婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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平和な午後だった。

アムリーが宰相執務室で、来年度の予算編成における「無駄な祝典の削減案」を作成していた時のことだ。

「失礼しまぁ~す!」

その間延びした声は、静寂な執務室に不協和音として響き渡った。

アムリーが眉をひそめて顔を上げる。

そこにいたのは、フリルのついたピンクのドレスに身を包み、大きなバスケットを抱えたミナだった。

「……ミナ様? なぜここに?」

「お姉様! 会いたかったですぅ!」

ミナは小走りで駆け寄ってこようとしたが、衛兵に止められた。

「ああん、痛いですぅ。離してください!」

「部外者の立ち入りは禁止されています」

衛兵が淡々と告げる。

アムリーはペンを置き、深いため息をついた。

「通してあげてください。ここで騒がれる方が業務の妨げになります」

衛兵が手を離すと、ミナはパッと笑顔になり、アムリーのデスクの前までやってきた。

「お姉様、お仕事大変そうですね! ミナ、心配で心配で……」

「心配? 貴女がですか?」

「はい! だってカイル様が『アムリーは寂しくて泣いているはずだ』っておっしゃるから。だからミナ、励ましに来たんです!」

アムリーはこめかみを押さえた。

あの元婚約者の脳内はどうなっているのだろう。

「お心遣い感謝します。ですが見ての通り、私は業務で多忙です。お引き取りを」

「そんなぁ! せっかく来たのに! あ、そうだ! ミナ、お手伝いします!」

「結構です」

「遠慮しないでください! ミナ、お掃除とかお茶汲みなら得意なんです! 聖女修行でやりましたから!」

ミナは聞く耳を持たず、バスケットをデスクの端に置いた。

嫌な予感がする。

アムリーの「損害回避センサー」がけたたましく警報を鳴らしていた。

「触らないでください。そこには重要書類が……」

「これですね! 片付けますね!」

ミナが手を伸ばしたのは、インク壺のすぐそばにある書類の束だった。

その瞬間。

バスケットの角が、インク壺に当たった。

ガチャン。

黒い液体が飛び散る。

スローモーションのように広がる漆黒の飛沫。

それが向かう先は、アムリーが三日かけて作成した『国家予算修正案(決定稿)』だった。

「あっ」

ミナが短く声を上げる。

バシャッ!

執務室の時が止まった。

真っ白な羊皮紙が、無惨にも黒く染まっていく。

周囲の文官たちが息を呑み、何人かは「あああ……」と絶望の声を漏らした。

ミナは口元を手で覆い、涙目になった。

「うそ……ごめんなさい! わざとじゃないんです! ミナ、綺麗にしようと思って……!」

「……」

アムリーは無言だった。

ただ静かに、黒く染まった書類を見つめている。

怒鳴りもしない。

泣きもしない。

その静けさが、逆に恐ろしかった。

「お、お姉様……?」

ミナが恐る恐る声をかける。

アムリーはゆっくりと引き出しを開け、新しい羊皮紙とペンを取り出した。

そして、サラサラと書き始めた。

「えっと、お姉様? 怒ってますかぁ?」

「いいえ。怒ってなどいませんよ」

アムリーの声は、氷点下のように冷たく、そして事務的だった。

「ただ『事実』を確認し、『損害』を確定させ、『請求』を行うだけです」

「せいきゅう……?」

「書き終わりました」

アムリーは書き上げたばかりの紙を、ミナの目の前に突きつけた。

『損害賠償請求書』

1.国家予算修正案(決定稿)作成にかかる人件費……金貨50枚
2.高級羊皮紙およびインク代……金貨2枚
3.再作成に伴うアムリー・ベルンシュタインの残業代(深夜割増含む)……金貨30枚
4.精神的苦痛による慰謝料……金貨20枚
合計:金貨102枚

「ひゃっ!?」

ミナが目を剥く。

「き、金貨百枚!? これ一枚汚しただけですよ!?」

「これはただの紙ではありません。国の未来を決める重要な文書であり、私の血と汗と涙(労働時間)の結晶です」

アムリーは冷徹に言い放つ。

「貴女の『お手伝い』という名の軽率な行動により、国益が損なわれました。支払いは即時、一括でお願いします」

「そ、そんなお金持ってません……!」

「では、ご実家の男爵家に請求書をお送りしますね。差し押さえになるかもしれませんが、ご了承ください」

「いやぁぁぁ! お父様に怒られちゃうぅぅ!」

ミナがその場で泣き崩れた。

「ひどい! お姉様はいじめっ子です! ミナは良かれと思ってやったのに!」

「『良かれと思って』という動機は、結果責任を免除する理由にはなりません。社会に出てから学びませんでしたか?」

「うわぁぁぁぁん!」

大声で泣きわめくミナ。

執務室はカオス状態だ。

そこへ、会議を終えたギルバートが戻ってきた。

「……何事だ」

不機嫌そうな声に、ミナが弾かれたように顔を上げる。

「あ、ライオット公爵様ぁ!」

ミナは涙を流したまま、ギルバートに駆け寄った。

そして、その胸にすがろうとする。

「聞いてください! アムリーお姉様がいじめるんです! ミナはお手伝いしようとしただけなのに、お金を払えって……!」

上目遣いで、か弱い被害者を演出するミナ。

通常の男性なら、ここで絆されるかもしれない。

だが、相手はギルバートだ。

彼は眉一つ動かさず、ひらりと身をかわした。

ミナは勢い余って、誰もいない空間にダイブし、床に見事に転がった。

「きゃっ!」

「……汚いな」

ギルバートは冷ややかに言い捨てた。

「え?」

「私の執務室で騒ぐなと言っている。それに、アムリーがいじめる? 馬鹿なことを言うな」

ギルバートは倒れているミナを一瞥もしないまま、アムリーの元へ歩み寄る。

そして、インクまみれのデスクを見て、瞬時に状況を理解した。

「……なるほど。これをやられたのか」

「はい。全損です」

アムリーは淡々と答える。

「バックアップ(下書き)はありますが、清書にはあと五時間はかかります」

「五時間か。……貴重な君の時間を奪った罪は重いな」

ギルバートは振り返り、床で呆然としているミナを見下ろした。

その瞳は、ゴミを見るような目だった。

「男爵令嬢。君の行動は、公務執行妨害に当たる。衛兵、彼女を連れ出せ。そして男爵家に請求書を送付しておけ。アムリーの計算通りにな」

「は、はいっ!」

衛兵たちが飛んできて、ミナの両脇を抱える。

「いやぁ! カイル様ぁ! 助けてぇぇ!」

ミナの絶叫が遠ざかっていく。

執務室に、ようやく静寂が戻った。

「……ご迷惑をおかけしました、閣下」

アムリーが頭を下げる。

「私の管理不足です。彼女を入室させてしまったばかりに」

「君のせいじゃない。警備体制を見直す必要があるな」

ギルバートはアムリーの肩に手を置いた。

「それより、仕事が増えてしまったな。手伝おうか?」

「いえ、これは私の仕事ですので。……ただ」

アムリーは少しだけ口ごもった。

「本日のディナーの予約、キャンセルをお願いできますか? 残業確定ですので」

ギルバートは眉をひそめた。

「それは困る」

「え?」

「今日のディナーは、ただの食事じゃない。君に大事な話があったんだ」

アムリーは首を傾げた。

大事な話?

新たな借金の発覚だろうか?

「来週、王宮で建国記念の舞踏会が開かれる」

ギルバートが告げる。

「そこで、私と君の婚約を正式に発表する」

「……はい?」

アムリーの手からペンが滑り落ちた。

「発表……ですか? まだ契約書を交わしたばかりですが」

「カイル殿下やあの男爵令嬢のような輩が、これ以上君に近づかないようにするためだ。『アムリーは私のものだ』と、公衆の面前で知らしめる必要がある」

ギルバートは真剣な眼差しでアムリーを見つめた。

「それに、君には『次期公爵夫人』としての地位が必要だ。そうすれば、今日のような理不尽な妨害も減るだろう」

合理的だ。

アムリーの脳内コンピュータが弾き出した答えは『YES』だった。

権力という防具があれば、仕事の効率は上がる。

「承知いたしました。業務命令として受諾します」

「……業務命令、か。まあいい」

ギルバートは苦笑し、アムリーの頬に散ったインクの染みを、指先で優しく拭った。

「その代わり、ドレスや装飾品は全て私が用意する。君は最高に美しく着飾って、私の隣で微笑んでいればいい」

「衣装代も経費ですね? 助かります」

「ああ。……君を世界一美しい『悪役令嬢』にして見せよう」

ギルバートの言葉に、周囲の文官たちは顔を赤らめて下を向いた。

(公爵様、口説き文句が独特すぎる……)

(でもベルンシュタイン嬢には響いている……)

アムリーは気合を入れ直した。

「分かりました。では、五時間でこの仕事を終わらせて、舞踏会の準備プランを練りましょう! まずはドレスの予算見積もりからですね!」

「……やれやれ」

ギルバートは肩をすくめたが、その表情はどこか嬉しそうだった。

黒く汚れた書類の横で、二人の新たな『共同プロジェクト(舞踏会)』が始動しようとしていた。
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