悪役令嬢、婚約破棄に「御意!」と即答!

ちゅんりー

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「ふふふ……これぞ完璧だ」


リズナ商会・本館の廊下。

ギルバート(雑用係ギル)は、銀のトレイを恭(うやうや)しく掲げ、忍び足で進んでいました。

トレイの上には、湯気を立てるコーヒーカップが一客。

色はドロリとした漆黒。香りは……なぜか焦げたゴムのような刺激臭が漂っています。


「リズナは最近、根を詰めすぎだ。ここらで私が淹れた『特製・疲労回復コーヒー』を差し入れれば、彼女の心も休まるはず!」


ギルバートは自信満々でした。

豆を挽く道具がなかったので、石臼(岩盤粉砕用)で粉々にし、フィルターがなかったので自分のハンカチ(洗濯済み)で濾した、渾身の一杯です。

執務室の扉まで、あと5メートル。

彼は勝利を確信し、一歩を踏み出しました。


「――お待ちください、新人(ルーキー)」


その一歩が床に着く直前、音もなく彼の前に黒い影が立ちふさがりました。

執事のセオドアです。

壁のシミと同化していたかのような自然な出現に、ギルバートはトレイを取り落としそうになりました。


「うおっ!? セ、セオドアか……。驚かせないでくれ」

「失礼。不審な気配がしたもので、つい『害虫駆除』の構えを取ってしまいました」


セオドアはニッコリと微笑んでいます。

しかし、その右手に握られた銀食器(ナイフ)は、光の加減で鋭利な輝きを放っていました。


「不審者とは失敬な! 私はオーナーへの差し入れを持ってきたのだ! 通してくれたまえ」

「差し入れ、ですか」


セオドアはトレイの上の液体を一瞥し、眉をひそめました。


「……失礼ですが、そのカップに入っているのは何ですか? アルヴィンが実験に失敗した廃液ですか?」

「コーヒーだ! 失礼な!」

「ほう。コーヒー豆を炭化するまで煎り、泥水で抽出したように見受けられますが」

「隠し味に、裏山で採れた『元気が出るキノコ』を入れたんだ!」

「毒物混入ですね。没収します」


セオドアがスッと手を伸ばすと、ギルバートの手からカップが消え、次の瞬間には廊下の窓から外へ(正確には消毒槽へ)投棄されていました。


「ああっ! 私の愛の結晶が!」

「お嬢様の胃袋は、貴方の実験場ではありません。下がってください」

「くっ……邪魔をするなセオドア! 貴様、私がリズナと復縁するのが怖いのか!?」


ギルバートは食い下がりました。


「私がリズナの隣に戻れば、貴様の出番はなくなる! だから今のうちに私を排除しようとしているのだろう!」

「……はぁ」


セオドアは深く、心底呆れたような溜息をつきました。


「勘違いなさらないでください。私はお嬢様の『利益』を守るために動いているだけです」

「利益だと?」

「ええ。現在の貴方は、お嬢様にとって『不良債権』そのものです。皿を割る、指示を間違う、そして無駄なアピールで時間を奪う。貴方を執務室に入れることは、お嬢様の貴重な労働時間をドブに捨てるのと同義なのです」


セオドアが一歩踏み出すと、ギルバートは圧に押されて後ずさりました。


「それに……」

「それに?」

「貴方はお嬢様のことを何も分かっていません。お嬢様が今、何を考えているか当てられますか?」

「そ、それは……『ああ、ギルバート様が恋しい』とか、『早く誰か迎えに来て』とか……」

「ブブー。不正解です」


セオドアは冷たく言い放ちました。


「現在、お嬢様の脳内を占めているのは『いかに楽して儲けるか』、そして『次の四半期の決算をどう粉飾……いえ、調整するか』の二点のみです。そこに『色恋』という非生産的な要素が入り込む余地は、1ミリもありません」

「そ、そんな……!」

「分かったら、さっさと持ち場へ戻りなさい。今日の貴方のノルマは、トイレ掃除です」


セオドアはシッシッ、と犬を追い払うような仕草をしました。

ギルバートは唇を噛み締めました。

真正面からの突破は不可能。ならば――。


「……ふん、覚えていろ!」


ギルバートは捨て台詞を吐いて、廊下を走って逃げ出しました。

セオドアはそれを見送り、眼鏡の位置を直しました。


「やれやれ。……ですが、あの目はまだ諦めていませんね」


セオドアの予想通りでした。

数分後。

執務室のバルコニー。
リズナが窓を開けて換気をしていると、下からガサガサという音が聞こえてきました。


「……?」

「リズナァァァ! 来たぞォォォ!」


なんと、ギルバートが庭の蔦(つた)を伝って、2階のバルコニーへよじ登ってきたのです。

顔は泥だらけ、服はボロボロ。しかし、その手には一輪の野花が握られています。


「正規ルートがダメなら裏口から! これぞ愛の奇襲作戦!」

「……ギル。貴方、自分が何をしているか分かっているの?」


リズナが冷めた目で見下ろすと、ギルバートは手すりに足をかけ、カッコよく(?)乗り越えようとしました。


「君に会うためなら、私はスパイダーにでもなる! さあ、この花を受け取ってく……ぶべっ!?」


ドスッ!!

鈍い音が響きました。

ギルバートの顔面に、濡れた雑巾が直撃したのです。


「お掃除の時間ですよ、新人」


バルコニーの影から、またしてもセオドアが現れました。
手にはバケツとモップを持っています。


「セ、セオドアァァ! また貴様か!」

「バルコニーの手すりが汚れていましたので。……おや? 大きなゴミが付着していますね。拭き取らねば」

「ゴミ扱いするな!」


ギルバートが体勢を立て直そうとしますが、セオドアは容赦しませんでした。

彼はモップを巧みに操り、ギルバートの足元をすくいます。


「『執事流・床掃除奥義(スウィーピング)』!」

「うわああああっ!?」


ギルバートは宙を舞いました。

そして、放物線を描いて、1階の植え込み(トゲのあるバラの茂み)へとダイブしていきました。


ズサァァァッ!!

「ぎゃああああッ!!」


悲鳴が遠ざかっていきます。

セオドアは何事もなかったかのようにモップを収め、リズナに向き直りました。


「お見苦しいところをお見せしました、お嬢様。……カラスが迷い込んだようでしたので」

「……カラスにしては随分と派手な悲鳴だったわね」

「発情期なのでしょう」

「そう。なら仕方ないわね」


リズナは興味なさそうに書類に視線を戻しました。

セオドアはバルコニーから下を覗き込みました。
バラの茂みの中で悶絶する元王子を見下ろし、小さく呟きます。


「……お嬢様の隣に立つには、まだ100年早いですよ。ひよっこ殿下」


その瞳には、単なる従者としての忠誠心だけではない、どこか昏(くら)い独占欲のような光が、一瞬だけ宿っていました。

しかし、すぐにいつもの完璧な執事の笑顔に戻り、彼は静かに窓を閉めました。


リズナ商会の鉄壁の防御。
ギルバートがそれを突破する日は来るのでしょうか。

そして、平和な(?)攻防戦が繰り広げられている一方で、王都では事態が深刻な局面を迎えていました。

リズナが去った穴が大きすぎて、ついに国家の屋台骨が軋みを上げ始めたのです。
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