婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「きゃあ! 見て、あの店員さん! 今日も素敵だわ!」

「あの冷ややかな目で見下されたい……!」

「お釣りを渡す時の手つき、貴族様みたいに優雅よ!」

『ベーカリー・シナモン』の開店から一週間。

店は連日、長蛇の列を作っていた。

その客層の八割は、パン目当てというより、レジに立つ「銀髪の超美形店員」目当ての女性客たちだ。

しかし、店主である私――シナモン・クラスツの解釈は違っていた。

「すごいわ……! まさか『全粒粉のカンパーニュ』が、こんなに若い女性にウケるなんて!」

私は厨房の小窓から行列を覗き、感涙にむせび泣いていた。

「食物繊維が豊富だから? それとも低GI食品だから? どちらにせよ、私のパン作りへのこだわりが伝わったのね!」

隣で生地を丸めていたマリー(侍女兼アシスタント)が、ジト目で私を見る。

「お嬢様。彼女たちの視線の先には、パンではなくクラウス様の顔があります」

「あら、そうなの? まあ、パンを買ってくれるなら動機は何でもいいわ」

私はあっさりと流した。

私の興味は「パンが売れること」と「美味しく食べてもらうこと」のみ。

客寄せパンダならぬ、客寄せ公爵として働いてくれるなら、時給(パン現物支給)を上げてもいいくらいだ。

「よし、追加のカレーパンを揚げるわよ! クラウスさん、油の温度を180度にキープして!」

「御意」

レジ打ちの合間を縫って、クラウスが厨房に入ってくる。

彼は指先一つ動かさず、魔力だけでフライヤーの油温を完璧に制御した。

「……完璧だ。1℃の狂いもない」

「素晴らしいわ! あなた、もうパン職人に転職なさいよ。公爵家の家督なんて弟さんに譲れば?」

「……真剣に検討しているところだ」

クラウスは真顔で答えた。

冗談に聞こえないのが怖いところだ。

***

昼休憩。

店内の裏にある休憩スペースで、私たちは賄(まかな)いのランチをとっていた。

今日のメニューは、試作品の『激辛カレーパン』と、野菜スープだ。

クラウスは、私の作ったカレーパンを両手で持ち、神に祈るように掲げている。

「いただきます」

「どうぞ。スパイスの配合を変えてみたの。カルダモンを多めにして、清涼感を出してみたわ」

彼は一口かじりついた。

ザクッ、という衣の音。

中から熱々のカレーフィリングが溢れ出す。

「……っ!」

クラウスが目を見開いた。

「どう? 辛すぎた?」

「いや……美味い。スパイスの刺激が、舌の上で踊っているようだ。そして、この生地の甘みが辛さを包み込み……完璧な調和(ハーモニー)を奏でている」

彼は恍惚とした表情で、カレーパンを咀嚼している。

「味がする……辛味も、旨味も、すべて鮮明に感じる。生きている実感がする」

「よかったわねえ」

私は呑気にスープを啜った。

そこで、ふと疑問に思ったことを聞いてみる。

「ねえクラウスさん。私のパン以外は、本当に味がしないの?」

「ああ。試してみるか?」

彼はポケットから、どこかで調達してきた真っ赤なリンゴを取り出した。

それを一口かじる。

シャリッ、といい音がしたが、彼の表情は一瞬で能面のように無表情になった。

「……砂だ」

「えっ」

「食感は多少あるが、味は無だ。砂利を噛んでいるのと変わらん」

彼は淡々と言い、リンゴを置いた。

そしてすぐにカレーパンに食らいつき、「美味い、美味い」と涙ぐんでいる。

「不思議ねえ。私の手から出る常在菌……じゃなくて、愛情が特別な調味料になっているのかしら?」

「おそらく、君の『パンへの執着』が魔力となって、無意識に干渉しているのだろう」

クラウスは真面目に分析した。

「俺の味覚障害は、一種の呪いのようなものだ。強力な魔力を持つ家系に稀に現れる代償だと、医者には言われた。だが、君のパンにはそれを中和する何かがある」

「つまり、私はあなたの専属処方箋ってこと?」

「そうだ。……だから、君がいなくなると俺は餓死する」

彼はカレーパンを食べ終えると、私の手をとった。

そのアイスブルーの瞳が、射抜くように私を見つめる。

「シナモン。俺はもう、君なしでは生きられない体になってしまった」

「……」

マリーが横で「プロポーズ!?」と赤くなっているが、私は冷静に翻訳した。

(翻訳:定期購入契約を結びたい。解約されると死ぬ)

「わかりました。あなたが私のパンを愛してくれる限り、私は焼き続けますよ」

「誓うか?」

「ええ、パンの神に誓って」

「……ありがとう。一生ついていく」

重い。

愛が重いが、パンへの愛なら仕方ない。

こうして私たちは、奇妙な共依存関係を結んだのだった。

***

その日の夕方。

店仕舞いを終えた店内に、一人の男が駆け込んできた。

「こ、困ります! もう閉店ですよ!」

私が止めるのも聞かず、男はカウンターに身を乗り出した。

彼は隣町のレストランのシェフをしているという。

「頼む! ここのパンを卸してくれ!」

「はい?」

「客たちが言うんだよ! 『ベーカリー・シナモン』のパンを食べたら、他のパンがスカスカに感じるって! うちの料理に合わせるパンは、ここのじゃなきゃダメだって騒ぎだして……!」

男は必死だった。

どうやら、私のパンの中毒性は予想以上に高いらしい。

「ええっと……嬉しいお話ですが、今は手作りで精一杯でして……」

「金なら払う! 倍額でもいい! 頼む、この通りだ!」

シェフが頭を下げていると、奥からクラウスが出てきた。

エプロンを外し、シャツの袖をまくった姿だが、その威圧感は完全に「公爵モード」だ。

「おい。主(あるじ)が困っているだろう」

「ひっ……!」

クラウスが一睨みすると、シェフはカエルが潰れたような声を出して後ずさった。

「く、クラウス様……!? な、なぜこのような場所に……!?」

「……?」

私は首をかしげた。

「お知り合いですか?」

クラウスはしまった、という顔をした。

「……いや、人違いだろう。俺はただのバイトだ」

「い、いいえ! その銀髪、その凍てつくような眼差し! 間違いなくライ麦公爵家の……!」

「黙れ」

ドゴォッ!!

クラウスが壁(何もない空間)を殴った。

いや、実際には殴っていない。

拳圧だけで、店内の空気が振動したのだ。

シェフは白目を剥いて気絶した。

「あらら」

私は倒れたシェフをつついた。

「気絶させちゃいましたよ。どうするんですか、この人」

「……『あまりに美味しいパンの香りにショックを受けて倒れた』ということにしておこう」

「無理がありません?」

クラウスはため息をつき、気絶した男を軽々と担ぎ上げた。

「外に放り出してくる。……シナモン、少し話がある」

「何でしょう?」

「俺の正体がバレるのも時間の問題だ。隣町まで噂が広がっている」

彼は深刻な顔をした。

「実家(公爵家)が俺を連れ戻しに来るかもしれない。そうなれば、この店にも迷惑がかかる」

「迷惑?」

私はきょとんとした。

「何言ってるんですか。公爵家のコネがあるなら、最高級の小麦粉を安く仕入れられるルートを紹介してくださいよ」

「……は?」

「あと、バターも。業務用サイズで卸してくれる牧場を知りません? 公爵様なら顔が利くでしょう?」

クラウスはポカンと口を開け、それから堪えきれないように吹き出した。

「くくっ……ははは! そうか、そうだな。君はそういう女だったな」

彼は愉快そうに笑い、私の頭をポンポンと撫でた。

「安心しろ。もし迎えが来ても、俺は帰らない。ここが俺の居場所だ」

「はいはい。じゃあ明日の仕込みがありますから、さっさとその人を捨ててきてください」

「御意、マダム」

私たちは笑い合った。

しかし、この時の私はまだ知らなかった。

王都では、私の元婚約者であるアホ王子が、とんでもない勘違いを拗(こじ)らせて、こちらに向かう準備を始めていることを。

「シナモンが反省して泣いているはずだ! 迎えに行ってやるぞ!」

そんな迷惑な声が、風に乗って聞こえてきそうな夜だった。
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