婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

文字の大きさ
9 / 27

9

「ここが、噂の『ベーカリー・シナモン』かね?」

「ふん、ただの田舎の小屋ではないか」

その日、店に現れたのは、鼻持ちならない空気を纏(まと)った集団だった。

仕立ての良いスーツに、白い手袋。

胸には『王立パン菓子協会』のエンブレムが輝いている。

先頭に立つのは、王都で一番の高級店『ロイヤル・ブレッド』のオーナー、バロン氏だ。

彼は脂ぎった顔をテラテラと輝かせ、店内を見回して鼻を鳴らした。

「衛生管理も怪しいものだ。おい、君が店主か?」

「いらっしゃいませ。はい、私が店主のシナモンです」

私が笑顔で応対すると、バロン氏は大げさに驚いてみせた。

「おお! 元公爵令嬢のシナモン様ではありませんか! まさかこのような辺境で、粉まみれになって働いておられるとは!」

「ええ、毎日が最高にハッピーですわ」

「強がらなくてよろしい。我々は今日、協会の正規の活動として『地方店舗の指導・視察』に参りました。あまりに評判が良いと聞き、不正な添加物でも使っていないか心配になりましてな」

言葉は丁寧だが、目は笑っていない。

要するに「調子に乗ってる田舎の店を潰しに来た」ということだ。

「不正なんてとんでもない。あるのは愛と情熱だけです」

「口では何とでも言えますな。厨房を見せていただきましょうか」

「えっ、今ですか? 今はちょうど『発酵のゴールデンタイム』なので、部外者の方はちょっと……」

「拒否するのですか? やましいことがあると?」

バロン氏がニヤリと笑う。

私は溜め息をついた。

ここで拒否すれば、王都であることないこと噂を流されるだろう。

「わかりました。どうぞお入りください。ただし、静かにお願いしますね。酵母ちゃんたちが驚いてしまいますから」

「……は?」

バロン氏と視察団の面々は顔を見合わせたが、私は構わず厨房への扉を開けた。

***

厨房に入った瞬間、彼らは固まった。

「な……なんだ、この空間は……?」

そこは、異様な静けさと緊張感に包まれていた。

まず彼らの目に飛び込んできたのは、巨大な石窯の前で座禅を組んで浮いている(ように見える)銀髪の男――クラウスだ。

彼は目を閉じ、ブツブツと何かを呟いている。

「……炉内温度210度……上火強め、下火弱め……対流よし……」

その周囲には、陽炎(かげろう)のような魔力の揺らぎが見える。

「なっ、なんだあの男は! オーブンの前で何をしている!」

「シーッ!」

私は人差し指を口に当てた。

「彼は今、石窯と対話しているのです。炎の精霊とリンクして、1度単位の温度調整を行っています。邪魔をするとバゲットが爆発しますよ」

「バゲットは爆発しないだろう!」

バロン氏がツッコミを入れたが、クラウスは微動だにしない。

次に彼らが注目したのは、作業台の上に並べられた無数のガラス瓶だ。

中では、様々な色の液体がプクプクと泡立っている。

「こ、これは……?」

「我が店の心臓部、天然酵母コレクションです」

私は愛おしそうに瓶の一つを手に取った。

「これは『ルヴァン種3号』。レーズンから起こした元気な子です。そしてこっちは『サワー種・改』。ちょっと気難しい子で、クラシック音楽を聴かせないと発酵しないんです」

私は瓶に向かって話しかけた。

「よしよし、3号ちゃん。今日はお客様がいらしてるのよ。恥ずかしがらずにプクプクしてごらん?」

『プクッ』

瓶の中で大きな気泡が弾けた。

「ひいっ!」

視察団の一人が悲鳴を上げた。

「へ、返事をした……?」

「偶然だ! ただのガスだ!」

バロン氏は顔を引きつらせながら否定した。

「大体、こんな非科学的な製法で安定した味が作れるわけがない! 我々『ロイヤル・ブレッド』では、最新のイーストと改良剤を使い、マニュアル通りに管理しているのだぞ!」

「マニュアル……?」

私は首をかしげた。

「小麦粉はその日の湿度や気温によって吸水率が変わります。マニュアル通りにやったら、生地が泣いてしまいますわ」

「生地が泣く!? 君、さっきから言動がおかしいぞ!」

「おかしいのはそちらです」

突然、奥から低い声が響いた。

クラウスが目を開け、こちらを睨んでいる。

その迫力に、視察団全員が一歩後ずさる。

「……パン作りとは、自然との対話だ。小麦の声を聞き、菌の呼吸に合わせ、炎の機嫌を伺う。それを『マニュアル』などという紙切れで支配しようなど、傲慢(ごうまん)にも程がある」

クラウスは立ち上がった。

手には、焼き上がったばかりのカンパーニュが握られている。

「食べてみれば分かる」

彼は無造作にパンを切り分け、バロン氏たちに差し出した。

「これが、シナモンと俺が……いや、俺たちが対話した結果だ」

バロン氏は悔しそうに顔を歪めたが、視察の手前、拒否するわけにもいかない。

「ふん、食べてやろうじゃないか。どうせ田舎の素朴な味だろうがな」

彼は一切れをつまみ、口に放り込んだ。

もぐ、もぐ。

咀嚼音が響く。

次の瞬間。

「なん……だ……これは……?」

バロン氏の動きが止まった。

目が見開かれ、額から大量の汗が噴き出す。

「酸味がない……いや、あるのだが、嫌な酸っぱさじゃない! フルーティーな香りが鼻を抜け、その後に濃厚な小麦の甘みが押し寄せてくる!」

「おい、バロン! どうした!」

他のメンバーも慌ててパンを口にする。

「うっ! なんだこの皮(クラスト)の香ばしさは! 焦げる寸前の、ギリギリの旨味だ!」

「中身(クラム)が……水分を含んでしっとりとしているのに、ベチャついていない! 奇跡の水分量だ!」

「マニュアルでは……こんな計算は不可能だ……!」

視察団の面々は、次々と膝から崩れ落ちた。

彼らはプロだ。

だからこそ、分かってしまったのだ。

このパンに含まれる技術と手間が、常軌を逸したレベルであることを。

「君たちは……このパンを焼くために、どれほどの時間をかけているんだ……?」

バロン氏が震える声で尋ねた。

私はニコリと笑って答えた。

「24時間365日です」

「は?」

「寝ても覚めてもパンのことを考えています。夢の中で新しいレシピを思いつくこともありますし、酵母の瓶と一緒に寝ることもあります。ね、クラウスさん?」

「ああ。俺も最近、枕元にバゲットを置いて寝ている。安心する香りで熟睡できる」

「……狂っている」

バロン氏が呟いた。

「技術どうこうじゃない……この店は、パンへの執着心が異常なんだ……」

彼らの顔には、明確な敗北感と、一種の恐怖が浮かんでいた。

勝てるわけがない。

ビジネスとしてパンを作っている人間と、パンを崇拝対象として生きている狂信者たち。

その熱量の差は歴然だった。

「……帰ろう」

バロン氏は力なく立ち上がった。

「不正などなかった。ここにあるのは、純粋な狂気だけだ」

「えっ、もうお帰りですか? お土産に『イカスミとアンチョビの暗黒パン』を持っていきませんか?」

「いらん!!」

視察団は逃げるように去っていった。

***

「ふふっ、褒められちゃいましたね」

彼らが去った後、私は満足げに言った。

「シナモン。あれは褒め言葉だったのか?」

クラウスが眼鏡の位置を直しながら尋ねる。

「ええ。『狂気』というのは、アーティストにとって最高の賛辞ですよ」

「なるほど。なら、俺たちは最高のアーティストだな」

私たちは顔を見合わせて笑った。

しかし、この視察団の件は、予想外の余波を生むことになった。

王都に帰ったバロン氏たちが「辺境には『パンの魔女』と『炎の魔人』がいる」と触れ回ったせいで、私たちの店はさらにミステリアスな評判を呼ぶことになってしまったのだ。

そして、その噂は、ある人物の耳にも届いていた。

隣国との国境付近を警備していた、クラウスの実弟――現・ライ麦公爵家当主代行のフェリクスである。

「……兄上が、パン屋で魔人になっているだと?」

真面目な弟君が、頭を抱える日は近い。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい…… ◆◆◆◆◆◆◆◆ 作品の転載(スクショ含む)を禁止します。 無断の利用は商用、非営利目的を含め利用を禁止します。 作品の加工・再配布・二次創作を禁止します 問い合わせはプロフィールからTwitterのアカウントにDMをお願いします ◆◆◆◆◆◆◆◆

誰もが我儘な私ではないお方が良かったようなので、悪役の私は残忍な猛将達に手酷く扱われに行きます。戻れ? 絶対に離れるなと脅されているのですが

迷路を跳ぶ狐
ファンタジー
 魔法もろくに使えない役立たずと言われ、婚約者にも彼の周りの人達にも馬鹿にされてきた私。ずっと耐えてきたつもりだったけど、誰もがこんな私よりも、もっと優秀な魔法使いがいたはずなのに、とため息をつく。  魔法によって栄え、王都にまでその名を知らしめた貴族の婚約者は、「なんでこんな役立たずが……」と私を蔑み、城の中で魔法使いたちを統率する偉大な魔法使いは、「こんな女がこの領地を任されるだなんて! なんて恐ろしく愚かなことだ!!」と嘆く。  貴族たちに囲まれ詰られて、婚約者には見放され、両親には罵声を浴びせられ、見せ物のように惨たらしく罰せられた。「なんでこんな役立たずがこの城に来たんだ……」そう落胆されながら。  魔法が苦手でここを出る手段はないけど……もうこんなところにいられるか!  そう決意した私に、私を虐げていた誰もが腹を立てる。激しくぶたれた私は、機嫌を損ねた残忍な竜たちに、枷をされて隣の領地まで連れて行かれることになった。  重労働を言いつけられ、魔物や魔獣、竜たちがうろつく森の城についてからは、暗く小さな部屋に放り込まれた。  たった一人で食事をして、何もない部屋から見窄らしい格好で窓の外を見上げる。  なんだこれ………… 「最高…………」  もう、私を踏み躙る奴らに好きに扱われることはないんだ! それだけで、何もかもが最高!!  金もなければ能力もまるでない! 魔法すらまともに使えない! だけど今は思いのままに身につけに行ける!! 何もないのでこれから欲しいもの全部、手に入れに行きます!  そんな風にして竜族の城に住むことになった私。気づいたらやけに皆さんとの距離が近い? 元婚約者も「戻って来い」なんてうるさいけど、知りません!! 私は忙しいので!

『生きた骨董品』と婚約破棄されたので、世界最高の魔導ドレスでざまぁします。私を捨てた元婚約者が後悔しても、隣には天才公爵様がいますので!

aozora
恋愛
『時代遅れの飾り人形』――。 そう罵られ、公衆の面前でエリート婚約者に婚約を破棄された子爵令嬢セラフィナ。家からも見放され、全てを失った彼女には、しかし誰にも知られていない秘密の顔があった。 それは、世界の常識すら書き換える、禁断の魔導技術《エーテル織演算》を操る天才技術者としての顔。 淑女の仮面を捨て、一人の職人として再起を誓った彼女の前に現れたのは、革新派を率いる『冷徹公爵』セバスチャン。彼は、誰もが気づかなかった彼女の才能にいち早く価値を見出し、その最大の理解者となる。 古いしがらみが支配する王都で、二人は小さなアトリエから、やがて王国の流行と常識を覆す壮大な革命を巻き起こしていく。 知性と技術だけを武器に、彼女を奈落に突き落とした者たちへ、最も華麗で痛快な復讐を果たすことはできるのか。 これは、絶望の淵から這い上がった天才令嬢が、運命のパートナーと共に自らの手で輝かしい未来を掴む、愛と革命の物語。

ある日、私は事故で死んだ───はずなのに、目が覚めたら事故の日の朝なんですけど!?

ねーさん
恋愛
   アイリスは十六歳の誕生日の前の日に、姉ヴィクトリアと幼なじみジェイドと共に馬車で王宮に向かう途中、事故に遭い命を落とした───はずだったが、目覚めると何故か事故の日の朝に巻き戻っていた。  何度もその日を繰り返して、その度事故に遭って死んでしまうアイリス。  何度目の「今日」かもわからなくなった頃、目が覚めると、そこにはヴィクトリアの婚約者で第三王子ウォルターがいた。  「明日」が来たんだわ。私、十六歳になれたんだ…

王命での結婚がうまくいかなかったので公妾になりました。

しゃーりん
恋愛
婚約解消したばかりのルクレツィアに王命での結婚が舞い込んだ。 相手は10歳年上の公爵ユーグンド。 昔の恋人を探し求める公爵は有名で、国王陛下が公爵家の跡継ぎを危惧して王命を出したのだ。 しかし、公爵はルクレツィアと結婚しても興味の欠片も示さなかった。 それどころか、子供は養子をとる。邪魔をしなければ自由だと言う。 実家の跡継ぎも必要なルクレツィアは子供を産みたかった。 国王陛下に王命の取り消しをお願いすると三年後になると言われた。 無駄な三年を過ごしたくないルクレツィアは国王陛下に提案された公妾になって子供を産み、三年後に離婚するという計画に乗ったお話です。  

【完結】ケーキの為にと頑張っていたらこうなりました

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 前世持ちのファビアは、ちょっと変わった子爵令嬢に育っていた。その彼女の望みは、一生ケーキを食べて暮らす事! その為に彼女は魔法学園に通う事にした。  継母の策略を蹴散らし、非常識な義妹に振り回されつつも、ケーキの為に頑張ります!

次こそあなたと幸せになると決めたのに…中々うまくいきません

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のシャレルは、第二王子のジョーンによって無実の罪で投獄されてしまう。絶望の中彼女を救ってくれたのは、ずっと嫌われていると思っていた相手、婚約者で王太子のダーウィンだった。 逃亡生活を送る中、お互い思い合っていたのにすれ違っていた事に気が付く2人。すれ違った時間を取り戻すかのように、一気に距離を縮めていく。 全てを失い絶望の淵にいたシャレルだったが、ダーウィンとの逃避行の時間は、今まで感じた事のないほど、幸せな時間だった。 新天地マーラル王国で、ダーウィンとの幸せな未来を思い描きながら、逃避行は続く。 そしていよいよ、あと少しでマーラル国というところまで来たある日、彼らの前にジョーンが現れたのだ。 天国から地獄に叩き落されたシャレルは、絶望の中生涯の幕を下ろしたはずだったが… ひょんなことから、ダーウィンと婚約を結んだ8歳の時に、戻っていた。 2度目の人生は、絶対にダーウィンと幸せになってみせる、そう決意したシャレルだったが、そううまくはいかず、次第に追い詰められていくのだった。 ※シャレルとダーウィンが幸せを掴むかでのお話しです。 ご都合主義全開ですが、どうぞよろしくお願いします。 カクヨムでも同時投稿しています。

完結 貴族生活を棄てたら王子が追って来てメンドクサイ。

音爽(ネソウ)
恋愛
王子の婚約者になってから様々な嫌がらせを受けるようになった侯爵令嬢。 王子は助けてくれないし、母親と妹まで嫉妬を向ける始末。 貴族社会が嫌になった彼女は家出を決行した。 だが、有能がゆえに王子妃に選ばれた彼女は追われることに……