婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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金貨二万枚という、国一つ買えそうな額の戦利品と共に、アムリーたちは帰国した。

王都は凱旋パレードのような騒ぎだったが、アムリーにとってそれはどうでもよかった。

彼女の関心事はただ一つ。

「この資金をどう運用するか」である。

「国債の買い増し、インフラ整備への投資、そして我が家の防犯システムの強化……。ふふふ、夢が広がりますね」

宰相邸へ向かう馬車の中で、アムリーは通帳を抱きしめて怪しい笑みを浮かべていた。

ギルバートが優しく微笑む。

「君が嬉しそうで何よりだ。だがアムリー、忘れていないか? 来週には結婚式だ」

「忘れるはずがありません。進行表は分単位で頭に入っていますし、予算も確保済みです」

「そうじゃなくて……心の準備だよ。君はいよいよ、ライオット公爵家の女主人になるんだ」

ギルバートが真剣な眼差しで見つめる。

「我が家は歴史が古い分、面倒なしきたりや、うるさい親族も多い。……君に苦労をかけるかもしれない」

「問題ありません。どんな親族だろうと、論理と利益(メリット)で説き伏せてみせます」

アムリーは自信満々だった。

皇帝すら論破した自分に、怖いものなどない。

そう思っていた。

……屋敷の扉を開けるまでは。

          ◇

「遅い!」

宰相邸の玄関ホールに、ヒステリックな声が響き渡った。

仁王立ちしていたのは、巨大な扇子を持った年配の貴婦人だった。

派手な紫色のドレス、高く結い上げられた髪、そしてギルバートによく似た鋭い目つき。

「お、叔母上……?」

ギルバートがたじろぐ。

彼女はカサンドラ夫人。ギルバートの亡き父の妹であり、一族のご意見番として恐れられる「歩くマナー辞典」である。

「『叔母上』ではありません! ギルバート、お前の結婚相手を見定めるために、わざわざ領地から出てきたのですよ!」

カサンドラ夫人はバサリと扇子を開き、アムリーを頭のてっぺんからつま先までジロジロと眺めた。

「ふん……。この貧相な娘が、噂のアムリー・ベルンシュタインですか?」

「貧相……?」

アムリーが眉をひそめる。

「元・悪役令嬢で、婚約破棄された傷物。その上、金に汚い守銭奴だとか。……ライオット家の嫁として相応しいか、甚だ疑問ですわ!」

典型的な「嫁いびり」の開幕である。

ギルバートが前に出ようとする。

「叔母上、言葉を慎んでください。彼女は国を救った……」

「お黙りなさい! 国を救おうと何だろうと、公爵夫人としての『品格』がなければ認めません!」

カサンドラ夫人はアムリーの鼻先に扇子を突きつけた。

「いいこと? 結婚式までの五日間、私がみっちりと『花嫁修業』をつけて差し上げます。もし私の基準に達しなければ……この結婚、破談だと思いなさい!」

「破談……」

アムリーの脳内で、計算機が高速回転を始めた。

破談になれば、結婚式費用(前払い済み)のキャンセル料が発生する。

さらに、ギルバートとの契約不履行による違約金リスク。

そして何より……。

(ギルバート様と一緒にいられなくなる……?)

その結論に至った時、アムリーの胸がズキリと痛んだ。

これは「損失」ではない。「苦痛」だ。

アムリーは眼鏡を光らせ、カサンドラ夫人を見据えた。

「……承知いたしました」

「あら? 逃げ出さないのですか?」

「逃げません。その挑戦(研修)、受けて立ちます。……どうぞ、お手並み拝見といきましょう」

          ◇

翌日から、地獄の花嫁修業が始まった。

【課題1:刺繍】

「公爵夫人の嗜みです。このハンカチに、ライオット家の紋章(複雑なドラゴン柄)を刺繍しなさい。制限時間は三時間!」

カサンドラ夫人が命令する。

普通の令嬢なら三日はかかる難題だ。

しかし、アムリーは布を手に取り、定規で測り始めた。

「……ドラゴンの鱗の枚数は一二八枚。糸の密度を計算し、最短ルートで針を動かせば……」

アムリーの手が残像になるほどの速さで動く。

シュシュシュシュシュ!

「で、できました」

「は?」

一時間後。そこには完璧な、しかも裏面まで美しい刺繍が完成していた。

「な、なんて速さ……! しかも機械のように正確ですわ……!」

「幾何学模様と思えば簡単です。次をお願いします」

【課題2:テーブルマナー】

「スープを音を立てずに、優雅に飲みなさい!」

カサンドラ夫人が目を光らせる。

アムリーはスプーンの角度を調整した。

「流体力学に基づき、スープの表面張力を利用して口腔内へ滑り込ませます。吸入音の発生確率はゼロです」

スッ……。

無音。

あまりにも静かすぎて、逆に不気味なほどの食事風景。

「っ……! 文句のつけようがありませんわ!」

【課題3:家政(使用人の管理)】

「屋敷の管理は夫人の務め。この一ヶ月分の家計簿に間違いがないか、チェックしなさい!」

分厚い帳簿が渡される。

カサンドラ夫人の罠だ。実はわざと数箇所、計算ミスを紛れ込ませてあるのだ。

アムリーはパラパラとページをめくった。

「……終わりました」

「早すぎます! ちゃんと見たのですか!?」

「はい。三ページ目の野菜代が相場より二割高く計上されています(納入業者の癒着の可能性あり)。一五ページ目の薪代の計算が合っていません(単純な足し算ミス)。あと、四〇ページ目に叔母様個人のドレス代が『修繕費』として紛れ込んでいますが、これは横領では?」

「ギクッ!」

カサンドラ夫人が冷や汗を流す。

「な、何かの間違いですわ……!」

「修正しておきますね。……不正会計は許しません」

          ◇

三日目。

カサンドラ夫人はやつれていた。

どんな難題を出しても、アムリーが完璧(かつ超効率的)にこなしてしまうからだ。

「……化け物ですわ。あの子、本当に人間なの?」

サロンでお茶を飲みながら、カサンドラ夫人が震えている。

そこへ、アムリーがやってきた。

「叔母様。本日の課題は?」

「も、もうありません! 貴女には教えることは何も……」

「では、私から提案があります」

アムリーは一枚の紙を差し出した。

「ライオット家・家計改善プランです」

「は?」

「叔母様が管理されていた領地の収支を見直しました。無駄なパーティー費用の削減、使用人の配置転換、そして特産品の販路拡大……。これらを実行すれば、年間利益は二〇%向上します」

アムリーは淡々と説明する。

「貴女を追い出すつもりはありません。ただ、貴女の『伝統を守る心』と、私の『効率化スキル』を合わせれば、ライオット家は最強になると思いませんか?」

カサンドラ夫人は紙を見つめた。

そこには、一族の繁栄を願う、緻密で愛のある(数字だらけだが)計画が書かれていた。

「……貴女、金に汚いのではなく、ただ数字が好きなだけなのね」

「はい。数字は嘘をつきませんから」

「ふふ……」

カサンドラ夫人は扇子で口元を隠し、笑った。

「負けましたわ。……ギルバートにはもったいないくらいの嫁ね」

「認め印をいただけますか?」

「ええ。合格よ、アムリー」

          ◇

その夜。

ギルバートが寝室に戻ると、アムリーがベッドの上でぐったりとしていた。

「お疲れ様、アムリー。叔母上から聞いたよ。『あの子は私の最高傑作だ』と自慢していた」

「……疲れました。対人交渉は、機竜相手よりカロリーを使います」

アムリーが枕に顔を埋める。

ギルバートはベッドの端に座り、アムリーの髪を撫でた。

「ありがとう。私の家族と向き合ってくれて」

「……業務の一環です」

「本当に?」

ギルバートが覗き込む。

アムリーは顔を上げた。少し頬が赤い。

「……貴方の、大事な家族ですから。無下にはできません」

その言葉を聞いた瞬間、ギルバートの理性が吹き飛んだ。

「アムリー……!」

彼はアムリーを抱きしめ、そのままベッドに押し倒した。

「えっ、ちょっ、閣下!? 明日は早朝から最終フィッティングが……!」

「知らない。……今日は君を寝かせない」

「非効率です! 睡眠不足は肌荒れの原因に……んっ!」

反論は、甘いキスによって封じられた。

結婚式まであと二日。

アムリーにとっての「本当の戦い(初夜)」は、まだこれからである。
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