婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「クラウスさん、そこです! その温度をキープ! あと二分間、炎のゆらぎを完全に制圧してください!」

「承知した。……炎よ、我が意思に従い、安定せよ」

『ベーカリー・シナモン』の厨房に、緊張感のある声と、低い詠唱が響く。

私は石窯の前で腕組みをし、鋭い視線を送っていた。

窯の前には、エプロン姿の美青年――クラウスが立っている。

彼は片手をかざし、魔法で窯の中の熱気をコントロールしていた。

本来なら、薪をくべて必死に温度調節をしなければならない工程だ。

しかし、彼の手にかかれば、まるでダイヤル式の最新オーブンのように自由自在。

「いいわ……完璧よ。その200度の熱風循環(コンベクション)、素晴らしいわ!」

「……これほど繊細な魔力制御を求められるとは。ドラゴンのブレスを相殺するより神経を使う」

クラウスは額に汗を滲ませながら呟いた。

「ドラゴンなんてどうでもいいです。今はバゲットの『クープ(切れ込み)』が開くかどうかの瀬戸際なんですから!」

「御意」

数分後。

私は長い木のヘラを使い、窯からバゲットを取り出した。

こんがりとキツネ色に焼け、表面の切れ込みがバリっと美しくめくれ上がっている。

香ばしい小麦の香りが、爆発的に広がった。

「勝った……!」

私はガッツポーズをした。

「クラウスさん、見て! このエッジの立ち具合! ナイフのように鋭く、しかし食べればクリスピー。100点満点よ!」

「……美しい」

クラウスは焼きたてのバゲットを、まるで宝石か聖剣でも見るような瞳で見つめた。

「これが、俺の魔力で焼いたパンか」

「ええ。あなたの『ファイア・コントロール』のおかげです。あなた、人間火力発電所としての才能がありますわ」

「……国一番の魔導騎士と呼ばれた俺を、火力発電所扱いするとはな」

彼は苦笑したが、満更でもなさそうだ。

「さあ、どんどん焼きますよ! もうすぐ開店時間です!」

こうして、私たちの戦い(開店準備)は幕を開けた。

***

「いらっしゃいませー! 焼きたてですよー!」

午前十時。

『ベーカリー・シナモン』の扉が開かれた。

クラスツ領の領民たちは、当初、少し警戒していたようだ。

「悪役令嬢が追放されてパン屋を始めたらしいぞ」

「毒が入ってるんじゃないか?」

そんな噂も聞こえてきた。

しかし、店から漏れ出す暴力的なまでの「バターと小麦の香り」には勝てなかったらしい。

一人、また一人とお客さんが入ってくる。

「お、おい、なんだこの匂いは」

「見たことないパンばかりだぞ」

私はカウンターに立ち、満面の笑みで接客した。

「こちらは『おひさまのメロンパン』です! 外はサクサクのクッキー生地、中は雲のようにフワフワですよ!」

「こっちは『領主様の涙』という名の食パンです! 耳まで柔らかすぎて、食べた父上が泣いたのでそう名付けました!」

私のマシンガントークと試食攻撃により、お客さんたちの顔が次々とほころんでいく。

「うめぇ!」

「なんだこの食感!」

「お嬢様、これ全部くれ!」

順調だ。

飛ぶようにパンが売れていく。

しかし、問題が一つだけあった。

「……ひっ」

「……」

レジ打ちを担当しているクラウスだ。

彼は非常に真面目に仕事をしている。

計算も早いし、袋詰めも丁寧だ。

だが、いかんせん「顔」と「オーラ」が怖すぎた。

無表情で客を見下ろすその姿は、まるで『判決を言い渡す裁判官』か『処刑執行人』。

「合計で銅貨8枚だ。……足りないぞ」

「ひいぃっ! す、すいません! 命だけは!」

「……? 金の話をしているのだが」

客の少年が泣き出してしまった。

私は慌てて割って入った。

「ごめんなさいねー! この人、顔の筋肉が壊死しているだけで、怒っているわけじゃないのよー!」

少年に飴玉(試供品のラスク)を握らせて逃がした後、私はクラウスを睨んだ。

「クラウスさん! スマイルです! スマイル0円!」

「……すまいる?」

「口角を上げて、目を細めるのです!」

「こうか?」

彼はぎこちなく表情筋を動かした。

結果、生まれたのは『獲物を前に舌なめずりする魔獣』のような凶悪な笑みだった。

店内の空気が三度下がった気がする。

「……クラウスさん、あなたは厨房に戻って窯の番をお願いします。接客は私がやります」

「……すまない。戦場では『笑うと敵が逃げる』と言われていたんだ」

「パン屋としては致命的ですね」

適材適所という言葉がある。

彼は裏方(オーブン担当)に専念してもらうことにした。

その判断は正解だった。

彼が裏で完璧な焼き加減を維持し、私が表で売りまくる。

この完璧なコンビネーションにより、昼過ぎには用意していたパンが完売してしまった。

***

「完売……!」

私は空っぽになった棚を見て、達成感に打ち震えた。

「やったわ……! 私のパンが、受け入れられたのね!」

「おめでとう、シナモン嬢」

厨房から出てきたクラウスが、粉まみれのエプロン姿で労(ねぎら)ってくれた。

その手には、自分用の賄(まかな)いパンがしっかりと握られている。

「君のパンは最高だ。客たちが笑顔になるのも頷ける」

「あなたのおかげよ、クラウスさん。あの完璧な火入れがなければ、このクオリティは出せなかったわ」

私は素直に感謝した。

彼は少し照れたように視線を逸らす。

「俺はただ、君の指示に従っただけだ。……それにしても、パン作りがこれほど奥深いとはな。魔力制御の特訓にもなる」

「でしょう? 剣の修行より有意義だと思いません?」

「……否定できないのが悔しいな」

二人が和やかに談笑していると、バタン! と店の扉が勢いよく開いた。

「シナモン! シナモンはおるかー!」

現れたのは、父上――ガルシア辺境伯だ。

息を切らし、血走った目で店内を見回している。

「お父様? どうなさいましたの?」

「どうもこうもあるか! 屋敷の執務室まで、とんでもなく良い匂いが漂ってきたのだ! 仕事が手につかん!」

「あら、風向きのせいかしら」

「残っているか!? パパの分のパンは残っているのか!?」

父上はカウンターに駆け寄ったが、そこにあるのは完売の札だけ。

「ガーン……!」

父上はその場に崩れ落ちた。

「そんな……パパが資金提供者なのに……一番の株主なのに……」

「あー、ごめんなさい。予想以上に売れてしまって。でも、クラウスさんの分として取り分けておいたバゲットが一本だけ……」

「クラウス?」

父上の眉がピクリと動いた。

鋭い視線が、私の背後にいる銀髪の青年に向けられる。

「誰だ、その男は」

辺境伯としての、威厳ある低い声。

空気が張り詰める。

まずい。

父上は娘溺愛パパだが、同時に国境を守る武人でもある。

素性の知れない男が娘の店にいると知れば、警戒するのは当然だ。

クラウスもまた、スッと姿勢を正し、隙のない立ち方になった。

(やだ、修羅場?)

(ここで正体がバレたら、公爵様をこき使っていた罪で私が消される?)

私が冷や汗をかいていると、クラウスが一歩前に出た。

「お初にお目にかかります、辺境伯閣下。私は流れの……パン好きです」

「パン好き?」

「はい。お嬢様の焼くパンの虜になり、押しかけ弟子入りさせていただきました。名はクラウスと申します」

クラウスは優雅に、しかし使用人としての節度を守ったお辞儀をした。

父上は彼をじろじろと値踏みする。

「……ふん。ただの使用人にしては、妙な覇気があるな」

「恐縮です。昔、少しばかり剣を嗜(たしな)んでおりましたので」

「ほう? まあよい。シナモンが認めたなら、怪しい奴ではあるまい」

意外とあっさり認めた。

父上の興味は、男のことよりパンのことの方が大きいらしい。

「で、そのクラウス君の分のバゲットとやらは、どこにあるのかね?」

父上の視線が、クラウスの手元にロックオンされた。

クラウスは、抱えていたバゲットをギュッと強く握りしめた。

「……閣下。これは、私の今日の労働の対価です」

「知っている。だが、領主命令だ。それを譲りたまえ。金なら倍払う」

「お断りします」

クラウスが即答した。

私はギョッとした。

相手は大貴族、しかも雇い主の父親だぞ。

「こ、これだけは譲れません。このクラスト(皮)の焼き色は、私が魂を削って調整した『奇跡の焼き色』なのです。他人に渡すなど、私のプライドが許しません」

クラウスの瞳は本気だった。

剣を向けられても引かない覚悟を感じる。

父上もまた、唸り声を上げた。

「ぬう……! たかがパン一つに、そこまで命を懸けるか若造!」

「パンだからこそ、懸けるのです」

バチバチと火花が散る。

男と男の、パンを巡る真剣勝負。

私はため息をついた。

「……半分こになさい」

私が包丁でバゲットを真っ二つに切り分けると、二人は「おお……!」と声を上げ、それぞれの取り分を大事そうに抱きしめた。

「悪くない判断だ、若造。見直したぞ」

「閣下こそ、素晴らしい執着心です」

なぜか芽生える友情。

こうして、父上公認(?)で、クラウスの住み込みバイト生活が確定した。

しかし、父上は帰り際に私に耳打ちした。

「シナモンよ。あの男、どこかで見覚えがあるのだが……気のせいか?」

「気のせいですわ。あんな美形、一度見たら忘れませんもの」

私は誤魔化したが、心臓はバクバクしていた。

やはり、クラウスの「冷徹公爵」としての知名度は高いらしい。

変装用眼鏡か何かを用意した方がいいかもしれない。

そんなことを考えながら、私は空っぽになったトレイを磨き上げた。

明日も忙しくなりそうだ。
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