婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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「……アムリー。一つ聞いていいかな?」

揺れる馬車の中で、ギルバートが頬杖をつきながら尋ねた。

「はい、何でしょう旦那様。予算の追加申請ですか?」

「違う。……なぜ、私たちのハネムーンの行き先が、リゾート地ではなく『北の僻地』なんだ?」

ギルバートの視線の先には、窓の外に広がる荒涼とした雪景色があった。

本来なら、南の島でトロピカルジュースを飲むはずだった。

しかし今、二人が向かっているのは、ライオット公爵領の中でも最も北にある『極寒の温泉郷・ユキグニ』である。

アムリーは手元の地図を広げ、眼鏡を光らせた。

「理由は三つあります。第一に、南の島は観光客が多く、静養に適さない(プライバシーリスク)。第二に、日焼けによる肌へのダメージ(メンテナンスコスト増)。そして第三に……」

アムリーは地図上の赤い丸を指差した。

「この温泉郷、赤字なんです」

「……は?」

「ライオット家が所有する保養地でありながら、年々客足が遠のき、維持費ばかりが嵩んでいます。このままでは不良債権化します。よって、新婚旅行のついでに経営再建を行います」

アムリーは拳を握りしめた。

「『ついで』が逆じゃないか?」

ギルバートが呆れる。

「君と二人きりで、甘い時間を過ごしたかったんだが……」

「ご安心ください。夜のスケジュールは確保してあります。昼間は働き、夜は愛を育む。これぞワーク・ライフ・バランスです」

「……君のバランス感覚は、少し独特だな」

          ◇

数時間後。

二人は『秘湯の宿・白銀』に到着した。

「い、いらっしゃいませぇ……」

出迎えたのは、やる気のなさそうな支配人と、寒さで震えている数名の従業員だけだった。

建物は立派だが、あちこちが傷んでおり、廊下は薄暗い。

「……酷いですね」

アムリーは第一声で切り捨てた。

「玄関の掃除が行き届いていません。埃の堆積量から見て、三日は放置されています。それに、あの枯れた観葉植物。あれを置くことで『寂れ感』を演出する高度な戦略ですか?」

「あ、いや、その……人手が足りなくて……」

支配人がモゴモゴと言い訳をする。

アムリーはスタスタとフロントの中に入り込み、宿帳をチェックした。

「稼働率一五%。……終わってますね。これでよく倒産しませんね」

「アムリー、一応、新婚旅行だ。お手柔らかに……」

ギルバートが苦笑するが、アムリーの目は本気(マジ)だった。

「旦那様、これは私有財産の毀損です。見過ごせません」

彼女は支配人を睨みつけた。

「今から私がこの宿のコンサルティングを行います。拒否権はありません。……三日で黒字化の目処を立てますよ!」

「ひぃっ! は、はいぃ!」

          ◇

アムリーの改革は、その日の午後から始まった。

「まず、ターゲット層がブレています! 『静かな大人の隠れ家』を謳いながら、なぜロビーに子供向けのガチャガチャが置いてあるのですか? 即撤去!」

「食事メニューの改善! 高級食材を使えばいいというものではありません。ここの名物は『雪解け水で育った野菜』と『川魚』です。原価の高い海の魚をわざわざ取り寄せるのをやめて、地産地消で利益率を上げなさい!」

「そして、この温泉!」

アムリーは露天風呂の前に立ち、湯気を吸い込んだ。

「硫黄の匂いが強すぎます。換気設備の増設と、入りやすい温度管理の徹底。さらに『美肌効果』を数値化して看板に掲示してください。女性客は『なんとなく良い』ではなく『水分量二〇%アップ』という数字に弱いです!」

従業員たちは、アムリーの指示に従って走り回った。

最初は嫌々だった彼らも、アムリーが自ら雑巾を持って掃除を始め、的確な指示で客(サクラとして雇ったギルバートの護衛たち)が喜ぶ姿を見て、目の色が変わっていった。

「す、すげぇ……。奥様の言う通りに家具を配置変えしただけで、ロビーが広く見える……」

「料理も、地元の野菜だけなのに『田舎風御膳』って名前にしたら、凄く豪華に見えるぞ!」

宿が生き返っていく。

その様子を、ギルバートはロビーのソファで紅茶を飲みながら眺めていた。

「……私の妻は、働き者だな」

少し寂しいが、生き生きとしているアムリーを見るのは悪くない。

そう思っていた時。

「旦那様、お待たせしました」

作務衣(さむえ)に着替えたアムリーがやってきた。

髪をアップにし、うなじが見えている。

「業務は終了です。これより『プライベートタイム』に移行します」

「おお! やっとか!」

ギルバートが立ち上がる。

「では、約束通り……」

「はい。混浴露天風呂の視察……いえ、入浴に行きましょう」

          ◇

雪見の露天風呂。

湯気が立ち上る中、二人はお湯に浸かっていた。

「……極楽だな」

ギルバートが空を見上げる。

「ああ、こうして二人きりで湯に浸かるなんて、夢のようだ」

彼はアムリーの方へ滲り寄った。

お湯に濡れたアムリーの肌は、雪のように白く、そして桜色に染まっている。

「アムリー……」

「……成分分析完了」

アムリーが小瓶にお湯を採取しながら呟いた。

「へ?」

「pH値八・五。弱アルカリ性単純泉ですね。角質を柔らかくする効果が高い。これは『美人の湯』としてブランド化できます。ボトルに詰めて『公爵夫人愛用・化粧水』として販売すれば、原価ゼロで粗利一〇〇%……」

「アムリー」

ギルバートがアムリーの手から小瓶を取り上げ、岩の上に置いた。

「えっ、あ、旦那様?」

「仕事は終わりだと言ったはずだ」

ギルバートの顔が近づく。

濡れた髪、熱を帯びた瞳。

冷徹公爵の、色気全開モードだ。

「今は、数字じゃなくて私を見ろ」

「み、見てます! 視界の一〇〇%が旦那様です!」

「じゃあ、分析してくれ。今の私の心拍数と、体温の上昇率を」

ギルバートがアムリーの手を取り、自分の胸に当てた。

ドクン、ドクン。

早くて、強い鼓動。

それはアムリーの手のひらを通じて、彼女自身の鼓動とも共鳴した。

(異常数値……! 私の心拍数も上昇中。これは湯あたりのせい? それとも……)

「……計算不能です」

アムリーは観念したように目を閉じた。

「変数が多すぎて、処理しきれません」

「なら、考えるのをやめればいい」

ギルバートが優しく抱き寄せる。

お湯の温かさと、彼の体温が混ざり合う。

「愛してるよ、アムリー」

甘い囁きと共に、口付けが落とされる。

雪がしんしんと降る露天風呂で、アムリーの思考回路は完全にショートした。

(……明日からの売り上げ目標、上方修正しなきゃ)

そんなことを考えながらも、彼女はギルバートの首に腕を回した。

          ◇

翌朝。

『秘湯の宿・白銀』は、見違えるように活気づいていた。

従業員たちの挨拶は明るく、館内はピカピカだ。

「ありがとうございました、公爵様、奥様!」

支配人が涙ながらに見送る。

「おかげさまで、来月の予約が埋まり始めました! 教わった『ダイナミック・プライシング(変動料金制)』、導入してみます!」

「ええ、頑張ってください。売り上げの一〇%はコンサル料として天引きさせていただきますので」

アムリーは馬車の窓から手を振った。

「アムリー、楽しかったか?」

ギルバートが尋ねる。

「はい! 黒字化の道筋が見えた時が、一番興奮しました!」

「……そうか。まあ、君が満足なら私も嬉しいよ」

ギルバートは苦笑しつつ、アムリーの肩を抱いた。

「でも、昨夜の君も……可愛かったぞ」

「ッ……! 蒸し返さないでください!」

アムリーが真っ赤になる。

新婚旅行は、市場調査と愛の確認という二つの成果(成果物)を残して終了した。

王都へ戻る馬車の中で、アムリーは新たな事業計画書を書き始めていた。

タイトルは『全国温泉再生プロジェクト』。

アムリーの野望は、とどまるところを知らない。
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