悪役令嬢、婚約破棄に「御意!」と即答!

ちゅんりー

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「ふふ……ふふふ……! 見ろ、あの笑顔を!」


リズナ商会本店の裏手、鬱蒼(うっそう)と茂る生垣の中。

泥だらけの顔に小枝を数本挿し、カメレオンのように同化している男が一人。

ギルバート・フォン・ローゼリア第一王子その人でした。

彼は震える手で望遠鏡を握りしめ、執務室の窓辺に立つリズナを凝視していました。


「あんなに高笑いをして……。あれは間違いなく、精神の均衡を崩しているのだ。私を失った悲しみを紛らわせるために、空元気(からげんき)を演じているに違いない!」


レンズの向こうのリズナは、確かに満面の笑みを浮かべていました。

しかし、その手にあるのはハンカチではなく、分厚い『売上帳』と『金貨の山』です。

「ニヤリ」という表現がこれほど似合う公爵令嬢も珍しいのですが、フィルターのかかった王子の目には「悲痛な叫び」に見えているようです。


「待っていてくれ、リズナ。今すぐその偽りの仮面を剥がし、私の胸で泣かせてやるからな……!」


ギルバートは立ち上がりました。

数日間の森での遭難生活により、彼の自慢の金髪は鳥の巣のように絡まり、最高級のシルクの服はボロ雑巾のように裂け、片方の靴は底が抜けています。

従者たちは途中で「もう無理です、救援を呼んできます」と離脱(逃亡)してしまい、今の彼は正真正銘の孤独(ソロ)でした。


「行くぞ! 感動の再会だ!」


ギルバートは生垣を飛び出し、正面ゲートへとダッシュしました。


          ◇


一方、執務室の私、リズナ。


「素晴らしいわ……! 予想を上回る利益率よ!」


私は震えていました。感動で。

『スターライト・パウダー』の売上は右肩上がり。さらに、アルヴィンが開発した『自動肩たたき機(ゴーレムの手)』が、高齢の貴族たちの間で密かなブームになりつつあるのです。


「お嬢様、そろそろ午後の取引先との商談のお時間ですが」

「ええ、分かっているわ。今日の相手は宝石商組合の理事長ね。強敵だけど、骨までしゃぶり尽くして……いえ、Win-Winの関係を築きましょう」


私が気合を入れて立ち上がった時でした。

窓の外、正面ゲートの方から怒号が聞こえてきました。


「無礼者! 私を通せ! 私は客だぞ!」
「あー、はいはい。おじさん、整理券持ってる?」
「整理券などいらぬ! 顔パスだ!」


騒がしいですね。

私は眉をひそめ、窓から下を覗き込みました。

ゲートの前で、警備担当のゴードン(元山賊親分)と、浮浪者のような男が揉み合っています。


「……セオドア」

「はい」

「ウチの商会は、いつから炊き出しを始めたのかしら?」

「存じ上げませんね。しかし、あの薄汚い身なり……どうやら職を求めてやってきた失業者のようです」

「人手は足りているわ。丁重にお引き取り願って」


私が指示を出そうとした瞬間、その浮浪者が叫びました。


「リズナ! そこにいるんだろう! 私だ、ギルバートだ!」


……はい?

私は耳を疑いました。
今、なんと?
ギルバート?

私は眼鏡の位置を直し、目を凝らしました。

ボサボサの金髪。泥だらけの頬。伸び放題の無精髭。そして異臭を放っていそうなボロボロの服。

どこをどう見ても、王都の地下水道に生息していそうな不審者です。

しかし、その無駄に自信満々な立ち振る舞いと、現実が見えていない瞳の輝き。

(……本物だわ)

私は頭痛がしてきました。
まさか、本当にここまで追ってきたとは。しかも、この姿で。


「……セオドア」

「はい」

「見なかったことにしましょう」

「賛成です。あの汚染物質を敷地内に入れると、商会のブランドイメージに関わります」


私がカーテンを閉めようとすると、ギルバート(不審者)がゲートを強行突破しようと暴れ出しました。


「どけぇ! 私はこの国の第一王子だぞ! 不敬罪で処刑されたいか!」

「へっ! 王子だぁ?」


ゴードンが鼻で笑いました。


「おい見ろよ、この汚ねぇおっさん、王子様だってよ!」
「ギャハハ! 最近多いんだよな、リズナ様に会いたくて嘘つくヤツ!」
「先週も『俺は隣国の宰相だ』って言ってる酔っ払いがいたぜ!」


元山賊の警備員たちが腹を抱えて笑っています。
無理もありません。今の彼に王族のオーラは皆無です。あるのは貧乏神のオーラだけ。


「き、貴様ら……! 信じぬか! ならば証拠を見せてやる!」


ギルバートは懐を探りました。
王家の紋章が入った短剣か、身分証を出そうとしたのでしょう。

しかし。


「……あ、あれ? ない? ないぞ?」


顔面蒼白になる王子。
そういえば、森で熊に襲われた際、荷物をすべて放り出して逃げたという報告が、私の耳にも入っていました。


「お、落とした……! 国宝級の短剣を……!」

「はいはい、嘘はそこまでな。帰った帰った!」


ゴードンがギルバートの襟首を掴み、つまみ出そうとします。

その時、商談に来ていた宝石商の馬車が通りかかりました。


「おや? 騒がしいな。何事かね?」

「ああ、申し訳ありませんお客様。ちょっとした『害虫』が迷い込みまして」


ゴードンが謝ります。
ギルバートは馬車の窓に縋り付きました。


「そこの御仁! 貴殿は宝石商だな! 私の顔に見覚えはないか! 王都の夜会で会ったことがあるはずだ!」


宝石商の紳士は、ギルバートの顔をジロジロと見つめ……そしてハンカチで鼻を覆いました。


「……存じ上げませんな。このような臭う方と夜会で会えば、記憶に残るでしょうが」

「なっ……!?」

「衛兵! この男を遠ざけてくれ。商品に蚤(ノミ)が移る!」


ピシャリ、と馬車の窓が閉められました。

ギルバートは呆然と立ち尽くしました。

身分証もなく、金もなく、身なりも汚い。
そうなった時、彼の『王子』という肩書きは、何の意味も持たなかったのです。


「嘘だ……私は……私は……」


膝から崩れ落ちるギルバート。
ゴードンが「ちっ、面倒なヤツだ」と舌打ちし、箒(ほうき)で彼を掃き出そうとした、その時です。


「――待ちなさい」


私は観念して、バルコニーに出ました。
このまま騒ぎが大きくなれば、営業妨害になります。


「リ、リズナ!」


私の姿を見て、ギルバートの顔がパァッと輝きました。
泥だらけの犬が、飼い主を見つけた時の表情です。


「ああ、やはり君だ! 待っていたぞ、君が助けに来てくれるのを!」

「……どなたですか?」


私は冷徹に見下ろしました。


「え?」

「ウチの従業員がご迷惑をおかけしたようですが……お客様ですか? アポイントメントは?」

「な、何を言っている! 私だ、元婚約者のギルバートだ!」

「ギルバート殿下?」


私はわざとらしく首をかしげました。


「まさか。私の知る殿下は、もっとこう……無駄にキラキラしていて、ナルシストで、自分以外の人類を見下している方でした。貴方のように、地べたを這いつくばるような方ではありません」

「ぐっ……! そ、それは、ここまで来るのに苦労して……」

「それに、殿下は王宮の最深部で書類仕事に埋もれているはずです。こんな辺境に、護衛も連れずに現れるはずがない。つまり、貴方は『王子の名を騙る詐欺師』ですね?」

「ち、違う! 本物だ! 信じてくれ!」


ギルバートが叫びます。
私は冷ややかな目で、論理的(ロジカル)に詰めました。


「証明できますか? 身分証は? 証人は? 所持金は?」

「そ、それは……全部ないが……」

「論外です。社会的信用(クレジット)がゼロの人間を、敷地内に入れるわけにはいきません。セキュリティ・リスクです」


私はゴードンに目配せしました。


「ゴードン。その不審者を『立ち入り禁止区域』の外へ放り出しなさい。ただし、慈悲としてパンの耳を恵んであげて」

「へい! 了解です!」

「ま、待て! パンの耳!? 私は王子だぞ! ステーキを出せ! いや、君の手料理を……」


ゴードンと部下たちが、左右からギルバートの腕を掴みました。


「往生際が悪いぜ、おっさん!」
「オーナーの慈悲に感謝しな!」

「はなせ! リズナァァァ! 君は素直じゃないだけだ! 本当は泣いて喜んでいるんだろう!?」


ズルズルと引きずられていくギルバート。
その姿は、かつて私に「婚約破棄」を突きつけた時の威厳など、微塵もありませんでした。

私は彼が森の奥へと投げ捨てられる(リリースされる)のを見届け、ふぅ、と息を吐きました。


「……セオドア」

「はい」

「塩を撒いておいて」

「承知いたしました。高級な岩塩をたっぷりと」


私はバルコニーから部屋に戻りました。

胸が痛む?
いいえ。
心がざわつく?
はい、少しだけ。

(あんな状態で、よく生きてたどり着いたわね……生命力だけはゴキブリ並みかしら)

そのしぶとさだけは、少しだけ評価してあげてもいいかもしれません。
計算外の変数(イレギュラー)が生じましたが、私のビジネスプランに変更はありません。

しかし。
森に放り出されたギルバートは、パンの耳をかじりながら、逆に燃え上がっていました。


「……見てろリズナ。君がその気なら、私にも考えがある」


彼の瞳から、正気の光が消え、代わりに『執念』という名の狂気が宿り始めていました。
そして、私の知らないところで、彼はとんでもない行動に出ようとしていたのです。
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