婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「おお、シナモン! 私の可愛いシナモン! よくぞ無事で……!」

馬車から降りた途端、熊のような巨体の男性に抱きすくめられた。

辺境伯である父、ガルシア・クラスツだ。

豪快な髭を蓄えた強面だが、今はその目から滝のような涙を流している。

「婚約破棄などと、あの王子は何を考えているのだ! お前のように可愛らしく、気品にあふれ、小麦の銘柄当てができる令嬢など他にいないというのに!」

「お父様、苦しいです。それと、褒め言葉の最後がおかしいです」

私は父の腕からなんとか脱出した。

感動の再会なのは分かるが、どうしても気になることがある。

「それよりお父様。屋敷の方から漂ってくる、この独特の……炭化したような香ばしすぎる匂いは何ですか?」

私が鼻をひくつかせると、父はバツが悪そうに視線を逸らした。

「い、いや……お前が傷心で帰ってくると聞いてな。せめて美味しいパンで励まそうと、見様見真似で焼いてみたのだが」

「焼いてみた?」

「火加減が難しくてな。窯の中で『暗黒物質』が生成された」

「……」

この親にしてこの子あり。

どうやら私のパン好きは、完全に遺伝だったらしい。

母様が生きていた頃は止められていたが、父も本質的にはパン(を食べるの)が大好きなのだ。

「失敗作を見せていただけますか?」

「いや、しかし……」

「今後のデータの参考にしたいのです。失敗には必ず原因がありますから」

私が真剣な眼差しを向けると、父は観念したように厨房から黒い塊を持ってきた。

それはかつて、丸パンだったと思われる物体だ。

私はそれを手に取り、コンコンと叩いた。

硬い。鈍器のような音がする。

「……こねすぎによるグルテンの過剰形成、および窯の温度が高すぎたことによる表面の炭化。中は生焼けの可能性が高いですね」

「一瞬で見抜くとは、さすが我が娘」

「お父様。私、決めました」

私は黒コゲパンを握りしめ、高らかに宣言した。

「この領地で、最高のパン屋を開きます。もう誰にも遠慮せず、朝から晩まで粉と戯れる生活を送りますわ!」

父は目を丸くしたが、すぐにニカっと笑った。

「いいじゃないか! 王都の軟弱な貴族どもには分からん味を、ここで極めればいい! 資金はいくらでも出そう!」

「ありがとうございます! まずは場所ですが……屋敷の裏にある、あの古い離れを使いたいのです」

「あそこか? もう何年も使っていないボロ家だぞ。もっと良い場所を建ててやるが」

「いいえ、あそこがいいのです」

私は力説した。

「あそこは風通しが良く、北向きで温度管理がしやすい。天然酵母を育てるには最高の環境なのです。それに、昔使われていた石造りの暖炉……あれを改造すれば、理想的な石窯になります」

「……お前、いつの間にそこまで調べていたんだ?」

「来る途中の馬車の中で、記憶の宮殿(過去の屋敷図面)にアクセスしていました」

父は呆れつつも、嬉しそうに私の頭を撫でた。

「好きにするがいい。お前の幸せが、パパの幸せだ。……ところで、そのパン屋ができたら、パパが一番最初の客になれるのか?」

「もちろんです。毒味……いえ、試食係をお願いしますわ」

「毒味と言いかけたな?」

こうして、辺境伯家の全面バックアップ(主に父のポケットマネーと胃袋)を得て、私の計画は動き出した。

***

翌朝。

私はさっそく、作業着に着替えて「離れ」に向かった。

作業着といっても、ドレスのスカートを短く切り詰め、白いエプロンをつけて頭に三角巾を巻いただけのものだ。

侍女のマリーが「お嬢様、足が見えています!」と悲鳴を上げているが、長いスカートで粉袋を運ぶわけにはいかない。

「ここね……」

目の前に立つのは、蔦(つた)が絡まった石造りの小屋。

扉を開けると、埃っぽい空気が舞い上がった。

ゲホゲホ、と咳き込むマリーをよそに、私は目を輝かせて中へ入る。

「広いわ! ここを作業台にして、あそこに発酵棚を置いて……」

床の埃を指でなぞりながら、脳内で家具の配置をシミュレーションする。

「お嬢様、まずは掃除ですね。使用人を呼びましょう」

「待ってマリー。ここは神聖な場所(厨房)になるのよ。私の手で清めたいわ」

「……ただ雑巾がけをするだけですよね?」

「いいえ、『清め』よ」

私は腕まくりをした。

パン作りは、清潔な環境から始まる。

雑菌は酵母の敵だ。

私はバケツと雑巾を手に取り、床を磨き始めた。

貴族の令嬢が四つん這いで床掃除をする姿に、駆けつけた使用人たちが「あわわわ」と慌てふためいているが、気にしてはいけない。

「そこの窓枠! まだ埃が残っていてよ! カビの胞子を甘く見ないで!」

「は、はいっ!」

いつの間にか、私は使用人たちに的確な掃除指示を出していた。

私の熱意に当てられたのか、それとも目が怖かったのか、屋敷中のメイドや庭師が集まってきて、あっという間に離れはピカピカになった。

「ふう……完璧ね」

夕方。

綺麗になった小屋の真ん中で、私は腰に手を当てて満足げに頷いた。

壁には真っ白な漆喰(しっくい)を塗り直し、床は磨き上げられた石畳。

奥には、父が大急ぎで職人を手配して修理してくれた、レンガ造りの巨大な石窯が鎮座している。

まだ火は入っていないが、その存在感だけでご飯、いやパンが三杯はいけそうだ。

「お嬢様、看板はどうなさいますか?」

マリーが尋ねてきた。

私は予め用意していた木の板を取り出した。

そこには、私が夜なべして彫った文字がある。

『ベーカリー・シナモン ~貴族のしがらみよりグルテンの結合を大事にする店~』

「……サブタイトルが長すぎませんこと?」

「そう? 私の信念(ポリシー)なんだけど」

「お客様が引きますよ」

マリーの冷静なツッコミにより、シンプルに『ベーカリー・シナモン』とだけ書くことになった。

その夜。

私は厨房に一人残り、最初の仕込みを始めた。

王都から大切に運んできた「天然酵母その3」の瓶を開ける。

プシュッ、という元気な発泡音。

フルーティーで、少し酸味のある香り。

「いい子ね。環境が変わっても元気いっぱいだわ」

私は瓶に頬ずりしそうになるのを堪え、小麦粉と水を混ぜ合わせる。

クラスツ領産の小麦は、王都のものより粒が大きく、香りが強いのが特徴だ。

これをどう活かすか。

こねる手つきは自然と熱を帯びる。

生地の感触。

赤ちゃんの肌のような、吸いつくような弾力。

(ああ、幸せ……)

王子に婚約破棄された?

社交界から追放された?

それがどうしたというのだ。

今、私の手の中には、無限の可能性(パン生地)がある。

「見ていなさいエドワード殿下。あなたが捨てたのは、ただの悪役令嬢じゃないわ。この国の食文化を変える、パンの革命児なのよ」

独り言を呟きながら、私は生地を叩きつけた。

バン! といういい音が夜の静寂に響く。

翌朝、試作第一号として焼き上がったのは、小麦の甘みを極限まで引き出した、シンプルな丸パンだった。

それを食べた父は「う、美味すぎる……!」と男泣きし、マリーは「これなら毎日食べられます」と呟き、屋敷の使用人たちは争奪戦を繰り広げた。

私の辺境生活は、順風満帆なスタートを切った――はずだった。

あの男が、店の前に倒れているのを見つけるまでは。
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