婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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ゼオス侯爵の失脚から数日後。

宰相執務室で、アムリーは押収した裏帳簿の「最終ページ」を睨みつけていた。

「……計算が合いません」

「まだあるのか?」

ギルバートが覗き込む。

「はい。ゼオス侯爵が横領した資金の大半は、偽造通貨の製造コストや私利私欲に使われていましたが、約一割……金貨にして五千枚が、別の口座に送金されています」

アムリーはペン先でその口座名義を叩いた。

『C・クロウリー』

その名前を見た瞬間、アムリーの手がピタリと止まった。

いつも冷静な彼女の瞳が、わずかに揺れる。

「クロウリー……?」

ギルバートがアムリーの異変に気づく。

「知り合いか?」

「……はい。私の、かつての家庭教師です」

アムリーは眼鏡を外し、遠い目をした。

「私が十歳の頃、父が雇った家庭教師でした。彼は私に数学の美しさと、複式簿記の基礎、そして『数字は嘘をつかない』という真理を教えてくれた恩師です」

「へぇ、君の師匠か。優秀な人物だったんだな」

「ええ、極めて優秀でした。……彼が父を騙して連帯保証人の判を押させ、五億の借金を背負わせて消えるまでは」

「は!?」

ギルバートが絶句した。

「ま、待て。君の実家が傾いた原因を作った、あの『行方不明の男爵』というのは……」

「はい。クロウリー先生です。彼は男爵位すら詐称していた、国際的な詐欺師だったのです」

アムリーは唇を噛んだ。

信頼していた師匠に裏切られ、実家を破滅させられた過去。

それが、アムリーが「他人の言葉」よりも「確実な数字」しか信じなくなった原点だったのだ。

「そのクロウリーに、ゼオス侯爵から金が流れていた。……つまり、今回の偽造通貨事件の知恵を授けたのも、彼である可能性が高い」

アムリーは立ち上がった。

「先生は……いえ、あの詐欺師は、まだこの国にいます。そして、私を試しているのです」

その時。

執務室の窓ガラスに、コツンと何かが当たった。

黒いカラスだ。

その足には、一通の手紙が結び付けられていた。

アムリーが窓を開け、手紙を受け取る。

封蝋には、懐かしい数式の紋章。

『親愛なる弟子、アムリーへ。
 私の出した宿題(偽金事件)は解けたかな?
 答え合わせをしよう。今夜零時、思い出の時計塔で待つ』

「……挑戦状ですね」

アムリーは手紙を握りつぶした。

「行きますか、閣下。……未払いの授業料(借金)を、利子をつけて払ってもらいに」

          ◇

深夜零時。王都広場の時計塔。

巨大な文字盤の裏側にある機械室に、アムリーとギルバートは立っていた。

カチ、コチ、カチ、コチ。

巨大な歯車が時を刻む音が響く。

「よく来たね、アムリー。それに、冷徹公爵閣下も」

歯車の影から、一人の男が現れた。

シルクハットにマント、そして片眼鏡(モノクル)。

年齢は四十代半ばだが、その立ち居振る舞いは洗練されており、どこか芝居がかって見える。

クロウリーだ。

「十年ぶりですね、先生」

アムリーは冷静に声をかけた。

「老けましたね。不摂生な生活による肌年齢の劣化が見られます」

「ハハハ! 相変わらず口が減らないな。私の教えを守って、立派な合理主義者に育ったようで鼻が高いよ」

クロウリーは楽しそうに笑う。

「どうだ? 私の演出した『国家転覆劇』は。ゼオスのような小物を操り、経済を混乱させる……美しい方程式だっただろう?」

「美しくありません」

アムリーは断言した。

「貴方の計画には『美学』がない。ただの私利私欲のためのノイズです。0.02グラムの誤差を出した時点で、貴方の計算は破綻していました」

「厳しいな。……だが、そこがいい」

クロウリーはアムリーに手を差し出した。

「アムリー、こっちへ来ないか?」

「……はい?」

「お前のような才能が、公爵夫人という狭い鳥籠に収まっているのは損失だ。私と組めば、この国の経済を……いや、世界の富を自由に操れるぞ」

悪魔の誘い。

かつてのアムリーなら、心が揺らいだかもしれない。

自分を理解してくれるのは、数字と、この師匠だけだと思っていたから。

だが。

「お断りします」

アムリーは即答した。

「なぜだ? 彼(ギルバート)がいるからか? 愛などという不確定な変数に頼るのか?」

「いいえ。貴方と組むと『信用リスク』が高すぎるからです」

アムリーは電卓を取り出し、パチパチと叩いた。

「過去の実績から算出される貴方の裏切り率は一〇〇%。さらに、現在貴方が抱えている指名手配書の懸賞金総額と、我が家の借金残高を相殺しても、まだこちらが赤字です」

アムリーは電卓の画面をクロウリーに見せた。

「貴方は『不良債権』です。これ以上の投資価値はありません」

クロウリーの顔から、笑みが消えた。

「……変わったな、アムリー。昔は私の背中を追いかけて、目を輝かせていたのに」

「ええ、変わりました。私には今、背中を追いかけるのではなく、隣で並んで歩いてくれるパートナー(旦那様)がいますから」

アムリーはギルバートを見上げた。

ギルバートは優しく微笑み返し、剣を抜いて前に出た。

「そういうことだ、クロウリー。……妻を勧誘するのは諦めてもらおう。彼女は私の専属(・・)だ」

「フン……。交渉決裂か」

クロウリーはマントを翻した。

「残念だよ。可愛い弟子を、この手で潰さなければならないとはね」

パチンと指を鳴らすと、時計塔のあちこちから武装した部下たちが現れた。

「やれ。二人ともここから生かして帰すな」

「迎撃します、閣下!」

「ああ。……教育的指導の時間だ!」

アムリーはスカートから大量のコインを取り出した。

「授業料の支払いにしては、手痛いお返しになりますよ!」

コインが弾丸のように放たれる。

アムリーとギルバート、最強夫婦の最後の戦いが始まった。

時計塔の歯車が回る中、過去との決別を告げる戦いのゴングが鳴り響く。
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