婚約破棄ですか? 結構です。慰謝料代わりに「魔物が湧く不毛の地」をください。

ちゅんりー

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「じょ、嬢ちゃん……悪いが、これ以上は無理だ」

御者の震える声とともに、馬車が停止した。

私は揺れで少し痛くなった腰をさすりながら、幌の隙間から外を覗いた。

そこは、世界の色が消え失せたような場所だった。

鉛色の空。

吹き荒れる冷たい風。

そして目の前にそびえ立つのは、黒い石で積み上げられた巨大な城壁。

ここが、北方防衛の要所、バルバトス辺境伯領の国境砦だ。

「ここが終点ですか? 契約では、砦の向こう側まで送ってもらうはずでしたが」

「勘弁してくれよ! あそこから先は『死の荒野』だぞ!? 魔物の雄叫びが聞こえるだろうが!」

御者が指差す先、城壁の向こう側からは、確かに地響きのような唸り声が微かに聞こえてくる。

普通の人間なら尻尾を巻いて逃げ出す光景だ。

しかし、私は懐中時計を確認し、冷静に計算機(魔道具ではなく、手動の歯車式計算機)を取り出した。

「ふむ。目的地手前での契約不履行ですね。規定により、運賃の三割を返金していただきます」

「へっ!? こ、こんな場所まで送ってやったのにか!?」

「契約は絶対です。ですが……そうですね。ここまで迅速に、かつ荷物を丁寧に運んでくれた技術料として、チップを差し引きましょう。返金は二割で結構です」

「あ、ありがてぇ……のか? よく分からねえが、とにかく降りてくれ!」

私は荷物を抱えて馬車を降りた。

御者は私が降りるやいなや、脱兎のごとく馬車を走らせて逃げ帰っていった。

取り残されたのは、私と、吹きすさぶ寒風だけ。

「さて……」

私は寒さに身震いすることなく、むしろ期待に胸を膨らませて城壁を見上げた。

ここを越えれば、私の土地だ。

私のビジネスフィールドだ。

私は身なりを整えた。

着ているのは実用的な旅装だが、公爵令嬢としての品位(と商談用のハッタリ)を保つため、背筋をピンと伸ばす。

コツ、コツ、とヒールの音を響かせながら、砦の巨大な鉄門へと歩み寄った。

「止まれッ!!」

門の上から、鋭い声が飛んできた。

武装した兵士たちが、一斉に弓を構える。

「何者だ! ここは立ち入り禁止区域だぞ! 貴族の令嬢がピクニックに来る場所ではない!」

「ピクニックではありません。不動産の視察です」

「はあ? ふざけるな! 直ちに立ち去れ!」

予想通りの反応だ。

私は懐から、王家の印章が押された羊皮紙を取り出し、掲げようとした。

その時だ。

ギギギ……と重々しい音を立てて、鉄門の小扉が開いた。

そこから現れたのは、数名の騎士を引き連れた、一人の男だった。

「騒がしいぞ。何事だ」

低く、腹の底に響くようなバリトンボイス。

周囲の空気が、一瞬で凍りついたかのような威圧感。

現れたのは、長身の青年だった。

黒檀のような漆黒の髪。

凍てつく氷河を思わせる、冷ややかな青い瞳。

鍛え抜かれた肉体は、厚手の軍服の上からでもはっきりと分かるほど逞しい。

リュカ・バルバトス辺境伯。

「氷の公爵」と恐れられる、この地の支配者だ。

(……ほう)

私は心の中で、パチパチとそろばんを弾いた。

顔立ち、百点満点。

体格、百二十点。

現場作業員(肉体労働要員)としてのポテンシャルは計り知れない。

ただ、その目の下に刻まれた深いクマと、肌の乾燥具合が気になる。

(過労ね。それに栄養バランスも悪そう。……これは、需要があるわ)

リュカは私を一瞥すると、侮蔑とも憐れみとも取れる視線を向けた。

「女……? こんな最果ての地に、何の用だ。ここは遊び場ではない」

「お初にお目にかかります、バルバトス辺境伯閣下。私はシスイ・ランカスター。……いえ、今はただのシスイですね」

私は優雅にカーテシーをした。

リュカの眉がぴくりと動く。

「ランカスター? 王都の公爵令嬢か。……噂は聞いている。『氷の悪女』とかなんとか。だが、なぜその悪女がここにいる」

「端的に申し上げます。お隣に引っ越してきましたので、ご挨拶に」

「……は?」

リュカの無表情が崩れた。

周囲の兵士たちも、ポカンと口を開けている。

「引っ越しだと? どこにだ。この辺りに屋敷などないぞ」

「あちらです」

私は指差した。

リュカの背後。

魔物が跋扈し、草木も生えない不毛の大地を。

「……あそこは、『死の荒野』だぞ」

「ええ。先日、王家より正式に譲渡されました。私の私有地です」

私は王家の署名入り譲渡証をリュカに手渡した。

彼はそれをひったくるように受け取り、険しい顔で目を通す。

「……正気か。婚約破棄の慰謝料が、この土地だと? 王太子も王太子だが、それを受け入れたお前も狂っている」

「狂っていません。計算通りです」

「計算? あんな場所、死にに行くようなものだ。魔物の餌になりたいのか?」

リュカの声に、怒気が混じる。

彼は冷徹と言われているが、その実は領民や部下を大切にする責任感の強い男だ。

だからこそ、自殺行為にしか見えない私の行動が許せないのだろう。

(いい性格ね。信頼できる取引先だわ)

私は一歩も引かず、彼の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「ご心配には及びません、閣下。私は死にに行くのではありません。稼ぎに行くのです」

「稼ぐ……?」

「ええ。そこで、閣下に商談があります」

私は右手を差し出した。

「私の土地へ行くには、閣下の領地を通るのが最短ルートです。領内の通行許可と、物流ルートの使用許可を頂きたいのです。もちろん、タダとは言いません」

「……」

「通行料として、私の土地で上がった利益の五パーセントを、バルバトス家に上納いたします。また、雇用創出による地域経済の活性化もお約束しましょう」

リュカは、差し出された私の手を見つめ、それから呆れたように溜息をついた。

「……利益だと? あんな不毛の地で、何が産まれるというんだ。泥と魔物の死骸か?」

「それらが『金』に変わるのです。私の計算に間違いはありません」

私の瞳に迷いがないことを見て取ったのか、リュカの纏う空気がわずかに変わった。

警戒心から、興味へ。

彼は私の手を握り返すことはしなかったが、顎で背後をしゃくった。

「……好きにしろ。だが、死んでも助けないぞ」

「はい、自己責任はビジネスの基本ですから」

「ただし」

リュカが鋭い眼光で私を射抜く。

「俺の領地で面倒を起こすなよ。もし領民に害が及ぶようなことがあれば、その時は俺がこの手で貴様を斬る」

「肝に銘じます。……あ、それと閣下」

「なんだ、まだあるのか」

私はマジックバッグから、小瓶を一つ取り出した。

実家を出る前に調合しておいた、試作段階の美容クリームだ。

「目の下のクマ、酷いですね。これ、サンプルですが差し上げます。寝る前に塗ると良いですよ」

「は……?」

リュカが呆気にとられている隙に、私は強引に彼の手の平に小瓶を押し付けた。

「では、交渉成立ということで。通行許可証の発行、お待ちしております」

私は再び優雅に一礼すると、呆然とする騎士たちの間をすり抜け、堂々と「死の荒野」へと足を踏み入れた。

背後から、リュカの戸惑うような声が聞こえた。

「……なんだ、あの女は」

その呟きを聞きながら、私は口元を緩めた。

第一印象、インパクト大。

これで彼の記憶には残ったはずだ。

次は、実益を見せて黙らせる番だ。

足元の土は乾き、ひび割れている。

遠くで魔物の遠吠えが聞こえる。

だが、私には見える。

この乾いた大地の底に眠る、黄金の源泉が。

「さあ、始めましょうか。私の国作りを」

私は荒野の風を胸いっぱいに吸い込んだ。

それは、自由と、未だかつてない利益の匂いがした。
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