婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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高級レストラン『銀の匙』。

王都でも予約困難なこの店で、アムリーは真剣な眼差しで皿を見つめていた。

「……素晴らしい」

「気に入ってくれたか?」

向かいに座るギルバートが、ワイングラスを傾けながら微笑む。

アムリーはフォークを指揮棒のように振るった。

「ええ、感動しました。このコンソメスープ、原価率は恐らく三割を切っています。それでいて、この満足度。野菜の端材をブイヨンに再利用し、コストを抑えつつ風味を出す……。まさに効率化の極みです!」

「……そこか」

ギルバートは苦笑するが、不快そうではない。

むしろ、色気より食い気(と原価計算)な婚約者が面白くて仕方ないようだ。

「デザートも頼んでいいぞ」

「では、季節のフルーツタルトを。あれは季節限定という付加価値をつけることで、単価を二割高く設定している戦略商品ですね。あえてその戦略に乗って差し上げましょう」

「君との食事は、経済学の講義を受けているようで勉強になるよ」

甘い雰囲気は皆無。

だが、アムリーにとってこれ以上ないほど居心地の良い「接待」だった。

(美味しいご飯が食べられて、しかも経費。宰相補佐、最高の職種ね!)

アムリーはタルトを頬張りながら、心の中でガッツポーズをした。

借金五億という事実は重いが、この待遇なら耐えられる。

そう確信した夜だった。

          ◇

翌日。

アムリーが宰相執務室で「文房具の無駄遣い削減計画」を立案していたときのことだ。

バタン! と乱暴に扉が開かれた。

「ベルンシュタイン嬢! 王太子殿下がお呼びだ!」

入ってきたのは、カイル王太子の近衛兵だった。

周囲の文官たちがざわつく。

しかし、アムリーは書類から目を離さずに答えた。

「アポイントメントはいただいておりませんが」

「殿下の命令だ! 今すぐ来い!」

「現在、私はライオット公爵閣下の指揮下にあります。閣下の許可なしに離席することは契約違反となりますので」

「問答無用だ!」

近衛兵は強引にアムリーの二の腕を掴もうとした。

その瞬間。

「――私の部下に触れるな」

室内の温度が五度は下がった。

書類の山から顔を上げたギルバートが、氷点下の視線を近衛兵に向けている。

「ひっ、か、閣下……」

「アムリーは今、重要な業務中だ。カイル殿下が用があるなら、正規の手続きを踏んで申請しろと伝えろ」

「し、しかし、緊急事態でして……! 国の存亡に関わると……!」

国の存亡。

その言葉に、ギルバートとアムリーは顔を見合わせた。

「……仕方ない」

ギルバートはため息をつき、立ち上がった。

「私も同行しよう。アムリー、いいか?」

「はい。残業代の申請準備はできております」

二人は連れ立って、王太子執務室へと向かった。

          ◇

王太子執務室の扉を開けた瞬間、異臭が鼻をついた。

カビの匂いではない。

甘ったるい香水の匂いと、焦げた紙の匂い、そして男の汗の匂いが混ざったカオスな香りだ。

「遅いぞアムリー!」

部屋の奥から、やつれ果てたカイルが叫んだ。

その姿は見る影もない。

目の下にはクマ、髪はボサボサ、服にはインクの染み。

そして部屋の中は、泥棒が入った後の方がまだマシだと思えるほどの散らかりようだった。

「お呼びでしょうか、殿下」

アムリーはハンカチで鼻を押さえながら、冷静に尋ねた。

カイルは書類の山をかき分けて歩み寄ってくる。

「お呼びでしょうか、じゃない! 見てみろこの惨状を! 業務が全く回らん!」

「それは殿下のマネジメント能力の問題かと」

「うるさい! お前がいなくなってから、何もかも上手くいかないんだ!」

カイルはバンと机を叩いた。

「特別に許してやる! 今すぐ戻ってこい! そしてこの書類を今日中に片付けろ!」

アムリーは瞬きを一つした。

そして、隣にいるギルバートを見上げる。

「閣下、通訳をお願いします。『許してやる』とは、どういう意味でしょうか? 私は何か罪を犯しましたか?」

ギルバートは肩をすくめた。

「恐らく『自分は無能なので助けてください』という懇願を、王族特有のプライドというフィルターを通して翻訳した言葉だろう」

「なるほど。解読ありがとうございます」

アムリーは納得したように頷き、カイルに向き直った。

「お断りします」

「なっ……!?」

「私はすでにライオット公爵家と雇用契約……いえ、婚約を結んでおります。二重契約は法律で禁止されています」

「そんなもの、俺の権限で無効にしてやる! 大体、お前だって俺のそばにいたいだろう!? 強がるな!」

カイルの自信はどこから湧いてくるのか、もはやホラーの領域だった。

その時、書類の山から「もぞもぞ」と何かが這い出してきた。

ミナである。

「アムリー様ぁ……」

彼女は涙目で、変な色に染まった書類(恐らくジュースをこぼした)を持っていた。

「ひどいんですぅ。ミナが一生懸命、『あいうえお順』じゃなくて『紙の大きさ順』に並べ替えてあげたのに、カイル様が怒るんですぅ」

「……」

アムリーは絶句した。

日付順でも案件別でもなく、サイズ順。

それは検索性を著しく低下させる、最もやってはいけない整理法だ。

「ミナ様。それは整理ではなく、ただの積み木遊びです」

「ひどぉい! 可愛く並べたのに!」

「可愛さで国は治まりません」

アムリーはバッサリと切り捨てた。

カイルが焦ったように割り込む。

「と、とにかく! ミナは聖女としての祈祷で忙しいんだ! 事務仕事はお前の役目だろう! さあ、席に戻れ!」

カイルはアムリーの腕を引こうとする。

アムリーは一歩下がってそれを避けると、懐から愛用の電卓とメモ帳を取り出した。

「……どうしても、とおっしゃるのなら」

「お、おう! 戻ってくる気になったか!」

「『外部コンサルタント』としてのスポット契約なら、検討いたします」

「こんさる……?」

アムリーはサラサラとメモ帳に数字を書き込んでいく。

「まず、基本料金。一時間あたり金貨十枚」

「はあああああ!?」

カイルと近衛兵の目が飛び出た。

金貨十枚といえば、一般市民の年収に匹敵する。

「高い! ぼったくりだ!」

「専門技術職ですので。次に、特殊手当。殿下の散らかした書類の捜索費用として、一件につき金貨五枚。ミナ様が汚した書類の復元作業費、一枚につき金貨三枚。さらに精神的苦痛への慰謝料として、総額の五〇%を加算させていただきます」

アムリーはメモをちぎり、カイルの額にピタリと貼り付けた。

「以上が見積もりです。前払いのみ受け付けますが、いかがなさいますか?」

カイルは額の紙を剥がし、その金額を見て震え上がった。

「ふ、ふざけるな! こんな金、払えるわけが……」

「では、交渉決裂ですね」

アムリーはニコリと微笑んだ。

「私の技術は安売りしません。以前は『婚約者』という無料のサブスクリプションプランでしたが、解約されたのは殿下ご自身です。再契約には正規料金が発生します」

「さ、サブ……?」

「『愛』という名の月額無料期間は終了したのです。ご理解いただけましたか?」

カイルはパクパクと口を開閉させた。

反論したいが、言葉の意味が半分も分からない。

しかし、アムリーが「もう二度とタダでは働かない」と言っていることだけは理解できた。

「そ、そんな……。じゃあ、この山はどうすれば……」

「ご自身で頑張ってください。あるいは、そちらの可愛らしい『聖女様』に、書類が勝手に片付く奇跡でも祈ってもらってはいかがですか?」

アムリーは皮肉たっぷりに言い放った。

ミナが「やってみますぅ!」と目を輝かせて祈り始めたが、もちろん書類は微動だにしない。

「行くぞ、アムリー」

ギルバートが背後から声をかけた。

彼は笑いを噛み殺しているようだった。

「これ以上ここにいると、君の時給(金貨十枚)を私が払わなければならなくなりそうだ」

「あら、閣下ならお友達価格で二割引にしますよ?」

「それはありがたい」

二人は呆然とするカイルと、必死に神に祈るミナを残し、執務室を後にした。

廊下に出た瞬間、アムリーは大きなため息をついた。

「はぁ……。酸素が薄い職場でした」

「よく言った」

ギルバートがアムリーの頭をポンと撫でた。

「君があそこまで守銭奴……いや、交渉上手だとは思わなかったよ」

「褒め言葉として受け取っておきます。ですが閣下、忘れないでください」

アムリーは真剣な眼差しでギルバートを見上げた。

「私は閣下とも契約で結ばれた関係です。もし契約違反があれば、即座に追加料金を請求させていただきますので」

「肝に銘じておこう」

ギルバートは楽しそうに笑った。

「だが、君には追加料金を払ってでも、そばにいてほしいと思わせる価値がある」

「……っ」

不意打ちの言葉に、アムリーの計算機(脳みそ)が一瞬停止する。

(な、なによ今の……。原価ゼロの言葉なのに、妙に心拍数が上がる……)

「顔が赤いぞ? 熱でもあるのか?」

「いえ! 計算のしすぎで脳がオーバーヒートしただけです! さあ、戻りますよ! まだ予算委員会への提案書が途中です!」

アムリーは早足で歩き出した。

その後ろ姿を見ながら、ギルバートは満足げに呟いた。

「攻略難易度は高そうだが……リターンは大きそうだ」

宰相執務室に戻ると、文官たちが涙ながらに出迎えてくれた。

「よかった……! 連れ戻されたかと思いました!」

「ベルンシュタイン嬢がいないと、我々は死んでしまいます!」

アムリーは苦笑しながら、自分のデスク(定位置)に座った。

「大袈裟ですね。さあ、業務再開です。午後の紅茶の時間までに、この束を終わらせますよ!」

「「「はいっ!!!」」」

王城の一角で、今日もアムリーの号令が飛ぶ。

一方、王太子執務室では、カイルの悲鳴とミナの的外れな励ましが、夜遅くまで響き渡っていたという。
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