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国境を越えて数時間、ようやく辿り着いたのは「国境の宿」とは名ばかりの、今にも崩れそうな木造二階建ての建物だった。
看板は半分に割れ、風が吹くたびに不吉な音を立てている。普通のお嬢様なら泣いて逃げ出すレベルの惨状だが、私の目には「改善の余地しかない優良物件」に映っていた。
「バルト、見て。この立地、最高だわ。街道の分岐点に位置していて、しかも裏手には良質な湧き水がある。建物の補強と導線の整理をすれば、宿泊単価を三割は上げられるわね」
「……お嬢様、お願いですから一度『経営』という言葉を忘れて休憩してください。私はお嬢様の精神状態が本当に心配なんです」
バルトが死んだ魚のような目で荷物を運び出す中、私は埃っぽい食堂のテーブルを陣取り、さっそく「ガラガラ地方・第一期開発計画書」の清書を始めた。
すると、食堂の隅で一人、帳簿を広げて唸っている男がいた。
仕立ての良い旅装を纏っているが、その表情は険しい。彼は手元の計算尺と睨めっこしながら、何度も頭を掻きむしっている。
私は横目でその帳簿をチラリと盗み見た。……見てしまった。
「……あの、失礼ですが。その三行目の減価償却費の計算、桁が一つ違っていましてよ? あと、物流コストに魔物遭遇時のリスクヘッジ費用が算入されていないようですけれど、それだと三ヶ月でキャッシュフローがショートしますわ」
沈黙が食堂を支配した。
男はゆっくりと顔を上げ、驚愕に目を見開いて私を凝視した。
「……なんだって? 今、君、なんて言った?」
「ですから、その計算式では破綻すると申し上げたのです。おそらく隣国への毛皮輸送ルートの構築を検討されているのでしょうけれど、今の関税率と護衛の雇用相場を考えれば、利益率は五パーセントを切ります。ボランティアで商売をなさるおつもり?」
男は椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がり、私のテーブルへ歩み寄ってきた。
近くで見ると、なかなかの美形だ。鋭い知性を感じさせる灰色の瞳に、整った鼻筋。しかし、今の私にとって彼は「数字の弱い商談相手」に過ぎない。
「君……なぜ一瞬見ただけで、これが毛皮の輸送計画だと分かった? それに、この複雑な計算を暗算で?」
「複雑? 四則演算に少しの変数を加えただけの、ただの算数ではありませんか。私はこれよりも遥かに難解な、我が国の……いえ、元いた国の複雑怪奇な特別会計予算を一人で処理しておりましたの。これくらい、お茶を淹れる間に終わりますわ」
私は万年筆を回しながら、優雅に微笑んでみせた。
男は呆然とした後、不敵な笑みを浮かべて私の向かいの席に勝手に座った。
「面白い。……僕はゼスト・グランツ。これでも隣国では『凄腕』で通っている商人なんだが、まさかこんな国境のボロ宿で、自分より数字に強い令嬢に出会うとはね」
「お褒めに預かり光栄ですわ、ゼスト様。私はカタール・ド・オシエル。見ての通り、本日付で職を失った……いえ、自由を手に入れたただの追放者です」
「追放者? その頭脳を持っていて? ハハハ! 君を追い出した国は、よほどの馬鹿が治めているんだな」
ゼストは愉快そうに笑い、懐から一枚の書状を取り出した。
「カタール、と言ったかな。もし君が暇をしているなら、僕の商会の『帳簿顧問』にならないか? 報酬は君の言い値で構わない。君のような計算機……失礼、知性の塊を放っておくのは、商人として最大の損失だ」
「あら、素敵なオファーですこと。ですが、あいにく私は今、自分の『新事業』に忙しいのです。ガラガラ地方を一大リゾート鉱山都市にするという国家規模のプロジェクトを抱えておりますので」
今度はゼストが絶句する番だった。
「ガラガラ地方をリゾートに……? あそこの岩場をか? 正気かい?」
「大真面目ですわ。ですからゼスト様、もし再雇用……いえ、私と契約したいのであれば、顧問としてではなく『対等なビジネスパートナー』としての見積書を提出してくださいませ。あ、輸送網の確保はそちらにお任せしたいので、その分のマージンは考慮して差し上げますわよ?」
私は計画書の表紙を彼に見せつけ、不敵に笑い返した。
ゼストの瞳に、単なる好奇心ではない、深い「執着」と「熱意」が灯るのが分かった。
「……対等、か。いいだろう。君を『道具』として雇おうなんて考えた僕が浅はかだった。カタール、君がその不毛の地で何を成し遂げるのか、一番近くで投資家として見守らせてもらおうじゃないか」
「投資にはリスクが伴いますけれど、よろしいかしら?」
「ハイリターンが期待できるなら、全財産を賭けるのが商人の性だよ」
こうして、私に「最高の物流担当(ヒーロー候補)」が転がり込んできた。
利用できるものは、たとえ隣国の凄腕商人であろうと全力で利用する。それが私のポリシーだ。
(エリック殿下、見ていらっしゃいますか? あなたが捨てた私は、追放初日で最高のビジネスパートナーを手に入れましたわよ!)
私は心の中で元婚約者に盛大な中指を立てながら、ゼストが持っていた帳簿の「間違い」を、これでもかというほど赤ペンで修正し始めた。
看板は半分に割れ、風が吹くたびに不吉な音を立てている。普通のお嬢様なら泣いて逃げ出すレベルの惨状だが、私の目には「改善の余地しかない優良物件」に映っていた。
「バルト、見て。この立地、最高だわ。街道の分岐点に位置していて、しかも裏手には良質な湧き水がある。建物の補強と導線の整理をすれば、宿泊単価を三割は上げられるわね」
「……お嬢様、お願いですから一度『経営』という言葉を忘れて休憩してください。私はお嬢様の精神状態が本当に心配なんです」
バルトが死んだ魚のような目で荷物を運び出す中、私は埃っぽい食堂のテーブルを陣取り、さっそく「ガラガラ地方・第一期開発計画書」の清書を始めた。
すると、食堂の隅で一人、帳簿を広げて唸っている男がいた。
仕立ての良い旅装を纏っているが、その表情は険しい。彼は手元の計算尺と睨めっこしながら、何度も頭を掻きむしっている。
私は横目でその帳簿をチラリと盗み見た。……見てしまった。
「……あの、失礼ですが。その三行目の減価償却費の計算、桁が一つ違っていましてよ? あと、物流コストに魔物遭遇時のリスクヘッジ費用が算入されていないようですけれど、それだと三ヶ月でキャッシュフローがショートしますわ」
沈黙が食堂を支配した。
男はゆっくりと顔を上げ、驚愕に目を見開いて私を凝視した。
「……なんだって? 今、君、なんて言った?」
「ですから、その計算式では破綻すると申し上げたのです。おそらく隣国への毛皮輸送ルートの構築を検討されているのでしょうけれど、今の関税率と護衛の雇用相場を考えれば、利益率は五パーセントを切ります。ボランティアで商売をなさるおつもり?」
男は椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がり、私のテーブルへ歩み寄ってきた。
近くで見ると、なかなかの美形だ。鋭い知性を感じさせる灰色の瞳に、整った鼻筋。しかし、今の私にとって彼は「数字の弱い商談相手」に過ぎない。
「君……なぜ一瞬見ただけで、これが毛皮の輸送計画だと分かった? それに、この複雑な計算を暗算で?」
「複雑? 四則演算に少しの変数を加えただけの、ただの算数ではありませんか。私はこれよりも遥かに難解な、我が国の……いえ、元いた国の複雑怪奇な特別会計予算を一人で処理しておりましたの。これくらい、お茶を淹れる間に終わりますわ」
私は万年筆を回しながら、優雅に微笑んでみせた。
男は呆然とした後、不敵な笑みを浮かべて私の向かいの席に勝手に座った。
「面白い。……僕はゼスト・グランツ。これでも隣国では『凄腕』で通っている商人なんだが、まさかこんな国境のボロ宿で、自分より数字に強い令嬢に出会うとはね」
「お褒めに預かり光栄ですわ、ゼスト様。私はカタール・ド・オシエル。見ての通り、本日付で職を失った……いえ、自由を手に入れたただの追放者です」
「追放者? その頭脳を持っていて? ハハハ! 君を追い出した国は、よほどの馬鹿が治めているんだな」
ゼストは愉快そうに笑い、懐から一枚の書状を取り出した。
「カタール、と言ったかな。もし君が暇をしているなら、僕の商会の『帳簿顧問』にならないか? 報酬は君の言い値で構わない。君のような計算機……失礼、知性の塊を放っておくのは、商人として最大の損失だ」
「あら、素敵なオファーですこと。ですが、あいにく私は今、自分の『新事業』に忙しいのです。ガラガラ地方を一大リゾート鉱山都市にするという国家規模のプロジェクトを抱えておりますので」
今度はゼストが絶句する番だった。
「ガラガラ地方をリゾートに……? あそこの岩場をか? 正気かい?」
「大真面目ですわ。ですからゼスト様、もし再雇用……いえ、私と契約したいのであれば、顧問としてではなく『対等なビジネスパートナー』としての見積書を提出してくださいませ。あ、輸送網の確保はそちらにお任せしたいので、その分のマージンは考慮して差し上げますわよ?」
私は計画書の表紙を彼に見せつけ、不敵に笑い返した。
ゼストの瞳に、単なる好奇心ではない、深い「執着」と「熱意」が灯るのが分かった。
「……対等、か。いいだろう。君を『道具』として雇おうなんて考えた僕が浅はかだった。カタール、君がその不毛の地で何を成し遂げるのか、一番近くで投資家として見守らせてもらおうじゃないか」
「投資にはリスクが伴いますけれど、よろしいかしら?」
「ハイリターンが期待できるなら、全財産を賭けるのが商人の性だよ」
こうして、私に「最高の物流担当(ヒーロー候補)」が転がり込んできた。
利用できるものは、たとえ隣国の凄腕商人であろうと全力で利用する。それが私のポリシーだ。
(エリック殿下、見ていらっしゃいますか? あなたが捨てた私は、追放初日で最高のビジネスパートナーを手に入れましたわよ!)
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