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「あー、よく寝た! 今日の湿度も酵母には最適ね!」
小鳥のさえずりと共に、私は爽やかに目覚めた。
王都では考えられないほどの早起きだが、パン職人の朝は早い。
顔を洗って身支度を整え、私はスキップ交じりで離れ(店舗)へと向かった。
今日は記念すべき『ベーカリー・シナモン』の開店初日だ。
昨日の夜、父上が領民たちに宣伝してくれたおかげで、きっと朝から行列ができるに違いない。
「さあ、最高のクロワッサンを焼くわよ!」
私は意気揚々と店の扉を開けた。
カランカラン、と涼やかなベルが鳴る。
はずだった。
「……ん?」
扉が、開かない。
何かに引っかかっている。
鍵は開けたはずだ。
私はグッと体重をかけて、強引に扉を押し開けた。
ズズズ……と重たい何かが擦れる音がする。
隙間から顔を出して足元を確認した私は、息を呑んだ。
「……死体が転がってる」
そこには、黒いマントに身を包んだ長身の男が、うつ伏せで倒れていた。
銀色の髪が朝日に照らされてキラキラと輝いているが、ピクリとも動かない。
顔は見えないが、服装からして只者ではない。
高級な生地だ。
「ちょっと、困りますわ! そこはお客様の導線です!」
私は叫んだ。
第一発見者の悲鳴ではない。
店主としてのクレームだ。
「開店祝いの花輪を置くスペースがないじゃないの。もしもし、生きてますか?」
私は厨房から麺棒を持ってきて、男の脇腹をつついた。
反応がない。
「まさか、本当に死んで……。だとしたら縁起が悪すぎるわ。塩を撒くべき? それとも小麦粉を撒いて清めるべき?」
私が真剣に悩んでいると、足元の「障害物」が微かに動いた。
「……み、ず……」
「あら、生きてた」
男が掠れた声で何かを訴えている。
「……何も、食って、ない……」
「空腹?」
私の目がキラーンと光った。
空腹。
それは、パン屋にとって最高のスパイスであり、見込み客(カモ)の状態を示す言葉だ。
「お腹が空いているのですね? それは大変! すぐに処置が必要です!」
私は慌てて厨房へ戻ると、今朝一番に焼き上がったばかりの『試作3号:発酵バターたっぷりのサクサククロワッサン』を掴んで戻ってきた。
水?
そんなものよりカロリーだ。
「さあ、口を開けてください! これを食べれば元気百倍ですわ!」
私は男の顔を強引に上向かせた。
整った顔立ちだ。
切れ長の目に、通った鼻筋。
黙っていれば彫刻のように美しいが、今は頬がこけて顔色が悪い。
男は虚ろな目で私(の持っているパン)を見た。
「……なんだ、それは……茶色い……石か……?」
「失礼な! クロワッサンです! 石のように見えますが、中は空気の層が重なって羽毛布団のようにフカフカなんです!」
「いらん……どうせ、砂の味がする……」
「砂ですって!?」
私はカチンときた。
私の愛するパンを、砂呼ばわりするとは聞き捨てならない。
どうやらこの男、相当な偏食家か、味覚がおかしくなっているらしい。
「いいからお食べなさい! これは、辺境伯領の朝露を浴びて育った小麦と、隣国の最高級岩塩、そして私が三日三晩語りかけた天然酵母の結晶なのです!」
私は男の口に、クロワッサンの端をねじ込んだ。
男は抵抗しようとしたが、力が入らないらしい。
観念したように、少しだけ咀嚼した。
サクッ。
静寂な朝の空気に、軽快で心地よい音が響く。
幾層にも折り重なった生地が崩れる、芸術的な音色だ。
男の動きが止まった。
「……?」
彼は目を見開いた。
口の中に広がるバターの芳醇な香りと、小麦の甘み。
そして、表面のパリパリ感と中のモチモチ感のコントラスト。
「……なんだ、これ……は」
「飲み込んで。そして二口目をどうぞ」
私は追い打ちをかけるように、さらに口へ押し込む。
男は今度は自ら動いた。
私の手首を掴み、むさぼるようにクロワッサンに噛みつく。
サクッ、サクッ、ムシャムシャ。
今まで何も食べていなかった獣が、獲物を狩るような勢いだ。
「う、美味い……」
男の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「味が……する。砂じゃない。泥じゃない……これは、食べ物だ……!」
「当たり前でしょう。むしろ食べ物以外を売ったら保健所案件ですわ」
私は呆れて言ったが、男の感動ぶりは異常だった。
あっという間に私の拳ほどあるクロワッサンを完食すると、彼は私の手を握ったまま、縋るような目で見上げてきた。
「もっとだ。もっとないのか」
「ありますけど……お代は?」
「金ならある。城が買えるほどある。だから、これを……この『魔法の食べ物』をくれ!」
「城はいりませんが、小麦粉代はいただきます」
私はニッコリと微笑んだ。
どうやら、開店最初の客は「太客」のようだ。
「わかりました。では、店の中へどうぞ。ちょうどバゲットが焼き上がる時間です」
私は彼の手を引き、店の中へと招き入れた。
男はフラフラと立ち上がったが、その視線は私ではなく、厨房の奥にある石窯に釘付けになっていた。
これが、私とクラウス――後に『冷徹公爵』と呼ばれる男との出会いだった。
まあ、この時の私にとっては『ちょっと顔が良い、飢えた野良犬』くらいの認識でしかなかったけれど。
***
「ふぅ……生き返った」
店内のイートインスペース(丸椅子を置いただけ)で、男は満足げに息を吐いた。
テーブルの上には、クロワッサン三個、バゲット一本、そしてメロンパン二個の残骸(パン屑)が散らばっている。
これをたった十分で平らげるとは、素晴らしい胃袋の持ち主だ。
私はカウンター越しに頬杖をついて、彼を観察していた。
食事を終えた彼は、改めて見ると驚くほどの美形だった。
冷ややかだが知的なアイスブルーの瞳。
銀色の髪はサラサラで、少し乱れているのが逆に色気を醸し出している。
ただ、その口元にメロンパンのクッキー生地がついているのが台無しだが。
「ご満足いただけましたか?」
私が尋ねると、彼はナプキンで口元を拭い、居住まいを正した。
その動作一つ一つが洗練されており、やはり高貴な身分であることを匂わせる。
「ああ。……礼を言う。君のおかげで命拾いした」
「それは良かったです。合計で銀貨5枚になります」
「安いな。金貨一枚置いておこう」
彼は懐から金貨を取り出し、カウンターに置いた。
釣りはいらない、という仕草だ。
太っ腹すぎる。
「ところで、君はこの店の主か?」
「はい。店主兼、パン職人のシナモンです」
「シナモン……甘そうな名前だ」
「スパイスの方ですわ。ピリッとしてますから気をつけて」
彼はフッと小さく笑った。
初めて見せた笑顔は、破壊力が凄まじかった。
もし私がパン以外に興味がある普通の令嬢だったら、この一撃で恋に落ちていたかもしれない。
しかし残念ながら、私の心拍数は「イースト菌の発酵温度」以上に上がることはない。
「私はクラウス。……ただの旅人だ」
「嘘ですね」
私は即答した。
「旅人がそんな上質なマントを着て、護衛もつけずに行き倒れるわけがありません。まあ、素性なんてどうでもいいですけど」
「……詮索しないのか?」
「パンを美味しく食べてくれれば、王様だろうと指名手配犯だろうとお客様です。あ、でも指名手配犯なら代金は前払いでお願いしますね」
クラウスと名乗った男は、きょとんとした後、肩を震わせて笑い出した。
「くくっ……面白い。君のような女は初めてだ」
「よく言われます。『パンの妖精の取り替え子』とか」
「俺は……味覚障害なんだ」
突然、彼が告白した。
笑いが収まると、その表情は寂しげなものに変わっていた。
「幼い頃から、何を食べても味がしない。砂や泥を噛んでいるような感覚だ。だから食事が苦痛で仕方なかった」
「まあ。それは人生の9割を損していますね」
「否定はしない。……だが、君のパンは違った」
彼はカウンター越しに身を乗り出し、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、熱っぽい光が宿っている。
「香ばしい匂い、食感、そして噛みしめるほどに広がる味。……初めて『美味い』と思った」
「それは光栄ですわ。私の愛(技術)が通じたのですね」
「愛……」
彼はその言葉を反芻し、なぜか耳を赤くした。
「そうか、愛か。……君は、このパンに愛を込めたのか」
「もちろんです! こねる時は『美味しくな~れ』と呪文をかけ、焼く時は『膨らめ~』と念を送っていますから!」
「……すごいな」
彼は感嘆したように言ったが、どこか話が噛み合っていない気がする。
「シナモン嬢。頼みがある」
「何でしょう? 新作の試食なら大歓迎ですが」
「俺を、ここで雇ってくれないか」
「はい?」
私は目を丸くした。
「雇う? あなたが?」
「ああ。金なら払う。給料はいらない。むしろ、毎食パンを食べさせてくれるだけでいい。……いや、君のパン以外、もう喉を通りそうにないんだ」
彼は切実な表情で訴えた。
まるで、麻薬中毒者が薬を求めるような必死さだ。
「ええっと……人手は足りていますし、マリー(侍女)もいますし……」
「力仕事なら任せろ。こう見えても剣の腕は立つし、魔力もある。薪割りでも、小麦の運搬でも何でもやる」
「魔力? じゃあ、オーブンの温度管理もできます?」
「炎魔法の微調整は得意だ」
「採用!」
私は即決した。
石窯の温度管理は重労働なのだ。
それを魔法で自動化できるなら、こんなに有難いことはない。
「交渉成立ですね、クラウスさん。今日からあなたは『ベーカリー・シナモン』のアルバイト一号です! 賄(まかな)いはパン食べ放題ですよ!」
「……感謝する。我が主よ」
彼は大げさに跪き、私の手を取って甲に口づけを落とした。
その様はまるで騎士の誓いのようだったが、パン粉がついた口でされてもあまり格好がつかなかった。
こうして、謎の美形アルバイト(実は公爵)が店に加わった。
しかし、彼がただの「便利な温度調整係」で終わるはずがないことを、この時の私はまだ知らなかったのである。
小鳥のさえずりと共に、私は爽やかに目覚めた。
王都では考えられないほどの早起きだが、パン職人の朝は早い。
顔を洗って身支度を整え、私はスキップ交じりで離れ(店舗)へと向かった。
今日は記念すべき『ベーカリー・シナモン』の開店初日だ。
昨日の夜、父上が領民たちに宣伝してくれたおかげで、きっと朝から行列ができるに違いない。
「さあ、最高のクロワッサンを焼くわよ!」
私は意気揚々と店の扉を開けた。
カランカラン、と涼やかなベルが鳴る。
はずだった。
「……ん?」
扉が、開かない。
何かに引っかかっている。
鍵は開けたはずだ。
私はグッと体重をかけて、強引に扉を押し開けた。
ズズズ……と重たい何かが擦れる音がする。
隙間から顔を出して足元を確認した私は、息を呑んだ。
「……死体が転がってる」
そこには、黒いマントに身を包んだ長身の男が、うつ伏せで倒れていた。
銀色の髪が朝日に照らされてキラキラと輝いているが、ピクリとも動かない。
顔は見えないが、服装からして只者ではない。
高級な生地だ。
「ちょっと、困りますわ! そこはお客様の導線です!」
私は叫んだ。
第一発見者の悲鳴ではない。
店主としてのクレームだ。
「開店祝いの花輪を置くスペースがないじゃないの。もしもし、生きてますか?」
私は厨房から麺棒を持ってきて、男の脇腹をつついた。
反応がない。
「まさか、本当に死んで……。だとしたら縁起が悪すぎるわ。塩を撒くべき? それとも小麦粉を撒いて清めるべき?」
私が真剣に悩んでいると、足元の「障害物」が微かに動いた。
「……み、ず……」
「あら、生きてた」
男が掠れた声で何かを訴えている。
「……何も、食って、ない……」
「空腹?」
私の目がキラーンと光った。
空腹。
それは、パン屋にとって最高のスパイスであり、見込み客(カモ)の状態を示す言葉だ。
「お腹が空いているのですね? それは大変! すぐに処置が必要です!」
私は慌てて厨房へ戻ると、今朝一番に焼き上がったばかりの『試作3号:発酵バターたっぷりのサクサククロワッサン』を掴んで戻ってきた。
水?
そんなものよりカロリーだ。
「さあ、口を開けてください! これを食べれば元気百倍ですわ!」
私は男の顔を強引に上向かせた。
整った顔立ちだ。
切れ長の目に、通った鼻筋。
黙っていれば彫刻のように美しいが、今は頬がこけて顔色が悪い。
男は虚ろな目で私(の持っているパン)を見た。
「……なんだ、それは……茶色い……石か……?」
「失礼な! クロワッサンです! 石のように見えますが、中は空気の層が重なって羽毛布団のようにフカフカなんです!」
「いらん……どうせ、砂の味がする……」
「砂ですって!?」
私はカチンときた。
私の愛するパンを、砂呼ばわりするとは聞き捨てならない。
どうやらこの男、相当な偏食家か、味覚がおかしくなっているらしい。
「いいからお食べなさい! これは、辺境伯領の朝露を浴びて育った小麦と、隣国の最高級岩塩、そして私が三日三晩語りかけた天然酵母の結晶なのです!」
私は男の口に、クロワッサンの端をねじ込んだ。
男は抵抗しようとしたが、力が入らないらしい。
観念したように、少しだけ咀嚼した。
サクッ。
静寂な朝の空気に、軽快で心地よい音が響く。
幾層にも折り重なった生地が崩れる、芸術的な音色だ。
男の動きが止まった。
「……?」
彼は目を見開いた。
口の中に広がるバターの芳醇な香りと、小麦の甘み。
そして、表面のパリパリ感と中のモチモチ感のコントラスト。
「……なんだ、これ……は」
「飲み込んで。そして二口目をどうぞ」
私は追い打ちをかけるように、さらに口へ押し込む。
男は今度は自ら動いた。
私の手首を掴み、むさぼるようにクロワッサンに噛みつく。
サクッ、サクッ、ムシャムシャ。
今まで何も食べていなかった獣が、獲物を狩るような勢いだ。
「う、美味い……」
男の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「味が……する。砂じゃない。泥じゃない……これは、食べ物だ……!」
「当たり前でしょう。むしろ食べ物以外を売ったら保健所案件ですわ」
私は呆れて言ったが、男の感動ぶりは異常だった。
あっという間に私の拳ほどあるクロワッサンを完食すると、彼は私の手を握ったまま、縋るような目で見上げてきた。
「もっとだ。もっとないのか」
「ありますけど……お代は?」
「金ならある。城が買えるほどある。だから、これを……この『魔法の食べ物』をくれ!」
「城はいりませんが、小麦粉代はいただきます」
私はニッコリと微笑んだ。
どうやら、開店最初の客は「太客」のようだ。
「わかりました。では、店の中へどうぞ。ちょうどバゲットが焼き上がる時間です」
私は彼の手を引き、店の中へと招き入れた。
男はフラフラと立ち上がったが、その視線は私ではなく、厨房の奥にある石窯に釘付けになっていた。
これが、私とクラウス――後に『冷徹公爵』と呼ばれる男との出会いだった。
まあ、この時の私にとっては『ちょっと顔が良い、飢えた野良犬』くらいの認識でしかなかったけれど。
***
「ふぅ……生き返った」
店内のイートインスペース(丸椅子を置いただけ)で、男は満足げに息を吐いた。
テーブルの上には、クロワッサン三個、バゲット一本、そしてメロンパン二個の残骸(パン屑)が散らばっている。
これをたった十分で平らげるとは、素晴らしい胃袋の持ち主だ。
私はカウンター越しに頬杖をついて、彼を観察していた。
食事を終えた彼は、改めて見ると驚くほどの美形だった。
冷ややかだが知的なアイスブルーの瞳。
銀色の髪はサラサラで、少し乱れているのが逆に色気を醸し出している。
ただ、その口元にメロンパンのクッキー生地がついているのが台無しだが。
「ご満足いただけましたか?」
私が尋ねると、彼はナプキンで口元を拭い、居住まいを正した。
その動作一つ一つが洗練されており、やはり高貴な身分であることを匂わせる。
「ああ。……礼を言う。君のおかげで命拾いした」
「それは良かったです。合計で銀貨5枚になります」
「安いな。金貨一枚置いておこう」
彼は懐から金貨を取り出し、カウンターに置いた。
釣りはいらない、という仕草だ。
太っ腹すぎる。
「ところで、君はこの店の主か?」
「はい。店主兼、パン職人のシナモンです」
「シナモン……甘そうな名前だ」
「スパイスの方ですわ。ピリッとしてますから気をつけて」
彼はフッと小さく笑った。
初めて見せた笑顔は、破壊力が凄まじかった。
もし私がパン以外に興味がある普通の令嬢だったら、この一撃で恋に落ちていたかもしれない。
しかし残念ながら、私の心拍数は「イースト菌の発酵温度」以上に上がることはない。
「私はクラウス。……ただの旅人だ」
「嘘ですね」
私は即答した。
「旅人がそんな上質なマントを着て、護衛もつけずに行き倒れるわけがありません。まあ、素性なんてどうでもいいですけど」
「……詮索しないのか?」
「パンを美味しく食べてくれれば、王様だろうと指名手配犯だろうとお客様です。あ、でも指名手配犯なら代金は前払いでお願いしますね」
クラウスと名乗った男は、きょとんとした後、肩を震わせて笑い出した。
「くくっ……面白い。君のような女は初めてだ」
「よく言われます。『パンの妖精の取り替え子』とか」
「俺は……味覚障害なんだ」
突然、彼が告白した。
笑いが収まると、その表情は寂しげなものに変わっていた。
「幼い頃から、何を食べても味がしない。砂や泥を噛んでいるような感覚だ。だから食事が苦痛で仕方なかった」
「まあ。それは人生の9割を損していますね」
「否定はしない。……だが、君のパンは違った」
彼はカウンター越しに身を乗り出し、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、熱っぽい光が宿っている。
「香ばしい匂い、食感、そして噛みしめるほどに広がる味。……初めて『美味い』と思った」
「それは光栄ですわ。私の愛(技術)が通じたのですね」
「愛……」
彼はその言葉を反芻し、なぜか耳を赤くした。
「そうか、愛か。……君は、このパンに愛を込めたのか」
「もちろんです! こねる時は『美味しくな~れ』と呪文をかけ、焼く時は『膨らめ~』と念を送っていますから!」
「……すごいな」
彼は感嘆したように言ったが、どこか話が噛み合っていない気がする。
「シナモン嬢。頼みがある」
「何でしょう? 新作の試食なら大歓迎ですが」
「俺を、ここで雇ってくれないか」
「はい?」
私は目を丸くした。
「雇う? あなたが?」
「ああ。金なら払う。給料はいらない。むしろ、毎食パンを食べさせてくれるだけでいい。……いや、君のパン以外、もう喉を通りそうにないんだ」
彼は切実な表情で訴えた。
まるで、麻薬中毒者が薬を求めるような必死さだ。
「ええっと……人手は足りていますし、マリー(侍女)もいますし……」
「力仕事なら任せろ。こう見えても剣の腕は立つし、魔力もある。薪割りでも、小麦の運搬でも何でもやる」
「魔力? じゃあ、オーブンの温度管理もできます?」
「炎魔法の微調整は得意だ」
「採用!」
私は即決した。
石窯の温度管理は重労働なのだ。
それを魔法で自動化できるなら、こんなに有難いことはない。
「交渉成立ですね、クラウスさん。今日からあなたは『ベーカリー・シナモン』のアルバイト一号です! 賄(まかな)いはパン食べ放題ですよ!」
「……感謝する。我が主よ」
彼は大げさに跪き、私の手を取って甲に口づけを落とした。
その様はまるで騎士の誓いのようだったが、パン粉がついた口でされてもあまり格好がつかなかった。
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