婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「ええい、怯(ひる)むな! たかが発酵臭だ! 換気魔法を展開せよ!」

白いガスが充満する中、フェリクスの冷静な指示が飛んだ。

さすがは公爵代行。

私の『発酵ガス爆弾』による精神攻撃(主に「酸っぱい!でもいい匂い!」という混乱)から、いち早く立ち直ったようだ。

黒服の部隊が風魔法を使い、あっという間に煙を吹き飛ばしていく。

「ちっ、さすがに手強いわね」

私は麺棒を構え直した。

視界がクリアになると、フェリクスが眼鏡を光らせて立っていた。

「無駄なあがきです、パン屋の娘。兄上、そこの女性から離れてください。実力行使に出ます」

フェリクスが手を掲げると、部隊が魔法の杖を一斉に構えた。

「撃て!」

「させん!」

クラウスが前に出た。

彼は私の前に障壁(バリア)を展開するのと同時に、右手を振るった。

「『ウォール・オブ・バゲット(フランスパンの壁)』!!」

ドゴゴゴゴッ!!

地面から巨大な岩……ではなく、岩のように硬いバゲットの柱が数本、槍のように突き出した。

それが部隊の放った魔法弾を防ぐ。

「なっ……!?」

フェリクスが目を見開いた。

「土魔法……いや、これは物質生成魔法か? 兄上、いつの間にこんな無意味な術式を……!」

「無意味ではない! これは、いざという時の非常食にもなる攻防一体の最強魔法だ!」

「食べたくありませんよ、地面から生えたパンなんて!」

兄弟による高度な魔法戦(?)が繰り広げられている。

私はその隙に、厨房へと走った。

「マリー! セバス! 援護射撃よ! 昨日の残りの『失敗作ラスク』を弾丸として装填して!」

「かしこまりましたお嬢様! 硬すぎて歯が折れると評判のアレですね!」

「承知いたしました。投擲(とうてき)スキルには自信がありますぞ」

私たちは窓から身を乗り出し、硬いラスクを手裏剣のように投げまくった。

ビュン! ビュン!

「痛っ!」「硬ぇ!」「これ本当に食べ物か!?」

黒服たちが悲鳴を上げる。

私の焼くパンは、愛情たっぷりだが、失敗して乾燥させたものは凶器になるのだ。

「ええい、鬱陶(うっと)しい!」

フェリクスが苛立ち、自ら魔法を放とうとした。

その時だ。

グゥゥゥゥ……。

戦場に似つかわしくない、情けない音が響いた。

「……?」

全員の動きが止まった。

音の出処は、フェリクスの腹だった。

「……っ」

フェリクスが顔を真っ赤にして腹を押さえた。

「な、なんだ今の音は……」

「空腹音ですね」

私は指摘した。

「フェリクス様。あなた、顔色が青白いですよ。目の下のクマも酷い。ちゃんとご飯食べてます?」

「……余計なお世話だ。兄上が仕事を放り出して失踪したせいで、私はここ一ヶ月、不眠不休で執務をこなしていたのです。食事をとる時間など……ウィダー(栄養ゼリー)で十分です」

「なんてこと!」

私は衝撃を受けた。

パンの国(勝手に認定)の公爵代行が、ゼリー生活だなんて。

それは栄養失調による思考力の低下、そしてイライラの原因だ。

「だからそんなに攻撃的なのよ! 脳にブドウ糖が足りてないわ!」

「黙れ! これより殲滅魔法を……!」

フェリクスが杖を振り上げた瞬間、私は厨房から飛び出した。

「クラウスさん、彼を押さえて!」

「任せろ!」

クラウスが瞬時に弟の懐に飛び込み、その腕を掴んで動きを封じる。

「兄上、離して……!」

「今だシナモン!」

「はい、あーん!」

私はフェリクスの口に、手に持っていた『特製・至福のクリームパン』を突っ込んだ。

「むぐっ!?」

「噛んで! そして飲み込んで!」

フェリクスは抵抗しようとしたが、口の中に広がる甘美な味に、本能が反応してしまった。

カスタードクリーム。

それは、新鮮な卵と牛乳、そして最高級のバニラビーンズを惜しみなく使い、とろ火でじっくりと練り上げた黄金のソース。

パン生地は、赤ちゃんのほっぺのように柔らかく、口溶けが良い。

「ん……ぐ……」

フェリクスの抵抗が弱まる。

彼の瞳孔が開いた。

(……甘い)

(暴力的なまでの糖分が、疲れた脳に染み渡っていく……)

(なんだこのカスタードは。濃厚なのにくどくない。バニラの香りが、荒んだ心を撫でていくようだ……)

彼は無意識のうちに、パンを咀嚼(そしゃく)していた。

ごくん、と飲み込む。

すると、体の中からポカポカと温かいものが湧き上がってくるのを感じた。

それは「満腹感」という名の幸せだった。

「……どうですか?」

私が尋ねると、フェリクスはその場にへたり込んだ。

眼鏡がズレているのも気にせず、彼は呆然と呟いた。

「……敗北だ」

「へ?」

「こんな……こんな幸せな味がするものを突きつけられては、戦意など維持できるはずがない……」

彼は残りのクリームパンを大事そうに両手で持ち、ガブリと齧り付いた。

その目からは、ポロポロと涙がこぼれている。

「うまい……うまいよ兄上……。なんでこんな美味いものを、私に黙って食べていたんだ……ズルイじゃないか……」

「フェリクス……」

クラウスが優しく弟の肩に手を置いた。

「すまなかった。お前にも食べさせてやりたかったんだが、お前は『パンなんて時間の無駄』と言っていただろう?」

「撤回します! パンは……パンは生命の源です!」

フェリクスは叫んだ。

その瞬間、周囲の黒服部隊も、マリーたちが配り始めたラスクや余り物のパンを食べて「うめぇ……」「久しぶりの固形物だ……」と泣き出していた。

どうやらこの『ライ麦公爵家・特殊食品管理部隊』というのは、ただの『ブラック労働被害者の会』だったらしい。

「分かりました」

フェリクスはパンを食べ終えると、指についたクリームを舐め取り、眼鏡を直して立ち上がった。

「兄上の帰還命令は、一時保留とします」

「本当か!?」

「はい。ただし条件があります」

フェリクスは私をビシッと指差した。

「この店に、私専用の席を用意すること。そして、毎日王都への『定期便』を手配すること。……あのクリームパンが執務室になければ、私はまた暴れますよ」

「ありがとうございます! つまり、大口契約成立ですね!」

私はガッツポーズをした。

「良かったな、シナモン」

クラウスが微笑む。

「ええ! 公爵家御用達となれば、ブランド力が爆上がりですわ! あ、フェリクス様、どうせなら商品開発のアドバイザーもやりませんか? その神経質な性格、品質管理に向いてますよ」

「……誰が神経質ですか。まあ、味のチェックくらいならしてあげてもいいですが」

フェリクスはツンとした顔で言ったが、その視線は既にショーケースの中の『チョココロネ』に釘付けだった。

こうして、最強の敵(弟)は、最強の顧客(カモ)へと進化した。

小麦粉の供給ルートも復活し、むしろ公爵家のコネで最高級品が手に入るようになった。

『ベーカリー・シナモン』の未来は明るい。

――と、思っていたのだが。

「大変ですお嬢様!」

数日後、マリーが血相を変えて飛び込んできた。

「王都から早馬が! ……パン不足で市民の不満が爆発し、エドワード殿下が『シナモン討伐隊』を結成してこちらに向かっているそうです!」

「はあ?」

私は耳を疑った。

討伐隊?

パン屋を?

「殿下はこう言っているそうです。『シナモンが禁断の果実(パン)で人々を惑わせ、国家転覆を狙っているに違いない! 聖女リリィと共に浄化してやる!』と」

「……あのバカ王子、想像力が豊かすぎるわ」

私は深いため息をついた。

どうやら、ラスボスの登場は近いらしい。

だが、今の私には最強の布陣がある。

パン職人の私。
魔導騎士のクラウス。
完璧執事のセバス。
そして、糖分補給でキレ者に戻った参謀フェリクス。

「迎撃準備よ! 新作『激辛カレーパン・地獄変』の仕込みを始めるわ!」

私の号令に、全員が「御意!」と応えた。
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