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「ドール・ヴァレンタイン! 貴様のような冷酷非道な女との婚約は、これをもって破棄する!」
王城の大広間。
きらびやかなシャンデリアの下、カイル王太子の高らかな宣言が響き渡った。
周囲の貴族たちがざわめき、手に持っていたグラスを止める。
音楽は不自然に途切れ、張り詰めた静寂が場を支配した。
カイルの隣には、ピンクブロンドの愛らしい男爵令嬢、ミナが寄り添っている。
彼女は怯えたように震えながら、カイルの腕にしがみついていた。
「ああ、可哀想なミナ……。僕がついていながら、こんなにも怯えて」
「カイル様……っ。私、怖くて……」
二人の世界に入り込んでいるお花畑カップルの向かい側。
扇子も持たず、直立不動で立っている一人の令嬢がいた。
公爵令嬢、ドール・ヴァレンタイン。
腰まである艶やかな黒髪に、深淵を覗き込むようなアメジストの瞳。
誰もが振り返るほどの絶世の美女だが、その顔には感情というものが一切存在していなかった。
能面。あるいは精巧なビスクドール。
人々は彼女を畏怖と嘲笑を込めて『人形姫』と呼ぶ。
カイルは勝ち誇った顔で、その『人形姫』を見下ろした。
さあ、泣き崩れるがいい。
愛する婚約者に捨てられた絶望に顔を歪め、足元に縋り付いてくるがいい。
そうすれば、少しは情けをかけてやらなくもない。
カイルがそんな優越感に浸っていた、その時だった。
「承知いたしました」
ドールの口から紡がれたのは、鈴を転がすような美声。
しかし、その抑揚は皆無。
まるで事務手続きの完了を告げる役人のような、淡々とした響きだった。
カイルの表情が凍りついた。
「……は?」
「ですから、承知いたしましたと申し上げております。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
ドールは一ミリも表情を変えず、優雅にカーテシー( تعظيم )をした。
その間、わずか〇・五秒。
あまりの即答ぶりに、カイルだけでなく、隣のミナもポカンと口を開けている。
(よしッッッ!!! キタコレ!!)
一方、ドールの内心では、盛大なファンファーレが鳴り響いていた。
(待ってました婚約破棄! いやー、長かった! この馬鹿王子の相手するの、正直もう限界やってん!)
彼女の顔面は永久凍土のごとく凍りついているが、脳内では関西弁のツッコミが荒れ狂っている。
ドール・ヴァレンタイン。
彼女は決して感情がないわけではない。
むしろ人一倍、感受性は豊かだ。
ただ、幼少期の厳しすぎる教育と、極度の緊張しいな性格が災いし、感情が顔の筋肉に伝達されないだけなのである。
嬉しい時も、悲しい時も、怒れる時も。
彼女の顔は常に『無』だ。
おかげで周囲からは『何を考えているか分からない』『冷たい』と誤解され続けてきた。
だが、今日という今日は、その鉄壁の無表情に感謝したい。
もし感情が顔に出ていたら、今頃だらしなくニヤけた顔を晒していただろうから。
「き、貴様……っ! なんだその態度は! 少しはショックを受けたらどうなんだ!?」
カイルが顔を真っ赤にして怒鳴る。
予想外の反応に、プライドが傷ついたらしい。
ドールは首をわずかに傾げた。
「ショック、でございますか? 殿下が真実の愛を見つけられたこと、臣下として喜ばしく思います。……何か不都合でも?」
正論である。
あまりにも正論すぎて、ぐうの音も出ない。
「そ、そういうことではない! 僕が言っているのは、貴様のその……人を小馬鹿にしたような顔だ!」
「小馬鹿になどしておりません。生まれつきでございます」
「嘘をつけ! いつもいつも、僕が話している時にその冷たい目で見下しやがって!」
(いや、あんたの話がつまらん上に中身がないから、虚空を見つめて現実逃避してただけやけど……)
ドールは心の中で毒づきながら、表面上は殊勝な態度を崩さない。
「誤解でございます、殿下。私は常に、殿下のお言葉を一言一句聞き漏らすまいと、真剣に拝聴しておりました」
「嘘だ! 先日の公務の時も、僕が政策について熱く語っていたのに、貴様はあくびを噛み殺していただろう!」
「滅相もございません。あまりに素晴らしいご高説に、感動のあまり言葉を失っていただけでございます」
「その顔が嘘だと言っているんだ!」
カイルが地団駄を踏む。
王太子としての威厳など、もはや欠片もない。
周囲の貴族たちは、ヒソヒソと囁き合い始めた。
『おい、王太子殿下があんなに取り乱しておられるぞ』
『ドール嬢、全く動じていないな……さすがは氷の人形姫』
『いや、あまりに無反応すぎて逆に怖いのだが』
『可哀想に、ショックで感情が麻痺してしまったのではないか?』
どうやら周囲は、ドールが『ショックを受けて固まっている』か『冷徹すぎて何も感じていない』かのどちらかに解釈しているようだ。
誰も、彼女が心の中でガッツポーズをしているとは夢にも思っていない。
ここで、カイルの隣にいたミナが一歩前に出た。
うるうるとした瞳でドールを見つめ、震える声で訴える。
「ドール様……。ひどいです。どうしてそんなに冷たいんですか? カイル様は、貴女のことを思って……」
「ミナ……っ!」
カイルが感動したようにミナの肩を抱く。
ミナはカイルの胸に顔を埋め、上目遣いでドールを睨んだ。
「私、知っています。ドール様が私の教科書を破いたり、ドレスにワインをかけたりしたこと……。それでも私は、ドール様と仲良くしたかったのに……」
会場が再びざわめく。
『えっ、ドール嬢がいじめを?』
『まさか、あの高潔な公爵令嬢が……』
『いや、あの冷たい目ならやりかねないぞ』
根も葉もない噂が、さざ波のように広がっていく。
ドールは瞬きを一つした。
(はあ? 何言うてんのこの子。教科書破く? ドレスにワイン? そんな生産性のないこと、私がするわけないやろ)
ドールにとって、時間は金よりも貴重な資源だ。
そんないじめに費やす労力があるなら、領地の経営報告書を読み込むか、新しい投資案件を検討するほうがよほど有意義である。
だが、ここで反論して泥沼化するのは面倒だ。
今は一刻も早くこの場を去り、実家で祝杯をあげたい。
慰謝料の請求は、後日事務的に行えばいいことだ。
ドールは無表情のまま、ミナを見据えた。
「男爵令嬢ミナ様。……身に覚えのない罪状ですが、殿下がそれを真実となさるなら、私が何を言っても無駄でしょう」
「……っ! 認めるんですね!?」
ミナが勝ち誇ったように声を上げる。
ドールは淡々と続けた。
「肯定はしておりません。ただ、殿下のご判断に従い、身を引くと言っているのです。これ以上の議論は、この素晴らしい夜会の進行を妨げるだけかと」
ドールは周囲を見渡した。
多くの貴族たちが、好奇と困惑の入り混じった目で見守っている。
これ以上騒ぎを大きくすれば、王家の恥にもなりかねない。
カイルもそれに気づいたのか、バツが悪そうに咳払いをした。
「ふ、ふん。まあいい。貴様が罪を認め、潔く身を引くというなら、これ以上の追及はしてやらない。慈悲深い僕に感謝することだな」
「感謝いたします。……では、これにて失礼してもよろしいでしょうか?」
「ああ、とっとと消えろ! 貴様の顔など、二度と見たくない!」
「御意」
ドールは再び完璧なカーテシーを披露すると、踵を返した。
背筋をピンと伸ばし、足音一つ立てずに歩き出す。
その姿は、凛として美しく、そしてどこまでも孤高だった。
(よっしゃあああああ!! 帰れる!! 今日は赤飯や!!)
心の中でお祭り騒ぎを繰り広げながら、ドールは出口へと向かう。
だが、その時だった。
「……待ちたまえ」
不意に、低く、しかしよく通る声が呼び止めた。
ドールの足がピタリと止まる。
(え、誰? まだ何かあんの? もう勘弁してや……)
恐る恐る振り返ると、人垣が割れ、一人の男性が進み出てくるところだった。
夜闇のような黒髪に、鋭い氷河のような青い瞳。
仕立ての良い黒の燕尾服を隙なく着こなし、その身からは圧倒的な威圧感を放っている。
アーク・レイブン公爵。
現国王の弟であり、若くして宰相の地位にある、国一番の実力者だ。
そして、その冷徹な仕事ぶりから『氷の公爵』と恐れられる人物でもある。
(げっ。宰相閣下……。なんでここに?)
ドールは反射的に身構えた。
この人は苦手だ。
何しろ、目が笑っていない。
常に相手を値踏みするような、射抜くような視線。
自分も無表情だと言われるが、この人の場合は『無』ではなく『氷』だ。
触れれば凍傷になりそうな冷気を感じる。
アークはカイルとミナを一瞥もしないまま、まっすぐにドールの元へと歩み寄った。
そして、彼女の目の前で立ち止まる。
見下ろされる形になり、ドールはわずかに顎を引いた。
「レイブン公爵閣下。……何か?」
努めて冷静に問いかける。
アークはしばらく無言でドールの顔を見つめていた。
その青い瞳が、ドールの能面のような顔をじっくりと観察する。
やがて、彼は口元をわずかに歪めた。
「……君」
「はい」
「面白い顔をしているね」
「……は?」
ドールは我が耳を疑った。
今、なんと?
面白い顔?
この、鉄壁の無表情を指して?
「いえ、失礼。顔の造作の話ではない。……その、張り付いた仮面の裏で」
アークは一歩、ドールに近づいた。
耳元に唇を寄せ、周囲には聞こえないほどの低い声で囁く。
「ものすごい勢いで計算をしている音が聞こえてきそうだ。『慰謝料いくら取れるかな』……とね」
ドールの心臓が、ドクリと跳ねた。
(バ、バレてる……!?)
まさか。そんなはずはない。
自分の無表情スキルは完璧なはずだ。
これまで誰にも心を読ませたことなどない。
なのに、なぜこの男には筒抜けなのだ。
ドールは必死に動揺を抑え込み、真顔で言い返した。
「……買い被りです、閣下。私はただ、殿下の幸せを願っていただけです」
「ふっ。……口が堅いのも美徳だ」
アークは身体を離すと、楽しそうに目を細めた。
その瞳には、先ほどまでの冷たさはなく、代わりに獲物を見つけた肉食獣のような光が宿っている。
「ドール・ヴァレンタイン嬢。君のその『合理的な』判断、高く評価するよ」
「は、はあ……恐縮です」
「また近いうちに会おう。……面白い話を持って」
意味深な言葉を残し、アークは踵を返した。
呆然とするドールを残し、彼はカイルの方へと向かっていく。
「お、叔父上! 今の女との会話は……」
カイルが慌てて声をかけるが、アークは冷ややかな視線を一瞥させただけで、何も答えずに会場を去っていった。
嵐のような男だった。
ドールは小さく息を吐き出した。
(……なんか、変な人に目ェつけられた気がするんやけど)
背筋に冷たいものが走るのを感じながら、ドールは今度こそ会場を後にした。
これから始まる、慰謝料請求という名の戦い。
そして、あの『氷の公爵』との厄介な関わりを、この時の彼女はまだ知る由もなかったのである。
王城の大広間。
きらびやかなシャンデリアの下、カイル王太子の高らかな宣言が響き渡った。
周囲の貴族たちがざわめき、手に持っていたグラスを止める。
音楽は不自然に途切れ、張り詰めた静寂が場を支配した。
カイルの隣には、ピンクブロンドの愛らしい男爵令嬢、ミナが寄り添っている。
彼女は怯えたように震えながら、カイルの腕にしがみついていた。
「ああ、可哀想なミナ……。僕がついていながら、こんなにも怯えて」
「カイル様……っ。私、怖くて……」
二人の世界に入り込んでいるお花畑カップルの向かい側。
扇子も持たず、直立不動で立っている一人の令嬢がいた。
公爵令嬢、ドール・ヴァレンタイン。
腰まである艶やかな黒髪に、深淵を覗き込むようなアメジストの瞳。
誰もが振り返るほどの絶世の美女だが、その顔には感情というものが一切存在していなかった。
能面。あるいは精巧なビスクドール。
人々は彼女を畏怖と嘲笑を込めて『人形姫』と呼ぶ。
カイルは勝ち誇った顔で、その『人形姫』を見下ろした。
さあ、泣き崩れるがいい。
愛する婚約者に捨てられた絶望に顔を歪め、足元に縋り付いてくるがいい。
そうすれば、少しは情けをかけてやらなくもない。
カイルがそんな優越感に浸っていた、その時だった。
「承知いたしました」
ドールの口から紡がれたのは、鈴を転がすような美声。
しかし、その抑揚は皆無。
まるで事務手続きの完了を告げる役人のような、淡々とした響きだった。
カイルの表情が凍りついた。
「……は?」
「ですから、承知いたしましたと申し上げております。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
ドールは一ミリも表情を変えず、優雅にカーテシー( تعظيم )をした。
その間、わずか〇・五秒。
あまりの即答ぶりに、カイルだけでなく、隣のミナもポカンと口を開けている。
(よしッッッ!!! キタコレ!!)
一方、ドールの内心では、盛大なファンファーレが鳴り響いていた。
(待ってました婚約破棄! いやー、長かった! この馬鹿王子の相手するの、正直もう限界やってん!)
彼女の顔面は永久凍土のごとく凍りついているが、脳内では関西弁のツッコミが荒れ狂っている。
ドール・ヴァレンタイン。
彼女は決して感情がないわけではない。
むしろ人一倍、感受性は豊かだ。
ただ、幼少期の厳しすぎる教育と、極度の緊張しいな性格が災いし、感情が顔の筋肉に伝達されないだけなのである。
嬉しい時も、悲しい時も、怒れる時も。
彼女の顔は常に『無』だ。
おかげで周囲からは『何を考えているか分からない』『冷たい』と誤解され続けてきた。
だが、今日という今日は、その鉄壁の無表情に感謝したい。
もし感情が顔に出ていたら、今頃だらしなくニヤけた顔を晒していただろうから。
「き、貴様……っ! なんだその態度は! 少しはショックを受けたらどうなんだ!?」
カイルが顔を真っ赤にして怒鳴る。
予想外の反応に、プライドが傷ついたらしい。
ドールは首をわずかに傾げた。
「ショック、でございますか? 殿下が真実の愛を見つけられたこと、臣下として喜ばしく思います。……何か不都合でも?」
正論である。
あまりにも正論すぎて、ぐうの音も出ない。
「そ、そういうことではない! 僕が言っているのは、貴様のその……人を小馬鹿にしたような顔だ!」
「小馬鹿になどしておりません。生まれつきでございます」
「嘘をつけ! いつもいつも、僕が話している時にその冷たい目で見下しやがって!」
(いや、あんたの話がつまらん上に中身がないから、虚空を見つめて現実逃避してただけやけど……)
ドールは心の中で毒づきながら、表面上は殊勝な態度を崩さない。
「誤解でございます、殿下。私は常に、殿下のお言葉を一言一句聞き漏らすまいと、真剣に拝聴しておりました」
「嘘だ! 先日の公務の時も、僕が政策について熱く語っていたのに、貴様はあくびを噛み殺していただろう!」
「滅相もございません。あまりに素晴らしいご高説に、感動のあまり言葉を失っていただけでございます」
「その顔が嘘だと言っているんだ!」
カイルが地団駄を踏む。
王太子としての威厳など、もはや欠片もない。
周囲の貴族たちは、ヒソヒソと囁き合い始めた。
『おい、王太子殿下があんなに取り乱しておられるぞ』
『ドール嬢、全く動じていないな……さすがは氷の人形姫』
『いや、あまりに無反応すぎて逆に怖いのだが』
『可哀想に、ショックで感情が麻痺してしまったのではないか?』
どうやら周囲は、ドールが『ショックを受けて固まっている』か『冷徹すぎて何も感じていない』かのどちらかに解釈しているようだ。
誰も、彼女が心の中でガッツポーズをしているとは夢にも思っていない。
ここで、カイルの隣にいたミナが一歩前に出た。
うるうるとした瞳でドールを見つめ、震える声で訴える。
「ドール様……。ひどいです。どうしてそんなに冷たいんですか? カイル様は、貴女のことを思って……」
「ミナ……っ!」
カイルが感動したようにミナの肩を抱く。
ミナはカイルの胸に顔を埋め、上目遣いでドールを睨んだ。
「私、知っています。ドール様が私の教科書を破いたり、ドレスにワインをかけたりしたこと……。それでも私は、ドール様と仲良くしたかったのに……」
会場が再びざわめく。
『えっ、ドール嬢がいじめを?』
『まさか、あの高潔な公爵令嬢が……』
『いや、あの冷たい目ならやりかねないぞ』
根も葉もない噂が、さざ波のように広がっていく。
ドールは瞬きを一つした。
(はあ? 何言うてんのこの子。教科書破く? ドレスにワイン? そんな生産性のないこと、私がするわけないやろ)
ドールにとって、時間は金よりも貴重な資源だ。
そんないじめに費やす労力があるなら、領地の経営報告書を読み込むか、新しい投資案件を検討するほうがよほど有意義である。
だが、ここで反論して泥沼化するのは面倒だ。
今は一刻も早くこの場を去り、実家で祝杯をあげたい。
慰謝料の請求は、後日事務的に行えばいいことだ。
ドールは無表情のまま、ミナを見据えた。
「男爵令嬢ミナ様。……身に覚えのない罪状ですが、殿下がそれを真実となさるなら、私が何を言っても無駄でしょう」
「……っ! 認めるんですね!?」
ミナが勝ち誇ったように声を上げる。
ドールは淡々と続けた。
「肯定はしておりません。ただ、殿下のご判断に従い、身を引くと言っているのです。これ以上の議論は、この素晴らしい夜会の進行を妨げるだけかと」
ドールは周囲を見渡した。
多くの貴族たちが、好奇と困惑の入り混じった目で見守っている。
これ以上騒ぎを大きくすれば、王家の恥にもなりかねない。
カイルもそれに気づいたのか、バツが悪そうに咳払いをした。
「ふ、ふん。まあいい。貴様が罪を認め、潔く身を引くというなら、これ以上の追及はしてやらない。慈悲深い僕に感謝することだな」
「感謝いたします。……では、これにて失礼してもよろしいでしょうか?」
「ああ、とっとと消えろ! 貴様の顔など、二度と見たくない!」
「御意」
ドールは再び完璧なカーテシーを披露すると、踵を返した。
背筋をピンと伸ばし、足音一つ立てずに歩き出す。
その姿は、凛として美しく、そしてどこまでも孤高だった。
(よっしゃあああああ!! 帰れる!! 今日は赤飯や!!)
心の中でお祭り騒ぎを繰り広げながら、ドールは出口へと向かう。
だが、その時だった。
「……待ちたまえ」
不意に、低く、しかしよく通る声が呼び止めた。
ドールの足がピタリと止まる。
(え、誰? まだ何かあんの? もう勘弁してや……)
恐る恐る振り返ると、人垣が割れ、一人の男性が進み出てくるところだった。
夜闇のような黒髪に、鋭い氷河のような青い瞳。
仕立ての良い黒の燕尾服を隙なく着こなし、その身からは圧倒的な威圧感を放っている。
アーク・レイブン公爵。
現国王の弟であり、若くして宰相の地位にある、国一番の実力者だ。
そして、その冷徹な仕事ぶりから『氷の公爵』と恐れられる人物でもある。
(げっ。宰相閣下……。なんでここに?)
ドールは反射的に身構えた。
この人は苦手だ。
何しろ、目が笑っていない。
常に相手を値踏みするような、射抜くような視線。
自分も無表情だと言われるが、この人の場合は『無』ではなく『氷』だ。
触れれば凍傷になりそうな冷気を感じる。
アークはカイルとミナを一瞥もしないまま、まっすぐにドールの元へと歩み寄った。
そして、彼女の目の前で立ち止まる。
見下ろされる形になり、ドールはわずかに顎を引いた。
「レイブン公爵閣下。……何か?」
努めて冷静に問いかける。
アークはしばらく無言でドールの顔を見つめていた。
その青い瞳が、ドールの能面のような顔をじっくりと観察する。
やがて、彼は口元をわずかに歪めた。
「……君」
「はい」
「面白い顔をしているね」
「……は?」
ドールは我が耳を疑った。
今、なんと?
面白い顔?
この、鉄壁の無表情を指して?
「いえ、失礼。顔の造作の話ではない。……その、張り付いた仮面の裏で」
アークは一歩、ドールに近づいた。
耳元に唇を寄せ、周囲には聞こえないほどの低い声で囁く。
「ものすごい勢いで計算をしている音が聞こえてきそうだ。『慰謝料いくら取れるかな』……とね」
ドールの心臓が、ドクリと跳ねた。
(バ、バレてる……!?)
まさか。そんなはずはない。
自分の無表情スキルは完璧なはずだ。
これまで誰にも心を読ませたことなどない。
なのに、なぜこの男には筒抜けなのだ。
ドールは必死に動揺を抑え込み、真顔で言い返した。
「……買い被りです、閣下。私はただ、殿下の幸せを願っていただけです」
「ふっ。……口が堅いのも美徳だ」
アークは身体を離すと、楽しそうに目を細めた。
その瞳には、先ほどまでの冷たさはなく、代わりに獲物を見つけた肉食獣のような光が宿っている。
「ドール・ヴァレンタイン嬢。君のその『合理的な』判断、高く評価するよ」
「は、はあ……恐縮です」
「また近いうちに会おう。……面白い話を持って」
意味深な言葉を残し、アークは踵を返した。
呆然とするドールを残し、彼はカイルの方へと向かっていく。
「お、叔父上! 今の女との会話は……」
カイルが慌てて声をかけるが、アークは冷ややかな視線を一瞥させただけで、何も答えずに会場を去っていった。
嵐のような男だった。
ドールは小さく息を吐き出した。
(……なんか、変な人に目ェつけられた気がするんやけど)
背筋に冷たいものが走るのを感じながら、ドールは今度こそ会場を後にした。
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