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宰相邸の執務室。
臨月を迎えたアムリーは、大きなお腹を抱えながらも、デスクに向かっていた。
「……今年度の決算報告書、最終チェック完了。予備費の残高、誤差なし」
アムリーは満足げにペンを置いた。
「よし。これで安心して産休に入れます」
「アムリー、まだ仕事をしていたのか?」
ギルバートが入ってきて、呆れたように眉を下げた。
「予定日まであと三週間あるとはいえ、いつ何が起きるか分からないんだぞ。医者からも安静にするように言われているだろう」
「大丈夫です、旦那様。私の計算では、陣痛開始は二〇日後の午前四時頃。それまでは通常業務が可能です」
アムリーは自信満々に手帳を見せた。
「出産準備は万全です。入院セットは玄関に配置済み。助産師への連絡網も構築済み。あとは『その時』を待つだけです」
「……君の自信には恐れ入るよ。でも、赤ん坊が君のスケジュール通りに動いてくれるとは限らない」
「私の遺伝子を受け継いでいるのなら、時間は厳守するはずです」
アムリーがふふんと笑った、その瞬間だった。
ズキン。
鋭い痛みが、下腹部を走った。
「……っ?」
アムリーの動きが止まる。
「どうした?」
「いえ……今、少し変なノイズが……」
アムリーは深呼吸をした。
(気のせいね。前駆陣痛にはまだ早いし、ただの腸の蠕動運動の誤差範囲……)
ズキン! ズキキン!!
さっきより強い衝撃。
そして、あろうことか、足元に温かいものが流れ落ちる感覚。
「……あ」
アムリーは顔面蒼白で足元を見た。
羊水だ。
「は、破水……!?」
「なっ!?」
ギルバートが駆け寄る。
「嘘でしょう!? 予定日より三週間も早いですよ!? スケジュール違反(納期前倒し)です!」
アムリーはパニックになりかけたが、すぐに職業病(合理主義)が顔を出した。
「い、いいえ、慌ててはいけません。状況分析……破水確認。陣痛間隔……計測不能、すでに三分間隔! 緊急事態(エマージェンシー)です!」
「アムリー! しっかりしろ!」
ギルバートがアムリーを抱き上げる。
「じ、陣痛室へ! 医師を呼べ! お湯だ! タオルだ!」
普段は冷徹な宰相が、この時ばかりはただの狼狽える夫になっていた。
「だ、旦那様……揺らさないでください……! ベクトル計算が狂います……!」
「喋らなくていい! 呼吸だ! ヒッヒッフーだ!」
◇
寝室は、戦場のような喧騒に包まれていた。
「奥様! 頑張ってください! もう少しですよ!」
助産師の声が響く。
「ぐっ……うううっ……!」
アムリーはベッドのシーツを握りしめ、脂汗を流していた。
痛い。
これは、アムリーの人生における「痛みランキング」の堂々一位を更新した。王妃教育の鞭打ちも、カイルへのストレスも、これに比べれば蚊に刺された程度だ。
「非効率……! こんなに痛いなんて……人体の設計ミスです……!」
アムリーは叫んだ。
「なぜ痛覚信号をカットできないのですか! スイッチはどこですか!」
「アムリー、私の手を握るんだ! 痛み分けならいくらでもするから!」
ギルバートが枕元で手を差し出す。
アムリーはその手を、万力のような力で握りしめた。
ミシミシッ。
「ぐっ……!」
ギルバートの顔が歪む。
「いいですか、旦那様! これは共同プロジェクトです! 貴方も責任の一端(五〇%)を負う義務があります!」
「ああ、分かっている! だから指の骨が折れそうでも耐える!」
「赤ちゃん! 聞こえますか! 出口はそちらです! 迷わず直進してください! ロスタイムは許しませんよ!」
アムリーはお腹に向かって業務命令を飛ばす。
しかし、赤ちゃんはマイペースだ。なかなか出てこない。
時間は無情に過ぎていく。
三時間、五時間、十時間……。
アムリーの体力(HP)は限界に近づいていた。
「はぁ、はぁ……。もう……無理です……。エネルギー切れです……」
アムリーの目が虚ろになる。
「アムリー! 諦めるな!」
ギルバートが叫ぶ。
「君はどんな困難も乗り越えてきただろう! 借金も、冤罪も、国家の危機も! これくらいなんだ!」
「……種類が違います……。これは……理屈が通じない相手です……」
「君ならできる! この子に会いたくないのか!?」
「会いたい……ですが……」
その時。
アムリーの脳裏に、ある数字が浮かんだ。
『これまでにかかったコスト:つわり十ヶ月、陣痛十時間、私の体力九八%消費』
(……これだけのコストをかけて、成果物(赤ちゃん)なしで終わる? ――あり得ない!)
アムリーの瞳に、執念の炎が宿った。
(損切りはしない。ここまできたら、絶対に元を取る(産む)!)
「……うおおおおおお!」
アムリーは最後の力を振り絞った。
「出てきなさい! 私の最高傑作!」
いきんで、いきんで、いきみ抜く。
そして。
オギャアアアアアアア!!!
元気な産声が、屋敷中に響き渡った。
「う、生まれた……!」
助産師が、小さな、血まみれの塊を抱き上げる。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」
アムリーは荒い息をつきながら、その姿を見た。
しわくちゃで、猿のようで、そして驚くほど生命力に溢れた存在。
「……やっと……会えましたね……」
アムリーの目から、涙が溢れ出した。
それは痛みの涙ではなく、達成感と、どうしようもない愛おしさの涙だった。
ギルバートも泣いていた。
「ありがとう、アムリー……。本当に、ありがとう……」
彼はアムリーの額にキスをし、そして我が子を恐る恐る抱き上げた。
「軽いな……。でも、温かい」
「旦那様、見せてください」
アムリーは赤ちゃんを覗き込んだ。
赤ちゃんは、まだ開かない目で、一生懸命に何かを探しているように手を動かしている。
そして、アムリーの指をぎゅっと握った。
その瞬間。
アムリーの中の「計算機」が、完全に停止した。
(……数値化できない。この可愛さ、この尊さ……プライスレス)
「名前は……どうする?」
ギルバートが尋ねる。
アムリーは微笑んだ。
「決めてあります。『レオン』……獅子のように強く、そして賢く育つように」
「レオンか。いい名前だ」
「レオン・フォン・ライオット。……貴方は今日から、この家の次期当主です」
アムリーは赤ちゃんに指を握らせたまま、優しく語りかけた。
「覚悟してくださいね。ママがみっちりと『帝王学』と『簿記』を教えてあげますから」
「……生まれたばかりの子に、またそんなことを」
ギルバートが苦笑する。
だが、その表情は幸せに満ちていた。
「でも、まずは……ゆっくり休んでくれ、アムリー。君は、世界一の仕事をしたんだ」
「はい……。では、事後処理は……お願いします……」
アムリーは安心したように目を閉じ、泥のような眠りへと落ちていった。
◇
数日後。
アムリーはベッドの上で、授乳(という名のエネルギー供給業務)を行っていた。
「吸引力が凄いです。ダイソン並みです」
「元気な証拠だ」
ギルバートが揺りかごを揺らす。
そこへ、騒がしい足音が近づいてきた。
「アムリー! 孫は!? 私の孫はどこだ!」
ロベルト(アムリーの父)が飛び込んでくる。
「まあ、可愛い! ギルバートにそっくりですわ!」
カサンドラ夫人も扇子を放り出して駆け寄る。
さらには、
「おーい! 祝いに来たぞー!」
窓の外から、なぜかレグルス皇帝の声まで聞こえてくる(また不法入国したらしい)。
「……賑やかですね」
アムリーは苦笑した。
「静かな育児環境を想定していましたが、修正が必要そうです」
「ああ。でも、退屈はしなそうだ」
ギルバートがアムリーとレオンを抱き寄せる。
「これからもよろしく頼むよ、私の大切な家族」
「はい。……契約更新(自動継続)ですね」
アムリーは幸せそうに微笑んだ。
彼女の腕の中には、どんな宝石よりも価値のある「未来」が眠っていた。
臨月を迎えたアムリーは、大きなお腹を抱えながらも、デスクに向かっていた。
「……今年度の決算報告書、最終チェック完了。予備費の残高、誤差なし」
アムリーは満足げにペンを置いた。
「よし。これで安心して産休に入れます」
「アムリー、まだ仕事をしていたのか?」
ギルバートが入ってきて、呆れたように眉を下げた。
「予定日まであと三週間あるとはいえ、いつ何が起きるか分からないんだぞ。医者からも安静にするように言われているだろう」
「大丈夫です、旦那様。私の計算では、陣痛開始は二〇日後の午前四時頃。それまでは通常業務が可能です」
アムリーは自信満々に手帳を見せた。
「出産準備は万全です。入院セットは玄関に配置済み。助産師への連絡網も構築済み。あとは『その時』を待つだけです」
「……君の自信には恐れ入るよ。でも、赤ん坊が君のスケジュール通りに動いてくれるとは限らない」
「私の遺伝子を受け継いでいるのなら、時間は厳守するはずです」
アムリーがふふんと笑った、その瞬間だった。
ズキン。
鋭い痛みが、下腹部を走った。
「……っ?」
アムリーの動きが止まる。
「どうした?」
「いえ……今、少し変なノイズが……」
アムリーは深呼吸をした。
(気のせいね。前駆陣痛にはまだ早いし、ただの腸の蠕動運動の誤差範囲……)
ズキン! ズキキン!!
さっきより強い衝撃。
そして、あろうことか、足元に温かいものが流れ落ちる感覚。
「……あ」
アムリーは顔面蒼白で足元を見た。
羊水だ。
「は、破水……!?」
「なっ!?」
ギルバートが駆け寄る。
「嘘でしょう!? 予定日より三週間も早いですよ!? スケジュール違反(納期前倒し)です!」
アムリーはパニックになりかけたが、すぐに職業病(合理主義)が顔を出した。
「い、いいえ、慌ててはいけません。状況分析……破水確認。陣痛間隔……計測不能、すでに三分間隔! 緊急事態(エマージェンシー)です!」
「アムリー! しっかりしろ!」
ギルバートがアムリーを抱き上げる。
「じ、陣痛室へ! 医師を呼べ! お湯だ! タオルだ!」
普段は冷徹な宰相が、この時ばかりはただの狼狽える夫になっていた。
「だ、旦那様……揺らさないでください……! ベクトル計算が狂います……!」
「喋らなくていい! 呼吸だ! ヒッヒッフーだ!」
◇
寝室は、戦場のような喧騒に包まれていた。
「奥様! 頑張ってください! もう少しですよ!」
助産師の声が響く。
「ぐっ……うううっ……!」
アムリーはベッドのシーツを握りしめ、脂汗を流していた。
痛い。
これは、アムリーの人生における「痛みランキング」の堂々一位を更新した。王妃教育の鞭打ちも、カイルへのストレスも、これに比べれば蚊に刺された程度だ。
「非効率……! こんなに痛いなんて……人体の設計ミスです……!」
アムリーは叫んだ。
「なぜ痛覚信号をカットできないのですか! スイッチはどこですか!」
「アムリー、私の手を握るんだ! 痛み分けならいくらでもするから!」
ギルバートが枕元で手を差し出す。
アムリーはその手を、万力のような力で握りしめた。
ミシミシッ。
「ぐっ……!」
ギルバートの顔が歪む。
「いいですか、旦那様! これは共同プロジェクトです! 貴方も責任の一端(五〇%)を負う義務があります!」
「ああ、分かっている! だから指の骨が折れそうでも耐える!」
「赤ちゃん! 聞こえますか! 出口はそちらです! 迷わず直進してください! ロスタイムは許しませんよ!」
アムリーはお腹に向かって業務命令を飛ばす。
しかし、赤ちゃんはマイペースだ。なかなか出てこない。
時間は無情に過ぎていく。
三時間、五時間、十時間……。
アムリーの体力(HP)は限界に近づいていた。
「はぁ、はぁ……。もう……無理です……。エネルギー切れです……」
アムリーの目が虚ろになる。
「アムリー! 諦めるな!」
ギルバートが叫ぶ。
「君はどんな困難も乗り越えてきただろう! 借金も、冤罪も、国家の危機も! これくらいなんだ!」
「……種類が違います……。これは……理屈が通じない相手です……」
「君ならできる! この子に会いたくないのか!?」
「会いたい……ですが……」
その時。
アムリーの脳裏に、ある数字が浮かんだ。
『これまでにかかったコスト:つわり十ヶ月、陣痛十時間、私の体力九八%消費』
(……これだけのコストをかけて、成果物(赤ちゃん)なしで終わる? ――あり得ない!)
アムリーの瞳に、執念の炎が宿った。
(損切りはしない。ここまできたら、絶対に元を取る(産む)!)
「……うおおおおおお!」
アムリーは最後の力を振り絞った。
「出てきなさい! 私の最高傑作!」
いきんで、いきんで、いきみ抜く。
そして。
オギャアアアアアアア!!!
元気な産声が、屋敷中に響き渡った。
「う、生まれた……!」
助産師が、小さな、血まみれの塊を抱き上げる。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」
アムリーは荒い息をつきながら、その姿を見た。
しわくちゃで、猿のようで、そして驚くほど生命力に溢れた存在。
「……やっと……会えましたね……」
アムリーの目から、涙が溢れ出した。
それは痛みの涙ではなく、達成感と、どうしようもない愛おしさの涙だった。
ギルバートも泣いていた。
「ありがとう、アムリー……。本当に、ありがとう……」
彼はアムリーの額にキスをし、そして我が子を恐る恐る抱き上げた。
「軽いな……。でも、温かい」
「旦那様、見せてください」
アムリーは赤ちゃんを覗き込んだ。
赤ちゃんは、まだ開かない目で、一生懸命に何かを探しているように手を動かしている。
そして、アムリーの指をぎゅっと握った。
その瞬間。
アムリーの中の「計算機」が、完全に停止した。
(……数値化できない。この可愛さ、この尊さ……プライスレス)
「名前は……どうする?」
ギルバートが尋ねる。
アムリーは微笑んだ。
「決めてあります。『レオン』……獅子のように強く、そして賢く育つように」
「レオンか。いい名前だ」
「レオン・フォン・ライオット。……貴方は今日から、この家の次期当主です」
アムリーは赤ちゃんに指を握らせたまま、優しく語りかけた。
「覚悟してくださいね。ママがみっちりと『帝王学』と『簿記』を教えてあげますから」
「……生まれたばかりの子に、またそんなことを」
ギルバートが苦笑する。
だが、その表情は幸せに満ちていた。
「でも、まずは……ゆっくり休んでくれ、アムリー。君は、世界一の仕事をしたんだ」
「はい……。では、事後処理は……お願いします……」
アムリーは安心したように目を閉じ、泥のような眠りへと落ちていった。
◇
数日後。
アムリーはベッドの上で、授乳(という名のエネルギー供給業務)を行っていた。
「吸引力が凄いです。ダイソン並みです」
「元気な証拠だ」
ギルバートが揺りかごを揺らす。
そこへ、騒がしい足音が近づいてきた。
「アムリー! 孫は!? 私の孫はどこだ!」
ロベルト(アムリーの父)が飛び込んでくる。
「まあ、可愛い! ギルバートにそっくりですわ!」
カサンドラ夫人も扇子を放り出して駆け寄る。
さらには、
「おーい! 祝いに来たぞー!」
窓の外から、なぜかレグルス皇帝の声まで聞こえてくる(また不法入国したらしい)。
「……賑やかですね」
アムリーは苦笑した。
「静かな育児環境を想定していましたが、修正が必要そうです」
「ああ。でも、退屈はしなそうだ」
ギルバートがアムリーとレオンを抱き寄せる。
「これからもよろしく頼むよ、私の大切な家族」
「はい。……契約更新(自動継続)ですね」
アムリーは幸せそうに微笑んだ。
彼女の腕の中には、どんな宝石よりも価値のある「未来」が眠っていた。
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