婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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平和な朝の光が、宰相邸のダイニングに差し込んでいた。

トーストにバターを塗りながら、アムリーは真剣な顔で手帳を開いていた。

「……旦那様。緊急の提案があります」

「ん? どうしたんだ、アムリー。またどこかの国が賠償金を払わないと言ってきたのか?」

ギルバートはコーヒーカップを置き、妻の顔を覗き込んだ。

借金完済後、アムリーの表情は以前より柔らかくなった……ような気もするが、相変わらず目は「仕事モード」だ。

「いいえ。外交問題ではありません。内政問題……いえ、『組織存続のための重大プロジェクト』です」

アムリーは一枚の企画書をテーブルに提示した。

タイトルは『次世代後継者育成計画(プロジェクト・ネクストジェネレーション)』。

「……これは?」

「子供です」

アムリーは直球で答えた。

「ライオット公爵家は、現在、当主である貴方一人に権限が集中しています。これはリスク管理上、好ましくありません」

「リスク管理……」

「万が一、貴方が過労で倒れたり、階段から落ちたりした場合、お家断絶の危機です。よって、早急に『スペア』……いえ、正当な後継者を確保する必要があります」

アムリーは指示棒(パンの耳)で企画書を叩いた。

「私の計算によれば、母体の年齢、体力、そして教育期間を考慮すると、第一子プロジェクトの始動は『今』が最適解です」

ギルバートはしばらくポカンとしていたが、次第に頬が緩み、嬉しそうな表情になった。

「つまり……君は、私との子供が欲しいと言ってくれているのか?」

「感情論ではなく、組織論としての提案ですが……まあ、結論としてはイエスです」

アムリーが少し顔を背ける。

ギルバートは立ち上がり、アムリーを後ろから抱きしめた。

「嬉しいよ。私もずっと、君との子供が欲しいと思っていた」

「で、では合意ですね。つきましては、スケジュールを策定しました」

アムリーは顔を真っ赤にしながら、さらに細かい表を取り出した。

「基礎体温のグラフに基づき、受胎確率が最も高まる日時をピンポイントで算出しました。本日二二時三〇分より、寝室にて『製造工程』に入ります」

「……製造工程」

「所要時間は約四五分を予定。前後の栄養補給と睡眠時間を確保し、翌日の業務に支障が出ないよう配慮します」

ギルバートは苦笑して、アムリーの耳元にキスをした。

「アムリー。子供は工業製品じゃないんだ。そんなにカチカチに計画しなくても、愛があれば……」

「愛だけでは確率は上がりません! 生物学的データとタイミングが全てです!」

「はいはい。……でも、四五分で終わらせる約束はできないな」

「えっ?」

「君が可愛すぎるのがいけないんだ。……朝までコースかもしれない」

「非効率です! 睡眠不足はホルモンバランスの乱れに……んっ!」

反論は、朝の甘いキスによって封じられた。

          ◇

それから数ヶ月後。

宰相執務室で、アムリーは異変を感じていた。

「……おかしい」

彼女はペンの動きを止めた。

「計算速度が、通常時より五%低下している。それに、この眠気……。昨夜は七時間睡眠を確保したはずなのに」

さらに、大好物の紅茶の香りを嗅いだ瞬間、胸の奥からこみ上げてくる不快感。

「うっ……」

アムリーは口元を押さえ、洗面所へ駆け込んだ。

「大丈夫か、アムリー!?」

ギルバートが飛んでくる。

「顔色が悪いぞ。医者を呼ぼう!」

「い、いえ……ただの胃もたれかと。昨日のディナーの脂質計算を間違えたのかも……」

しかし、駆けつけた王宮医師の診断結果は、アムリーの予想(計算ミス)を覆すものだった。

「おめでとうございます、公爵夫人。ご懐妊です」

医師が笑顔で告げる。

「……はい?」

アムリーは瞬きをした。

「懐妊? 妊娠ということですか?」

「ええ。三ヶ月に入られたところですね」

「……計算通り(ドンピシャ)じゃないですか」

アムリーは呆然と呟いた。

「あの『製造工程』のスケジュール、完璧に機能していたなんて……」

「アムリー!」

ギルバートがアムリーの手を握りしめた。その目には涙が浮かんでいる。

「やったな! 私たちの子供だ!」

「……はい。プロジェクト・フェーズ1、成功です」

アムリーは冷静を装おうとしたが、お腹に手を当てた瞬間、言葉にできない感情が溢れてきた。

(ここに……新しい命が? 数字でも計算式でも表せない、未知の変数が?)

「……不思議ですね。コスト(つわり)は発生しているのに、損をした気分になりません」

「それが『愛』だよ、アムリー」

ギルバートはアムリーを優しく抱きしめた。

「これからは無理は禁物だ。仕事は減らして、安静に……」

「何をおっしゃいますか」

アムリーはキリッと顔を上げた。

「これからが本番です! 『出産準備プロジェクト』の立ち上げです! ベビー用品の選定、子供部屋のリフォーム、教育資金の積立……やるべきタスクは山積みですよ!」

「……やはり、君はブレないな」

          ◇

アムリーの妊婦生活は、周囲を巻き込んだ一大事業となった。

【栄養管理】

「本日のランチ。鉄分が二ミリグラム不足しています。ほうれん草を追加してください」

シェフに細かすぎる指示が飛ぶ。

「かしこまりました! 奥様と赤ちゃんのため、最高のバランスで仕上げます!」

【胎教】

「モーツァルト? いいえ、もっと実用的なものを聞かせるべきです」

アムリーはお腹に向かって、優しく語りかけた。

「いいですか、赤ちゃん。1足す1は2。借金の金利は複利計算が基本ですよ……」

「アムリー、お腹の子に経済学を教えるのはまだ早くないか?」

ギルバートが心配そうに見守る。

「英才教育です。生まれてすぐに決算書が読める子にします」

「……普通に童話とか読んであげてほしいんだが」

【ベビー用品調達】

「このベビーベッド、耐久性に問題があります。却下。こちらのオムツは吸水性に対するコストパフォーマンスが悪い。却下」

街のベビー用品店で、アムリーの厳しい監査が行われた。

店員たちは戦々恐々としていたが、アムリーが認めた商品は「公爵夫人のお墨付き」として爆発的に売れるようになった。

          ◇

季節が巡り、お腹が目立つようになった頃。

アムリーは屋敷のサンルームで、編み物をしていた。

以前のような「わら人形(ストレス発散)」ではなく、小さな靴下だ。

「……ふぅ」

「上手になったな」

仕事を早めに切り上げたギルバートが、隣に座る。

「編み目は数式と同じですから。パターンさえ覚えれば簡単です」

アムリーは完成した靴下を手に取った。

「……小さいですね」

「ああ。君のお腹の中に、この靴下を履く子が育っているんだ」

ギルバートはお腹に耳を当てた。

「動いた」

「はい。さっきから『キック』の頻度が高いです。元気すぎて、将来は暴れん坊かもしれません」

「男の子かな? 女の子かな?」

「どちらでも構いません。……ただ」

アムリーは窓の外の穏やかな庭を見つめた。

「願わくば、この子が『数字』に追われることなく、自由に生きられる世界であってほしいです。……私のように、借金や悪役令嬢の汚名と戦う必要のない、平和な人生を」

それは、計算高いアムリーが見せた、母親としての純粋な願いだった。

ギルバートはアムリーの手を包み込んだ。

「約束する。私が、そして私たちが、そんな世界を作ろう。……君が守ったこの国なら、きっと大丈夫だ」

「……そうですね」

アムリーは微笑んだ。

「そのためにも、パパ(旦那様)にはもっと稼いでもらわないといけませんね?」

「ははは! 結局そこか。……望むところだ。愛する妻と子のために、骨身を惜しまず働くよ」

幸せな笑い声が、サンルームに満ちた。

出産予定日まで、あと一ヶ月。

『次世代プロジェクト』の納期(出産)は、刻一刻と迫っていた。

しかし、アムリーの人生に「平穏無事な納期」など存在しない。

最後の最後に、予想外のトラブル(イベント)が発生するのは、もはやお約束である。
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