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「……セバス。本当にこれで合っているの?」
私は玄関ホールの鏡の前で、自分の姿を凝視していた。
身に纏っているのは、殿下から贈られたミッドナイトブルーのドレス。
深い藍色の生地は、光の加減で夜空のように艶めき、散りばめられたダイヤモンドの装飾が星々のように瞬いている。
さらに、鼻梁には銀縁の眼鏡。
髪は「崩れるといけないから」と、侍女たちがガチガチにセットし、一分の隙もない夜会巻きに仕上げてくれた。
鏡の中にいるのは、デートに向かう乙女ではない。
これから闇の軍勢を率いて、聖都を焼き払いにいく「魔導女帝」だ。
「完璧でございます、お嬢様」
セバスが満足げに頷いた。
「その威厳、その冷徹な美貌。隣に立つ殿下が霞むほどの存在感です」
「霞ませちゃダメでしょうが!」
私は叫んだ。
デートとは、男性を立て、可愛らしく寄り添うものではないのか。
これでは私が主役で、殿下が「生贄として連行される王子」に見えてしまう。
「お嬢様、到着なさいました」
執事の声と共に、重厚な扉が開かれる。
そこに立っていたのは、本日のお相手、フレデリック殿下だった。
彼は白を基調とした騎士服風の装いで、爽やかな風を纏っていた。
眩しい。物理的に直視できないほどキラキラしている。
殿下は私を見た瞬間、足を止めた。
そして、そのアイスブルーの瞳を少しだけ見開き、頬を紅潮させた。
「……ミディア」
彼はため息のように私の名を呼んだ。
「美しい。夜空の女神が地上に降りてきたのかと思ったよ」
(うまいこと言うわね……)
私は内心で冷や汗をかいた。
「夜空の女神」なんて聞こえはいいが、要するに「昼間から夜のような格好をして威圧感がすごい」という皮肉だろう。
「あ、ありがとうございます……殿下も、その、大変お綺麗で……」
緊張のあまり、「かっこいい」ではなく「綺麗(Beauty)」と言ってしまった。
「行こうか。今日は二人きりだ」
殿下が手を差し出してくる。
私はその手を、恐る恐る取った。
「二人きり」という言葉が、私の脳内で「証人不在の尋問会」と変換される。
私たちは王家の紋章が入った豪奢な馬車へと乗り込んだ。
◇
ガタン、ゴトン……。
馬車が動き出す。
密室。
向かい合わせの席。
逃げ場なし。
私は膝の上で両手をきつく握りしめ、視線を床(高級な絨毯)に固定していた。
(会話……会話をしなきゃ!)
沈黙は金と言うが、今の私にとっては「沈黙は死」だ。
何か気の利いた話題を振らなければ、気まずさで窒息してしまう。
『今日はいいお天気ですね』
いや、そんなありきたりな話題では、公爵令嬢としての教養を疑われるかもしれない。
『最近の国政についてどう思われますか?』
デートでする話じゃない。
『私のクッキー、本当にお腹壊しませんでしたか?』
掘り返してはいけない過去だ。
私が脳内会議で迷走していると、ふと視線を感じた。
顔を上げる。
殿下が、頬杖をついて、じっとこちらを見ていた。
眼鏡のおかげで、その表情がハイビジョン画質で鮮明に見える。
長い睫毛。
通った鼻筋。
そして、何かを含んだような、熱っぽい瞳。
(ひっ……! 見られてる! 品定めされてる!)
私は反射的に背筋を伸ばし、戦闘態勢(と本人は思っている直立不動)をとった。
「……眼鏡」
殿下が口を開いた。
「かけてきてくれたんだな」
「は、はい! 頂きましたので、装備いたしました!」
「装備……まあいい。よく似合っているよ。知的な君の雰囲気が、より一層際立っている」
「恐縮です!」
私は軍人のように返事をした。
「どうだ、見え心地は?」
「最高です。殿下のお顔の、ええと、毛穴……じゃなくて、細部までくっきりと拝見できます」
「ほう。それは光栄だな」
殿下はクスリと笑った。
「なら、もっと近くで見てみるか?」
「え?」
殿下が身を乗り出した。
馬車の揺れに合わせて、彼の整った顔が近づいてくる。
私はパニックになり、逆に後ろへ仰け反った。背中が壁に張り付く。
「い、いえ! 十分です! これ以上近づかれると、その……私の目の毒ですので!」
「毒?」
「あ、いいえ! 眩しすぎて目が焼けるという意味です!」
私は必死に弁解した。
殿下は「目が焼ける、か」と楽しそうに繰り返し、元の姿勢に戻った。
「君は面白いな、ミディア」
「お、面白い……ですか?」
「ああ。退屈しない。……普段、私の周りにいる人間は、皆、私の顔色を窺って、当たり障りのない言葉しか言わないからな」
殿下の瞳に、ふと寂しげな色が混じった気がした。
「『素晴らしいです』『流石です』……そんな言葉ばかりだ。だが君は違う」
殿下は私の目を真っ直ぐに見た。
「君はいつも、全身全霊で私にぶつかってくる。クッキーも、手紙も、今の反応も。その不器用なまでの実直さが、私は好ましいと思う」
(実直……?)
私は瞬きをした。
違うんです殿下。それは単に私がテンパっているだけなんです。
でも、そんなことは言えない。
「……ところで、今日はどちらへ?」
私は話題を変えることにした。これ以上褒められる(?)と、心臓が持たない。
「ああ、言い忘れていたな。今日は王都近郊の農村へ行く」
「農村、ですか?」
「うむ。お忍びでの視察だ。最近、害獣の被害が出ていると報告があってね。騎士団に任せてもいいのだが、自分の目で確かめておきたくてな」
なるほど。視察デートとはそういう意味か。
王子自ら現場へ赴くなんて、やはりこの方は立派な統治者だ。
「分かりました。私も微力ながら、護衛……いえ、お供いたします」
「頼もしいな。だが、君はただ私の隣で笑っていてくれればいい」
殿下は優しく言った。
「君の笑顔があれば、どんな魔物も退散するだろうからな」
(……それ、やっぱり私の顔が魔除けになるって意味ですよね?)
私は複雑な気持ちで頷いた。
◇
しばらくして、馬車は舗装された街道を抜け、砂利道へと入った。
窓の外には、のどかな田園風景が広がっている。
しかし、私の服装は「ミッドナイトブルーの夜会ドレス」に「ハイヒール」。
どう考えても、農村視察に来る格好ではない。
「あの、殿下。私、場違いではありませんか?」
「気にすることはない。美しいものは、どこにいても美しい」
殿下の美的感覚は、やはりどこかズレている気がする。
その時だった。
ヒヒィィィン!!
突然、馬がいななき、馬車が激しく揺れた。
「きゃっ!?」
ガタンッ!!
急ブレーキがかかったような衝撃。
私は体勢を崩し、前方へ放り出された。
「危ない!」
殿下が手を伸ばす。
私は殿下の胸の中に飛び込む――はずだった。
しかし、私の運動神経(と護身術のたしなみ)が、無意識に反応してしまった。
「ぬんっ!」
私は空中で体勢を立て直し、殿下にぶつかる寸前で、壁を蹴って着地した。
ダンッ!
見事なスタント着地。
ドレスの裾がふわりと舞い、私はスパイ映画のアクションシーンのように、馬車の床に片膝をついてポーズを決めていた。
「……」
殿下の両手は、虚空を抱きしめたまま止まっていた。
「……すまない、大丈夫か?」
「は、はい。カスリ傷ひとつありません」
私は眼鏡をクイッと押し上げ(ズレていないか確認)、冷静に答えた。
可愛げのカケラもない。
「何が起きたんだ?」
殿下が窓の外を見ようとする。
「お待ちください、危険です!」
私は殿下を手で制し、自らドアを開けた。
「私が確認します」
私はドレスの裾を翻し、馬車から降り立った。
そこは森に囲まれた一本道。
御者が真っ青な顔で震えている。
「ど、どうしたの?」
「お、お嬢様……あ、あれを……!」
御者が指差した先。
道の真ん中に、巨大な影があった。
全身が筋肉の鎧のような、巨大な暴れ馬。いや、普通の馬ではない。野生化した「魔馬」だ。
目は赤く血走り、鼻息荒くこちらを睨んでいる。
「グルルルッ……」
魔馬が前足を掻く。
これはまずい。普通の馬車馬では太刀打ちできないし、護衛の騎士たちは後続の馬車だ(少し距離が離れている)。
「ミディア、下がっていろ!」
殿下が馬車から降りてこようとする。
「いけません殿下! 戻ってください!」
私は叫んだ。
このままでは殿下が襲われる。
私が囮になって、騎士たちが来るまでの時間を稼ぐしかない。
「……いい子ね。落ち着いて」
私は魔馬に向かって一歩踏み出した。
武器はない。
あるのは、この身ひとつと、殿下から頂いた「よく見える眼鏡」だけ。
魔馬が私に気づく。
「ヒヒィィン!!」
威嚇の声。並の令嬢なら気絶するレベルの殺気だ。
だが、私はベルンシュタイン公爵家の娘。そして、王都で数々の(不本意な)伝説を作ってきた女だ。
「……うるさいわね」
私は低く呟いた。
眼鏡のおかげで、魔馬の筋肉の動き、視線の先、そして弱点までもがクリアに見える。
私は眉間にシワを寄せ、目を細め、魔馬の目を真っ向から見据えた。
『そこをどきなさい』
声には出さない。
ただ、全身全霊の「圧」を目に込めて放つ。
私の背後に、幻影としての「ミッドナイトブルーの闇の女帝」が立ち上がった(ように見えた)。
魔馬の動きが止まる。
その赤い瞳が、私の氷のような青い瞳と交差する。
数秒の沈黙。
やがて。
「……ヒッ」
魔馬が、人間のような悲鳴を上げた。
そして、ブルブルと震え上がり、なんとその場でお腹を見せてひっくり返ったのだ。
「キャン!」
犬のような服従のポーズ。
「……え?」
私が拍子抜けしていると、背後からパチパチパチ……と拍手が聞こえた。
振り返ると、殿下が目を輝かせて立っていた。
「すごい……」
殿下はうっとりとした表情で呟いた。
「野生の魔馬を、睨みつけるだけで服従させるとは……。やはり君は、私が選んだ通りの女性だ」
「ち、違います殿下! 今のはたまたま……!」
「いや、美しい。その凛とした姿、まさに戦乙女(ヴァルキリー)だ」
殿下は私に歩み寄り、その手を取った。
「惚れ直したよ、ミディア」
「……はい?」
私は混乱した。
普通、野獣を睨み倒す令嬢なんて引かれるはずだ。
なぜこの王子は、こんなに嬉しそうなのか。
まさか、特殊な趣味をお持ちなのだろうか。
地面に転がる魔馬と、目を輝かせる王子、そして冷や汗まみれの私。
視察デートは、波乱の幕開けとなったのである。
私は玄関ホールの鏡の前で、自分の姿を凝視していた。
身に纏っているのは、殿下から贈られたミッドナイトブルーのドレス。
深い藍色の生地は、光の加減で夜空のように艶めき、散りばめられたダイヤモンドの装飾が星々のように瞬いている。
さらに、鼻梁には銀縁の眼鏡。
髪は「崩れるといけないから」と、侍女たちがガチガチにセットし、一分の隙もない夜会巻きに仕上げてくれた。
鏡の中にいるのは、デートに向かう乙女ではない。
これから闇の軍勢を率いて、聖都を焼き払いにいく「魔導女帝」だ。
「完璧でございます、お嬢様」
セバスが満足げに頷いた。
「その威厳、その冷徹な美貌。隣に立つ殿下が霞むほどの存在感です」
「霞ませちゃダメでしょうが!」
私は叫んだ。
デートとは、男性を立て、可愛らしく寄り添うものではないのか。
これでは私が主役で、殿下が「生贄として連行される王子」に見えてしまう。
「お嬢様、到着なさいました」
執事の声と共に、重厚な扉が開かれる。
そこに立っていたのは、本日のお相手、フレデリック殿下だった。
彼は白を基調とした騎士服風の装いで、爽やかな風を纏っていた。
眩しい。物理的に直視できないほどキラキラしている。
殿下は私を見た瞬間、足を止めた。
そして、そのアイスブルーの瞳を少しだけ見開き、頬を紅潮させた。
「……ミディア」
彼はため息のように私の名を呼んだ。
「美しい。夜空の女神が地上に降りてきたのかと思ったよ」
(うまいこと言うわね……)
私は内心で冷や汗をかいた。
「夜空の女神」なんて聞こえはいいが、要するに「昼間から夜のような格好をして威圧感がすごい」という皮肉だろう。
「あ、ありがとうございます……殿下も、その、大変お綺麗で……」
緊張のあまり、「かっこいい」ではなく「綺麗(Beauty)」と言ってしまった。
「行こうか。今日は二人きりだ」
殿下が手を差し出してくる。
私はその手を、恐る恐る取った。
「二人きり」という言葉が、私の脳内で「証人不在の尋問会」と変換される。
私たちは王家の紋章が入った豪奢な馬車へと乗り込んだ。
◇
ガタン、ゴトン……。
馬車が動き出す。
密室。
向かい合わせの席。
逃げ場なし。
私は膝の上で両手をきつく握りしめ、視線を床(高級な絨毯)に固定していた。
(会話……会話をしなきゃ!)
沈黙は金と言うが、今の私にとっては「沈黙は死」だ。
何か気の利いた話題を振らなければ、気まずさで窒息してしまう。
『今日はいいお天気ですね』
いや、そんなありきたりな話題では、公爵令嬢としての教養を疑われるかもしれない。
『最近の国政についてどう思われますか?』
デートでする話じゃない。
『私のクッキー、本当にお腹壊しませんでしたか?』
掘り返してはいけない過去だ。
私が脳内会議で迷走していると、ふと視線を感じた。
顔を上げる。
殿下が、頬杖をついて、じっとこちらを見ていた。
眼鏡のおかげで、その表情がハイビジョン画質で鮮明に見える。
長い睫毛。
通った鼻筋。
そして、何かを含んだような、熱っぽい瞳。
(ひっ……! 見られてる! 品定めされてる!)
私は反射的に背筋を伸ばし、戦闘態勢(と本人は思っている直立不動)をとった。
「……眼鏡」
殿下が口を開いた。
「かけてきてくれたんだな」
「は、はい! 頂きましたので、装備いたしました!」
「装備……まあいい。よく似合っているよ。知的な君の雰囲気が、より一層際立っている」
「恐縮です!」
私は軍人のように返事をした。
「どうだ、見え心地は?」
「最高です。殿下のお顔の、ええと、毛穴……じゃなくて、細部までくっきりと拝見できます」
「ほう。それは光栄だな」
殿下はクスリと笑った。
「なら、もっと近くで見てみるか?」
「え?」
殿下が身を乗り出した。
馬車の揺れに合わせて、彼の整った顔が近づいてくる。
私はパニックになり、逆に後ろへ仰け反った。背中が壁に張り付く。
「い、いえ! 十分です! これ以上近づかれると、その……私の目の毒ですので!」
「毒?」
「あ、いいえ! 眩しすぎて目が焼けるという意味です!」
私は必死に弁解した。
殿下は「目が焼ける、か」と楽しそうに繰り返し、元の姿勢に戻った。
「君は面白いな、ミディア」
「お、面白い……ですか?」
「ああ。退屈しない。……普段、私の周りにいる人間は、皆、私の顔色を窺って、当たり障りのない言葉しか言わないからな」
殿下の瞳に、ふと寂しげな色が混じった気がした。
「『素晴らしいです』『流石です』……そんな言葉ばかりだ。だが君は違う」
殿下は私の目を真っ直ぐに見た。
「君はいつも、全身全霊で私にぶつかってくる。クッキーも、手紙も、今の反応も。その不器用なまでの実直さが、私は好ましいと思う」
(実直……?)
私は瞬きをした。
違うんです殿下。それは単に私がテンパっているだけなんです。
でも、そんなことは言えない。
「……ところで、今日はどちらへ?」
私は話題を変えることにした。これ以上褒められる(?)と、心臓が持たない。
「ああ、言い忘れていたな。今日は王都近郊の農村へ行く」
「農村、ですか?」
「うむ。お忍びでの視察だ。最近、害獣の被害が出ていると報告があってね。騎士団に任せてもいいのだが、自分の目で確かめておきたくてな」
なるほど。視察デートとはそういう意味か。
王子自ら現場へ赴くなんて、やはりこの方は立派な統治者だ。
「分かりました。私も微力ながら、護衛……いえ、お供いたします」
「頼もしいな。だが、君はただ私の隣で笑っていてくれればいい」
殿下は優しく言った。
「君の笑顔があれば、どんな魔物も退散するだろうからな」
(……それ、やっぱり私の顔が魔除けになるって意味ですよね?)
私は複雑な気持ちで頷いた。
◇
しばらくして、馬車は舗装された街道を抜け、砂利道へと入った。
窓の外には、のどかな田園風景が広がっている。
しかし、私の服装は「ミッドナイトブルーの夜会ドレス」に「ハイヒール」。
どう考えても、農村視察に来る格好ではない。
「あの、殿下。私、場違いではありませんか?」
「気にすることはない。美しいものは、どこにいても美しい」
殿下の美的感覚は、やはりどこかズレている気がする。
その時だった。
ヒヒィィィン!!
突然、馬がいななき、馬車が激しく揺れた。
「きゃっ!?」
ガタンッ!!
急ブレーキがかかったような衝撃。
私は体勢を崩し、前方へ放り出された。
「危ない!」
殿下が手を伸ばす。
私は殿下の胸の中に飛び込む――はずだった。
しかし、私の運動神経(と護身術のたしなみ)が、無意識に反応してしまった。
「ぬんっ!」
私は空中で体勢を立て直し、殿下にぶつかる寸前で、壁を蹴って着地した。
ダンッ!
見事なスタント着地。
ドレスの裾がふわりと舞い、私はスパイ映画のアクションシーンのように、馬車の床に片膝をついてポーズを決めていた。
「……」
殿下の両手は、虚空を抱きしめたまま止まっていた。
「……すまない、大丈夫か?」
「は、はい。カスリ傷ひとつありません」
私は眼鏡をクイッと押し上げ(ズレていないか確認)、冷静に答えた。
可愛げのカケラもない。
「何が起きたんだ?」
殿下が窓の外を見ようとする。
「お待ちください、危険です!」
私は殿下を手で制し、自らドアを開けた。
「私が確認します」
私はドレスの裾を翻し、馬車から降り立った。
そこは森に囲まれた一本道。
御者が真っ青な顔で震えている。
「ど、どうしたの?」
「お、お嬢様……あ、あれを……!」
御者が指差した先。
道の真ん中に、巨大な影があった。
全身が筋肉の鎧のような、巨大な暴れ馬。いや、普通の馬ではない。野生化した「魔馬」だ。
目は赤く血走り、鼻息荒くこちらを睨んでいる。
「グルルルッ……」
魔馬が前足を掻く。
これはまずい。普通の馬車馬では太刀打ちできないし、護衛の騎士たちは後続の馬車だ(少し距離が離れている)。
「ミディア、下がっていろ!」
殿下が馬車から降りてこようとする。
「いけません殿下! 戻ってください!」
私は叫んだ。
このままでは殿下が襲われる。
私が囮になって、騎士たちが来るまでの時間を稼ぐしかない。
「……いい子ね。落ち着いて」
私は魔馬に向かって一歩踏み出した。
武器はない。
あるのは、この身ひとつと、殿下から頂いた「よく見える眼鏡」だけ。
魔馬が私に気づく。
「ヒヒィィン!!」
威嚇の声。並の令嬢なら気絶するレベルの殺気だ。
だが、私はベルンシュタイン公爵家の娘。そして、王都で数々の(不本意な)伝説を作ってきた女だ。
「……うるさいわね」
私は低く呟いた。
眼鏡のおかげで、魔馬の筋肉の動き、視線の先、そして弱点までもがクリアに見える。
私は眉間にシワを寄せ、目を細め、魔馬の目を真っ向から見据えた。
『そこをどきなさい』
声には出さない。
ただ、全身全霊の「圧」を目に込めて放つ。
私の背後に、幻影としての「ミッドナイトブルーの闇の女帝」が立ち上がった(ように見えた)。
魔馬の動きが止まる。
その赤い瞳が、私の氷のような青い瞳と交差する。
数秒の沈黙。
やがて。
「……ヒッ」
魔馬が、人間のような悲鳴を上げた。
そして、ブルブルと震え上がり、なんとその場でお腹を見せてひっくり返ったのだ。
「キャン!」
犬のような服従のポーズ。
「……え?」
私が拍子抜けしていると、背後からパチパチパチ……と拍手が聞こえた。
振り返ると、殿下が目を輝かせて立っていた。
「すごい……」
殿下はうっとりとした表情で呟いた。
「野生の魔馬を、睨みつけるだけで服従させるとは……。やはり君は、私が選んだ通りの女性だ」
「ち、違います殿下! 今のはたまたま……!」
「いや、美しい。その凛とした姿、まさに戦乙女(ヴァルキリー)だ」
殿下は私に歩み寄り、その手を取った。
「惚れ直したよ、ミディア」
「……はい?」
私は混乱した。
普通、野獣を睨み倒す令嬢なんて引かれるはずだ。
なぜこの王子は、こんなに嬉しそうなのか。
まさか、特殊な趣味をお持ちなのだろうか。
地面に転がる魔馬と、目を輝かせる王子、そして冷や汗まみれの私。
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