚約破棄をご希望なら、迅速に手続きを」

私は従者に命じ、筆とインクを用意させた。

殿下は鼻白んだ様子で、それでも勝ち誇ったように笑った。

「ふん、強がりを。公爵家から勘当されるのが怖くないのか? お前の実家も、今回の件で激怒していると聞くぞ」

「ええ、存じております」

父からは「可愛げのない娘だ」と常々言われてきた。

今回の騒動を口実に、私を追放しようとしているのも計算済みだ。

「家も、地位も、婚約者も失う。貴様にはもう何もない。哀れな女だ」

殿下が嘲笑う。

ミアも、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

私は心の中で、パチパチとそろばんを弾いた。

そう。

これこそが、私の狙い。

公爵家というしがらみからの解放。

そして、無能な婚約者からの脱却。

これらを同時に達成できる、またとないチャンス。

「お気遣い痛み入ります。ですが、ビジネスの話をしましょう」

「ビジネスだと?」

「婚約破棄にあたり、王家には正当な慰謝料を請求させていただきます。これは契約上の権利です」

会場が再びざわめいた。

王族に金を請求するなど、前代未聞だ。

殿下の顔が引きつる。

「……金だと? 王家の金庫が厳しいことは知っているだろう! 貴様の浪費癖のせいでな!」

「私のドレスは全て自費で賄っております。王家の予算を食いつぶしているのは、そちらの『聖女気取り』の方へのプレゼント代では?」

「貴様ッ!」

「まあ、落ち着いてください。現金がないことは存じております。ですので、現物支給で手を打ちましょう」

私は合意書の末尾を指差した。

そこには、慰謝料の代わりとなる譲渡条件が記されている。

「現物……? 宝石か? ドレスか?」

「いいえ」

私はにっこりと微笑んだ。

商談成立の予感に、自然と口角が上がる。

「私が頂きたいのは、北の果て。バルバトス辺境伯領に隣接する、あの『土地』です」

殿下が目を丸くした。

周囲の貴族たちも、耳を疑うように顔を見合わせている。

「……は? あの『死の荒野』か?」

そこは、不毛の地として知られる場所だった。

草木も生えず、魔物が徘徊し、ただ土煙が舞うだけの厄介な土地。

王家にとっても、管理費だけで赤字になる負動産だ。

「あんなゴミ捨て場を欲しがって、どうするつもりだ? 気でも狂ったか?」

「ええ、私の老後の隠居場所にはお似合いでしょう? 現金がご用意できないのでしたら、あの土地の権利書で手を打ちます。いかがですか?」

殿下は、こらえきれないように吹き出した。

「ははは! 傑作だ! いいだろう、くれてやる! あんな土地、いくらでも持っていくがいい!」

「ありがとうございます。では、こちらにサインを」

殿下は、震える手で――笑いを堪えているのだ――サインをした。

その瞬間、契約は成立した。

私は書類を丁寧に折りたたみ、大切に懐へとしまう。

(交渉成立。利益率、測定不能)

あの土地の価値を知らない愚か者たち。

私の調査によれば、あの荒野の地下には、豊富な温泉脈が眠っている。

さらに、そこに出る魔物の素材は、希少な資源として高値で取引される可能性が高い。

あそこはゴミ捨て場ではない。

手つかずの宝の山なのだ。

「では、私はこれにて失礼いたします。皆様、残りのパーティーをお楽しみください」

私は優雅にカーテシーをした。

その動作には、一点の曇りもない。

「待て、シスイ! 本当に後悔しないんだな! 野垂れ死んでも知らんぞ!」

背後から投げかけられた殿下の捨て台詞に、私は振り返らずに答えた。

「ご心配なく。……ああ、そうだ」

私は最後に一度だけ足を止め、肩越しに彼らを見た。

「殿下も、その方を大切になさってくださいね。維持費がかかりそうな方ですが」

ミアの顔色がさっと変わるのを横目に、私はホールを後にした。

扉を開けると、夜風が心地よく頬を撫でた。

自由だ。

そして、これから始まるのは、私だけのビジネス。

「さて……まずは現地視察といきましょうか」

私は夜空に向かって、不敵な笑みをこぼした。

私の本当の人生は、ここから黒字へと転換するのだ。
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