婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

文字の大きさ
26 / 28

26

しおりを挟む
宰相邸の執務室。

臨月を迎えたアムリーは、大きなお腹を抱えながらも、デスクに向かっていた。

「……今年度の決算報告書、最終チェック完了。予備費の残高、誤差なし」

アムリーは満足げにペンを置いた。

「よし。これで安心して産休に入れます」

「アムリー、まだ仕事をしていたのか?」

ギルバートが入ってきて、呆れたように眉を下げた。

「予定日まであと三週間あるとはいえ、いつ何が起きるか分からないんだぞ。医者からも安静にするように言われているだろう」

「大丈夫です、旦那様。私の計算では、陣痛開始は二〇日後の午前四時頃。それまでは通常業務が可能です」

アムリーは自信満々に手帳を見せた。

「出産準備は万全です。入院セットは玄関に配置済み。助産師への連絡網も構築済み。あとは『その時』を待つだけです」

「……君の自信には恐れ入るよ。でも、赤ん坊が君のスケジュール通りに動いてくれるとは限らない」

「私の遺伝子を受け継いでいるのなら、時間は厳守するはずです」

アムリーがふふんと笑った、その瞬間だった。

ズキン。

鋭い痛みが、下腹部を走った。

「……っ?」

アムリーの動きが止まる。

「どうした?」

「いえ……今、少し変なノイズが……」

アムリーは深呼吸をした。

(気のせいね。前駆陣痛にはまだ早いし、ただの腸の蠕動運動の誤差範囲……)

ズキン! ズキキン!!

さっきより強い衝撃。

そして、あろうことか、足元に温かいものが流れ落ちる感覚。

「……あ」

アムリーは顔面蒼白で足元を見た。

羊水だ。

「は、破水……!?」

「なっ!?」

ギルバートが駆け寄る。

「嘘でしょう!? 予定日より三週間も早いですよ!? スケジュール違反(納期前倒し)です!」

アムリーはパニックになりかけたが、すぐに職業病(合理主義)が顔を出した。

「い、いいえ、慌ててはいけません。状況分析……破水確認。陣痛間隔……計測不能、すでに三分間隔! 緊急事態(エマージェンシー)です!」

「アムリー! しっかりしろ!」

ギルバートがアムリーを抱き上げる。

「じ、陣痛室へ! 医師を呼べ! お湯だ! タオルだ!」

普段は冷徹な宰相が、この時ばかりはただの狼狽える夫になっていた。

「だ、旦那様……揺らさないでください……! ベクトル計算が狂います……!」

「喋らなくていい! 呼吸だ! ヒッヒッフーだ!」

          ◇

寝室は、戦場のような喧騒に包まれていた。

「奥様! 頑張ってください! もう少しですよ!」

助産師の声が響く。

「ぐっ……うううっ……!」

アムリーはベッドのシーツを握りしめ、脂汗を流していた。

痛い。

これは、アムリーの人生における「痛みランキング」の堂々一位を更新した。王妃教育の鞭打ちも、カイルへのストレスも、これに比べれば蚊に刺された程度だ。

「非効率……! こんなに痛いなんて……人体の設計ミスです……!」

アムリーは叫んだ。

「なぜ痛覚信号をカットできないのですか! スイッチはどこですか!」

「アムリー、私の手を握るんだ! 痛み分けならいくらでもするから!」

ギルバートが枕元で手を差し出す。

アムリーはその手を、万力のような力で握りしめた。

ミシミシッ。

「ぐっ……!」

ギルバートの顔が歪む。

「いいですか、旦那様! これは共同プロジェクトです! 貴方も責任の一端(五〇%)を負う義務があります!」

「ああ、分かっている! だから指の骨が折れそうでも耐える!」

「赤ちゃん! 聞こえますか! 出口はそちらです! 迷わず直進してください! ロスタイムは許しませんよ!」

アムリーはお腹に向かって業務命令を飛ばす。

しかし、赤ちゃんはマイペースだ。なかなか出てこない。

時間は無情に過ぎていく。

三時間、五時間、十時間……。

アムリーの体力(HP)は限界に近づいていた。

「はぁ、はぁ……。もう……無理です……。エネルギー切れです……」

アムリーの目が虚ろになる。

「アムリー! 諦めるな!」

ギルバートが叫ぶ。

「君はどんな困難も乗り越えてきただろう! 借金も、冤罪も、国家の危機も! これくらいなんだ!」

「……種類が違います……。これは……理屈が通じない相手です……」

「君ならできる! この子に会いたくないのか!?」

「会いたい……ですが……」

その時。

アムリーの脳裏に、ある数字が浮かんだ。

『これまでにかかったコスト:つわり十ヶ月、陣痛十時間、私の体力九八%消費』

(……これだけのコストをかけて、成果物(赤ちゃん)なしで終わる? ――あり得ない!)

アムリーの瞳に、執念の炎が宿った。

(損切りはしない。ここまできたら、絶対に元を取る(産む)!)

「……うおおおおおお!」

アムリーは最後の力を振り絞った。

「出てきなさい! 私の最高傑作!」

いきんで、いきんで、いきみ抜く。

そして。

オギャアアアアアアア!!!

元気な産声が、屋敷中に響き渡った。

「う、生まれた……!」

助産師が、小さな、血まみれの塊を抱き上げる。

「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」

アムリーは荒い息をつきながら、その姿を見た。

しわくちゃで、猿のようで、そして驚くほど生命力に溢れた存在。

「……やっと……会えましたね……」

アムリーの目から、涙が溢れ出した。

それは痛みの涙ではなく、達成感と、どうしようもない愛おしさの涙だった。

ギルバートも泣いていた。

「ありがとう、アムリー……。本当に、ありがとう……」

彼はアムリーの額にキスをし、そして我が子を恐る恐る抱き上げた。

「軽いな……。でも、温かい」

「旦那様、見せてください」

アムリーは赤ちゃんを覗き込んだ。

赤ちゃんは、まだ開かない目で、一生懸命に何かを探しているように手を動かしている。

そして、アムリーの指をぎゅっと握った。

その瞬間。

アムリーの中の「計算機」が、完全に停止した。

(……数値化できない。この可愛さ、この尊さ……プライスレス)

「名前は……どうする?」

ギルバートが尋ねる。

アムリーは微笑んだ。

「決めてあります。『レオン』……獅子のように強く、そして賢く育つように」

「レオンか。いい名前だ」

「レオン・フォン・ライオット。……貴方は今日から、この家の次期当主です」

アムリーは赤ちゃんに指を握らせたまま、優しく語りかけた。

「覚悟してくださいね。ママがみっちりと『帝王学』と『簿記』を教えてあげますから」

「……生まれたばかりの子に、またそんなことを」

ギルバートが苦笑する。

だが、その表情は幸せに満ちていた。

「でも、まずは……ゆっくり休んでくれ、アムリー。君は、世界一の仕事をしたんだ」

「はい……。では、事後処理は……お願いします……」

アムリーは安心したように目を閉じ、泥のような眠りへと落ちていった。

          ◇

数日後。

アムリーはベッドの上で、授乳(という名のエネルギー供給業務)を行っていた。

「吸引力が凄いです。ダイソン並みです」

「元気な証拠だ」

ギルバートが揺りかごを揺らす。

そこへ、騒がしい足音が近づいてきた。

「アムリー! 孫は!? 私の孫はどこだ!」

ロベルト(アムリーの父)が飛び込んでくる。

「まあ、可愛い! ギルバートにそっくりですわ!」

カサンドラ夫人も扇子を放り出して駆け寄る。

さらには、

「おーい! 祝いに来たぞー!」

窓の外から、なぜかレグルス皇帝の声まで聞こえてくる(また不法入国したらしい)。

「……賑やかですね」

アムリーは苦笑した。

「静かな育児環境を想定していましたが、修正が必要そうです」

「ああ。でも、退屈はしなそうだ」

ギルバートがアムリーとレオンを抱き寄せる。

「これからもよろしく頼むよ、私の大切な家族」

「はい。……契約更新(自動継続)ですね」

アムリーは幸せそうに微笑んだ。

彼女の腕の中には、どんな宝石よりも価値のある「未来」が眠っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

うちに待望の子供が産まれた…けど

satomi
恋愛
セント・ルミヌア王国のウェーリキン侯爵家に双子で生まれたアリサとカリナ。アリサは黒髪。黒髪が『不幸の象徴』とされているセント・ルミヌア王国では疎まれることとなる。対してカリナは金髪。家でも愛されて育つ。二人が4才になったときカリナはアリサを自分の侍女とすることに決めた(一方的に)それから、両親も家での事をすべてアリサ任せにした。 デビュタントで、カリナが皇太子に見られなかったことに腹を立てて、アリサを勘当。隣国へと国外追放した。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

私に婚約者がいたらしい

来栖りんご
恋愛
学園に通っている公爵家令嬢のアリスは親友であるソフィアと話をしていた。ソフィアが言うには私に婚約者がいると言う。しかし私には婚約者がいる覚えがないのだが…。遂に婚約者と屋敷での生活が始まったが私に回復魔法が使えることが発覚し、トラブルに巻き込まれていく。

居場所を失った令嬢と結婚することになった男の葛藤

しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢ロレーヌは悪女扱いされて婚約破棄された。 父親は怒り、修道院に入れようとする。 そんな彼女を助けてほしいと妻を亡くした28歳の子爵ドリューに声がかかった。 学園も退学させられた、まだ16歳の令嬢との結婚。 ロレーヌとの初夜を少し先に見送ったせいで彼女に触れたくなるドリューのお話です。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

【完結】婚約破棄されたら、呪いが解けました

あきゅう
恋愛
人質として他国へ送られた王女ルルベルは、その国の人たちに虐げられ、婚約者の王子からも酷い扱いを受けていた。 この物語は、そんな王女が幸せを掴むまでのお話。

処理中です...