婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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王城の大広間は、熱気に包まれていた。

建国記念舞踏会。

国内の有力貴族が一堂に会する、一年で最も重要な社交イベントである。

シャンデリアの光が降り注ぎ、楽団の奏でるワルツが優雅に流れる中、会場の注目は一点に集中していた。

入り口の大扉が、重々しい音を立てて開かれる。

「――ライオット公爵閣下、ならびにベルンシュタイン公爵令嬢、ご入場!」

式部官の声が響き渡る。

一瞬の静寂の後、どよめきがさざ波のように広がった。

「ああ、なんてことだ……」

「美しすぎる……」

現れたのは、夜空を切り取ったようなミッドナイトブルーのドレスを纏ったアムリーと、漆黒の礼服に身を包んだギルバートだった。

二人が並ぶ姿は、まさに『氷の女王』と『魔王』の行進。

近づきがたいほどの威厳と、圧倒的な美貌がそこにあった。

「……閣下。視線による圧力が規定値を超えています。防御障壁(スマイル)を展開すべきでしょうか?」

アムリーは扇子で口元を隠しながら、小声で尋ねる。

ギルバートは涼しい顔で、アムリーのエスコートを続けた。

「必要ない。君はただ、私の腕に手を添えていればいい。……緊張しているのか?」

「心拍数が平常時の二〇%増です。これは『緊張』ではなく『戦闘態勢(バトルモード)』と定義されます」

「頼もしいな」

ギルバートはクスクスと笑い、アムリーの手を強く握った。

二人は優雅に赤絨毯の上を進む。

その堂々たる姿に、貴族たちは海が割れるように道を開けた。

「見て、あのベルンシュタイン嬢よ。婚約破棄されたとは思えないわ」

「むしろ以前より輝いていないか? 隣にいるのがあの冷徹公爵だからか?」

「お似合いねぇ……冷たい美男美女カップルだわ」

ひそひそ話の内容は、概ね好意的(というか畏怖)だった。

アムリーは視線の隅で、会場内の「敵性反応」をスキャンする。

(カイル殿下とミナ様はまだ未到着……。遅刻は社会人として減点対象よ)

その時。

会場の空気が一変した。

入り口の扉が再び開き、場違いなほど明るいファンファーレが鳴り響いたのだ。

「カイル王太子殿下、ならびにミナ男爵令嬢、ご入場!」

現れたのは、目が痛くなるような極彩色の二人組だった。

カイルは金ピカの刺繍が入った真っ赤な礼服。

ミナはフリルとリボンが過剰についた、ショッキングピンクのドレス。

まるで歩くお菓子屋さんのような出で立ちに、会場の貴族たちは扇子で顔を隠して苦笑した。

「……色彩感覚の欠如ですね」

アムリーが即座に評価を下す。

「あの赤とピンクの組み合わせは、視覚的公害レベルです」

「同感だ。目がチカチカする」

ギルバートも眉をひそめた。

カイルとミナは、周囲の微妙な反応を「注目の的だ!」と勘違いしているようで、胸を張って歩いてくる。

そして、アムリーたちの前で足を止めた。

「よう、アムリー。来ていたのか」

カイルがニヤニヤしながら声をかけてくる。

「なんだその暗い色のドレスは。婚約破棄されたショックで喪に服しているのか?」

「ごきげんよう、殿下。これは『ミッドナイトブルー』という高貴な色です。殿下のように、歩く信号機のような配色にする勇気はありませんでしたので」

「なっ……信号機だと!?」

「まあまあカイル様ぁ!」

ミナが割って入る。

彼女はアムリーのドレスをじろじろと眺め、ふふんと鼻で笑った。

「アムリーお姉様、地味ですぅ! 見てください、ミナのこのドレス! 最新の流行を取り入れた特注品なんです!」

ミナはくるりと回って見せた。

無駄に多いフリルがバサバサと風を切る。

アムリーはそのドレスを一瞥し、脳内で瞬時に計算した。

(生地の質感、縫製の粗さ、そしてあの過剰な装飾……。一見高そうに見えるけれど、仕立ては三流ね。でも、素材だけは妙に高級……)

違和感があった。

実家が貧乏男爵であるミナに、これほどの衣装を用意できる資金力はないはずだ。

カイルの小遣い(国庫からの予算)も、アムリーが握っていた財布の紐がなくなってからは底をついているはず。

「……ミナ様。そのドレス、どちらで?」

「ふふん、秘密です! カイル様が『愛の力』で用意してくださったんですぅ!」

「愛の力で支払いはできませんよ。クレジットカードか現金のみです」

「夢がないこと言わないでください!」

ミナが頬を膨らませる。

その時、楽団の演奏がワルツへと変わった。

ファーストダンスの時間だ。

「行くぞ、アムリー」

ギルバートがアムリーの手を引く。

「こんな茶番に付き合う必要はない」

「待てよライオット公爵!」

カイルが声を張り上げた。

「ただ踊るだけじゃつまらないだろう? どうだ、ここで『ダンス勝負』といこうじゃないか!」

「……は?」

ギルバートが心底嫌そうな顔をした。

「勝負? 何を競うんだ?」

「どちらがより優雅で、より会場を魅了できるかだ! 観客の拍手の大きさで決めよう!」

カイルは自信満々だ。

「もし俺たちが勝ったら、アムリーを返してもらう! やはり事務仕事にはあいつが必要なんだ!」

「……まだ言っているのか」

ギルバートの殺気が漏れ出す。

しかしアムリーは、冷静にカイルの提案を分析した。

(殿下のダンススキルは平均以下。対してギルバート様は王都一の名手。勝率は九九・九%。……受ける価値あり)

アムリーはギルバートの袖を引いた。

「閣下、受けましょう。負ける要素が見当たりません。それに、公開処刑……いえ、実力差を見せつける良い機会です」

「……君がそう言うなら」

ギルバートはため息をつき、カイルに向き直った。

「いいだろう。だが、私たちが勝ったら、二度とアムリーに近づくな。そして、過去の未払い残業代を今すぐ耳を揃えて払ってもらおう」

「の、望むところだ!」

カイルとミナがフロアの中央へ進み出る。

アムリーとギルバートも、その対面に立った。

演奏が始まる。

優雅な三拍子。

「さあ、見せてあげるわ! ミナの聖女ダンスを!」

ミナがカイルの手を取り、動き出した。

しかし。

ドスッ。

「痛っ!」

「あ、ごめんなさいカイル様! 足踏んじゃいました!」

バシッ。

「ぐえっ!」

「ああん、ドレスの裾がカイル様の顔に!」

二人のダンスは、ダンスというより「格闘技」に近かった。

リズム感皆無のミナと、彼女の暴走に振り回されるカイル。

フリルが凶器のようにカイルを襲い、カイルは必死にそれを避ける。

会場からは失笑が漏れていた。

一方、アムリーたちは。

「――ワン、ツー、スリー」

アムリーの脳内カウントに合わせて、二人は水面を滑るように舞っていた。

完璧なシンクロ率。

ギルバートのリードは強引かつ繊細で、アムリーの計算されたステップと完全に噛み合っている。

「……すごい」

「まるで一つの生き物みたいだ」

会場の空気が変わる。

失笑は感嘆へ、そして熱狂へと変わっていった。

「くっ……! なんであいつらばっかり!」

カイルが焦りの表情を浮かべる。

それを見たミナが、瞳の奥に暗い光を宿した。

(許さない……。ミナが主役なのに……!)

ミナはカイルとすれ違いざま、近くの給仕が持っていたトレイに、わざと肘をぶつけた。

ガチャン!

トレイの上に乗っていた赤ワインのグラスが宙を舞う。

その軌道の先には、純白の肌を晒したアムリーの背中があった。

「あっ! 危ないですぅ!」

ミナの白々しい叫び声。

しかし。

「――後方六時方向より物体接近。質量約二〇〇グラム、液体含有。衝突予測時間、〇・五秒」

アムリーの脳内コンピュータは、グラスが飛んだ瞬間からその軌道を予測していた。

「閣下、ターンを加速します。右へ四五度!」

「了解!」

ギルバートはアムリーの腰を抱き寄せ、流れるような動作で高速スピンをかけた。

ヒュン!

アムリーのドレスの裾が翻り、美しい円を描く。

宙を舞っていた赤ワインのグラスは、アムリーがいた空間を虚しく通過し――。

バシャッ!!!

「ぶべっ!!!」

その先にいたカイルの顔面を直撃した。

真っ赤なワインが、カイルの顔と、金ピカの衣装を濡らす。

「ぎゃああああああ! 目が! ワインが目に!」

「きゃあああ! カイル様ぁ!」

音楽が止まる。

会場は静まり返った。

アムリーは、スピンの余韻を残したまま、優雅に最後のポーズを決めた。

「……計算通りです」

アムリーのつぶやきは、誰にも聞こえなかった。

「な、ななな、何をするんだ貴様ら!」

カイルがワイン塗れの顔で怒鳴り散らす。

ギルバートは冷ややかに見下ろした。

「何をする、とはこちらのセリフだ。パートナーの管理もできずにグラスを飛ばすとは、随分とアクロバティックなダンスだな」

「ち、違う! ミナがぶつかったんじゃ……!」

「ミナ様、大丈夫ですか?」

アムリーは倒れた給仕に手を貸しながら、ミナの方を向いた。

「故意に見えましたけれど、まさか聖女様がそんなことしませんわよね?」

「ち、違いますぅ! 手が滑ったんですぅ!」

ミナは顔面蒼白で首を振る。

しかし、周囲の視線は冷たい。

どう見てもわざとぶつかったのは明らかだった。

「勝負あったな」

ギルバートが静かに告げる。

会場からは、アムリーたちへ割れんばかりの拍手が送られた。

一方、カイルとミナには、冷ややかな視線とひそひそ話だけが残る。

「くそっ……! 覚えてろよ!」

カイルは恥ずかしさに耐えきれず、ミナの手を引いて逃げ出そうとした。

だが、その時。

アムリーの鋭い目が、カイルの胸元に光る「何か」を捉えた。

ワインで濡れた上着のポケットから、チラリと見えた古びた懐中時計。

(……あれは?)

アムリーの記憶のデータベースが検索をかける。

『王家秘蔵コレクション・管理番号004・初代国王の懐中時計』

(なぜ、国宝級のあれを殿下が持っているの? まさか……)

アムリーの中で、点と線が繋がった。

ミナの不自然に豪華なドレス。

カイルの新しい衣装。

そして、空っぽのはずの彼らの財布。

「閣下」

アムリーはギルバートの耳元で囁いた。

「緊急監査案件が発生しました。至急、王家の宝物庫の在庫リストを確認する必要があります」

「……何を見つけた?」

「横領の証拠です」

ギルバートの目が、肉食獣のように細められた。

「……なるほど。ダンスの次は『断罪劇』の幕開けというわけか」

逃げていくカイルとミナの背中を見送りながら、アムリーは静かに微笑んだ。

「ええ。逃がしませんよ。……慰謝料の財源は、そこにあったのですね」

舞踏会の華やかな音楽の裏で、アムリーによる「詰め」の計算が始まっていた。
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