婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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光陰矢の如し。

レオン・フォン・ライオットが生まれてから、早五年の歳月が流れていた。

宰相邸のサンルーム。

そこでは、天使のように愛らしい少年が、一心不乱に何かを書いていた。

サラサラサラ……。

「……よし。計算終了だ」

レオンはペンを置くと、満足げに頷いた。

その横顔はギルバート譲りの美少年だが、眼鏡(伊達眼鏡。母の真似)をクイッと上げる仕草は、完全に母親のコピーだった。

「終わったの、レオン?」

アムリーが紅茶を運びながら入ってくる。

「はい、お母様。今月の領地経営における収支報告書の添削、完了しました」

五歳児の口から出る言葉ではない。

しかし、アムリーは嬉しそうに目を細めた。

「あら、早かったわね。結果はどう?」

「概ね良好ですが、北部の鉱山の採掘効率が0.5%低下しています。現場監督のシフト管理に無駄があるようです。改善案を別紙にまとめておきました」

「素晴らしいわ、レオン! 0.5%の誤差を見抜くなんて!」

アムリーは息子を抱きしめた。

「さすが私の最高傑作(息子)ね! これならいつ引退しても安心だわ!」

「苦しいです、お母様。酸素供給が遮断されます」

「ごめんなさい、愛が重すぎたわね」

これが、ライオット公爵家の日常である。

アムリーの英才教育(という名のスパルタ経営学)を受けたレオンは、五歳にして「神童」どころか「小さな宰相」として名を馳せていた。

そこへ、本物の宰相(ギルバート)が帰宅した。

「ただいま、アムリー、レオン」

「おかえりなさい、お父様」

「あなた、お疲れ様です」

ギルバートはレオンの頭を撫でた。

「今日は何をしていたんだい? お友達と遊んだか?」

「いいえ。お母様と『先物取引』のシミュレーションゲームをしていました。僕の圧勝です」

「……そうか」

ギルバートは複雑な顔をした。

「アムリー。レオンはまだ五歳だぞ? もっとこう、木登りとか、泥遊びとかさせなくていいのか?」

「泥遊びは衣服の汚れ(クリーニング代)と怪我のリスク(治療費)が発生するだけで、生産性がありません」

アムリーはきっぱりと言い切った。

「それに、この子も数字遊びの方が好きよね?」

「はい。数字は裏切りませんから」

レオンが真顔で答える。

ギルバートは頭を抱えた。

「ああ……。アムリーが二人になったようだ……。可愛いけど、将来が心配だ……」

          ◇

そんなある日。

ライオット邸に、またしてもあの「嵐」がやってきた。

ドォォォン!

玄関の扉が豪快に開く音。

「よう! 元気にしてたか、アムリー!」

黄金の甲冑を纏った巨漢、ガルニア皇帝レグルスである。

彼は相変わらず、事前の連絡(アポ)なしに国境を越えてくる。

「……陛下。不法侵入は国際問題ですよ」

アムリーが呆れ顔で出迎える。

「細かいことは気にするな! 今日は俺の『養子』を迎えに来たんだ!」

「は?」

「レオンだ! あの神童レオンを、俺の帝国の次期皇帝にする!」

レグルスはズカズカとリビングに入り込み、本を読んでいたレオンを見つけると、満面の笑みで抱き上げた。

「おお! 大きくなったなレオン! どうだ、俺の国に来ないか? お菓子もオモチャも山ほどあるぞ!」

レオンは空中で足をぶらつかせながら、冷ややかにレグルスを見下ろした。

「……おじ様。不法侵入罪および未成年者誘拐未遂罪で訴えますよ?」

「ブッ!」

レグルスが吹き出す。

「ガハハハ! この生意気さ! まさにアムリーの息子だ! 気に入った! やはり俺の養子になれ!」

「お断りします」

ギルバートが剣の柄に手をかけて入ってきた。

「私の息子に触らないでいただきたい。レオンはライオット家の跡取りだ」

「ケチくさいこと言うなよ、ギルバート。才能ある若者は、より大きな舞台(帝国)で輝くべきだろ?」

レグルスは引かない。

「アムリー、貴様なら分かるはずだ。この小さな国で一生を終えるより、大帝国を支配する方が『リターン』が大きいとな!」

アムリーは腕を組んで考え込んだ。

「……確かに。市場規模で言えば帝国の方が魅力的ですね」

「アムリー!?」

ギルバートが叫ぶ。

「ですが」

アムリーは眼鏡を光らせた。

「レオンの価値(バリュエーション)は、貴方の提示額では安すぎます」

「ほう? いくらなら売る?」

「金貨一億枚。プラス、帝国の全領土の譲渡。それが最低ラインです」

「国ごとじゃねーか!」

レグルスがツッコミを入れる。

「当然です。私の手塩にかけた最高傑作ですよ? 安売りはしません」

アムリーはレオンを奪い返し、その頬にすりすりした。

「それに、この子は私の『癒やし成分』も兼ねています。手放したら私が枯れてしまいます」

「お母様、頬が痛いです」

レオンが無表情で言うが、抵抗はしない。実は満更でもないのだ。

「ちっ、相変わらず強欲な女だ」

レグルスは諦めたように肩をすくめたが、その目は笑っていた。

「まあいい。だが覚えておけ。レオンが成人したら、俺の娘(皇女)を嫁にやる。これは予約だ!」

「政略結婚の予約ですか。……悪くない提案ですね。持参金次第では検討します」

「アムリー!」

ギルバートが悲鳴を上げる。

          ◇

騒がしい客が帰った後。

夕食のテーブルで、レオンがポツリと言った。

「……僕、お母様のような『商人』にはなりません」

「え?」

アムリーの手が止まる。

「あら、宰相を目指すのではなかったの?」

「いいえ。僕は……お父様のような『宰相』になりたいです」

レオンは隣に座るギルバートを見た。

「お母様は計算が得意ですが、時々、人の心を見落とします。お父様は計算は苦手ですが、人の心を動かします」

「うっ……痛いところを突くわね」

「僕は、お母様の『頭脳』と、お父様の『心』。両方を持った最強の宰相になります。……それが、一番効率的ですから」

レオンはニッコリと笑った。

その笑顔は、アムリーの計算高さと、ギルバートの優しさが完璧に融合したものだった。

アムリーとギルバートは顔を見合わせ――。

「……参ったな」

「ええ。完全に負けました」

二人は同時に笑った。

親の背中を見て、子は育つ。

しかも、親の良いところだけを抽出して、さらに進化して。

「頼もしいわね。これなら、私の老後は安泰だわ」

「君は、息子に頼る気満々だな」

「当然です。投資した分は回収しませんと」

「……やれやれ」

幸せな笑い声が、ダイニングに響く。

アムリーの「家族計画」は、予想を遥かに超える「黒字(ハッピー)」を生み出し続けていた。

しかし、物語はここで終わらない。

アムリーには最後に一つだけ、やり残した「仕事」があった。

それは、彼女自身の「幸せの決算報告」を、読者に届けることである。
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