婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「硬い!!」

王宮の食堂(ダイニング)に、ガチャン! と食器が跳ねる音が響いた。

エドワード王子は、優雅な銀のフォークを投げ出し、目の前の皿を睨みつけた。

そこにあるのは、王宮シェフが焼いたパンだ。

見た目は立派だ。焼き色も悪くない。

しかし、ナイフを入れた感触は「木材」であり、口に入れた感触は「乾いたスポンジ」だった。

「なんだこれは! これはパンではない! 小麦の死骸だ!」

「も、申し訳ございません殿下!」

料理長が青ざめて平伏する。

「ですが、最高級の小麦が入手できず……クラスツ領からの供給が止まったままでして……」

「ええい、言い訳など聞きたくない! もっとこう、ふんわりとして、口の中でバターがジュワッと広がる、あの天国のようなパンを出せ!」

エドワードは地団駄を踏んだ。

彼の舌は、完全に肥えてしまっていた。

かつてシナモンが、婚約者としての義務(と称した趣味)で毎日のように差し入れていたパン。

『殿下、新作のデニッシュですわ。層の数を32層から64層に増やしてみましたの』

『殿下、今日のランチはサンドイッチです。具材に合わせてパンの種類を変えてあります』

当時は「またパンか。小麦臭い女だ」と鬱陶(うっとう)しく思っていた。

だが、失って初めて気づいたのだ。

あれが、至上の愛(カロリー)であったことに。

「……リリィ。君もそう思うだろう?」

エドワードは隣に座るリリィに同意を求めた。

リリィはげっそりと痩せこけていた。

彼女の目の前には、手つかずのパサパサパンが置かれている。

「……はい、殿下。喉が……通りません……」

「だろう!? 君のような華奢な喉には、あのシルクのような生食パンしか通らないのだ!」

「(い、いいえ……私はお米のお粥が食べたいだけなんですけど……)」

リリィの心の声は、エドワードには届かない。

「これは由々しき事態だ。王都の民も、パン不足で暴動寸前だと聞く」

側近が報告書を読み上げる。

「はっ。市民からは『シナモン様のパンを返せ』『今のパン屋はやる気がない』との苦情が殺到しており……一部では『シナモン教』なる地下組織も発足している模様です」

「なんだと!? 宗教だと!?」

エドワードは椅子を蹴って立ち上がった。

彼の脳内で、とんでもない方程式が完成する。

シナモンが消えた。

パンが不味くなった。

民衆がシナモンを求めている。

【結論】シナモンは禁断の魔法薬(スパイス)を使って人々を洗脳し、国家転覆を狙っている魔女である!

「許せん……! 私の愛する国を、小麦粉で支配しようとするとは!」

エドワードはマントを翻し、壁に飾られた剣(儀礼用で刃引きしてある)を手に取った。

「出撃だ! 直ちに『魔女シナモン討伐隊』を編成せよ! 私が直々に辺境へ赴き、彼女の洗脳を解き、そして……」

彼はゴクリと喉を鳴らした。

「……ついでに、あの焼きたてのクリームパンを没収(試食)してやる!」

「殿下、本音が漏れております」

側近のツッコミも虚しく、王都から大軍(という名のパン飢餓集団)が出発した。

***

一方その頃。

辺境の『ベーカリー・シナモン』は、相変わらず平和な……いや、奇妙な活気に包まれていた。

「いらっしゃいませー! 本日は『王都ざまあみろセール』開催中でーす!」

私が元気に呼び込みをすると、店内のイートインスペースに座っている黒眼鏡の青年――フェリクス公爵代行が、優雅に紅茶カップを置いた。

「シナモンさん。そのネーミング、あまりに露骨すぎませんか?」

「あら、事実ですもの。王都のパン屋組合が泣きついてきましたけど、すべてお断りしましたわ」

私は焼き上がったばかりの『悪魔の激辛カレーパン・改』をトレイに並べた。

「技術を盗もうとしたり、圧力をかけてきた相手に塩を送る義理はありません。私が送るのは、高純度の岩塩を使った『塩パン』だけです」

「……性格が悪いですね。そこが素晴らしいですが」

フェリクスは今やすっかり常連客だ。

彼は「公務の効率化」という名目で、店の一角を自分のオフィスとして占拠していた。

机の上には書類の山と、糖分補給用のデニッシュタワーが積まれている。

「それで兄上。例の『討伐隊』とやらは、もうすぐ到着しますよ」

フェリクスが視線を向けた先には、厨房で黙々とカレーパンを揚げているクラウスの背中があった。

「ああ。斥候(せっこう)からの報告では、あと一時間ほどで到着するらしい」

クラウスは油の温度を魔法で微調整しながら答えた。

「エドワード王子……。かつては友人だったが、ここまで愚かだったとはな」

「友人だったんですか?」

「幼い頃な。あいつは昔から、思い込みが激しくて人の話を聞かない奴だった。……俺が『味覚がない』と言っているのに、『好き嫌いはダメだぞ!』と言ってピーマンを口にねじ込んできたこともある」

「うわぁ……」

私はドン引きした。

それは味覚障害へのハラスメントだ。

「安心してくださいクラウスさん。今日こそ、彼に本当の『食育』をしてあげましょう」

私はニヤリと笑った。

私の手には、今朝開発したばかりの最終兵器がある。

その名も『真実の口(パン)』。

見た目はローマにある彫刻のような形をした巨大パンだが、中にはハバネロとデスソース、そして隠し味に『正気に戻る薬草』を練り込んである。

「これを食べれば、どんなアホでも目が覚めるはずです」

「……物理的な衝撃で目が覚めそうだが」

クラウスが苦笑したその時。

カランカラン!

店のドアベルが、破壊されんばかりの勢いで鳴り響いた。

「見つけたぞ、稀代の悪女シナモン!」

入ってきたのは、埃まみれの豪華な軍服を着たエドワード王子と、げっそりと痩せたリリィ、そして数十名の近衛兵たちだった。

店内の客(主に筋肉質な冒険者や、サボり中の兵士たち)が一斉に振り返る。

「……なんだあれ?」

「コスプレか?」

冷ややかな視線の中、エドワード王子はビシッと私を指差した。

「神妙にしろ! 貴様がパンに麻薬を混入し、国民を洗脳している証拠は挙がっている!」

「はい、名誉毀損で訴えます」

私は即答した。

「証拠? どこにあるんですか? 私のパンに入っているのは、小麦粉と水と塩と酵母、そして無限の愛だけですよ」

「その『愛』が怪しいのだ! 大体、たかがパン屋に公爵家の人間が出入りしているという情報も……」

エドワード王子は店内を見回し、そして固まった。

窓際の特等席で、優雅にデニッシュを食べている銀縁眼鏡の男(フェリクス)と目が合ったからだ。

「……フェリクス? なぜお前がここに?」

「おや、殿下。視察ですか?」

フェリクスは口元のパイ生地をナプキンで拭い、涼しい顔で言った。

「私は今、この国の食糧安全保障における最重要拠点の警備主任を務めております」

「は? パン屋の警備?」

「ええ。ここの『チョココロネ』が供給停止になれば、私はクーデターを起こす覚悟がありますので」

「お前も洗脳されてるじゃないかー!!」

エドワード王子が絶叫した。

「ええい、やはり魔女だ! 衛兵、かかれ! 店内のパンをすべて押収し、シナモンを捕縛せよ!」

「はっ!」

衛兵たちが動こうとした瞬間。

「……俺の店で、騒ぐなと言ったはずだ」

厨房から、低い、地を這うような声が響いた。

ドォン!

クラウスがカウンターを飛び越えて着地した。

その手には、揚げたて熱々のカレーパンが握られている。

「き、貴様は……あの時の暴力店員!」

エドワード王子が後ずさる。

「下がれ、シナモン。……油の温度は完璧だ。こいつらは俺が揚げる」

「揚げちゃダメです! せめて蒸すくらいにしてください!」

「問答無用!」

クラウスから溢れ出る覇気(と揚げ油の匂い)に、近衛兵たちが怯(ひる)む。

しかし、エドワード王子は諦めなかった。

彼は背後に隠れていたリリィを引っ張り出した。

「見ろ! この哀れなリリィを! お前の呪いのせいで、彼女はこんなに痩せ細ってしまったのだぞ!」

「えっ」

私はリリィを見た。

確かに痩せている。顔色が悪い。

「シナモン様……」

リリィがフラフラと私に近づいてくる。

その目は虚ろで、まるでゾンビのようだ。

「……く、ください……」

「リリィ? パンが欲しいの?」

「……お米……」

「はい?」

「お米をください……!!」

リリィは叫んだ。

その叫びは、魂からの悲痛な叫びだった。

「パンはもう嫌ぁぁぁ! 喉が詰まるの! 口の中の水分が奪われるの! 私は……私は、炊きたての白いご飯と、お味噌汁が飲みたいのよぉぉぉ!!」

シーン……。

店内が静まり返った。

エドワード王子がポカンと口を開けている。

「……リ、リリィ? 何を言っているんだ? 君はパンが好きだろう? シナモンからいつも貰っていたじゃないか」

「怖くて断れなかっただけです!!」

リリィが泣き崩れた。

「シナモン様が『どう? 美味しいでしょ? 感想は500文字以上で提出してね』って圧力をかけてくるから……! 無理して食べてたんです……!」

「……」

私は気まずくなって視線を逸らした。

(あー……そういえば、感想文は毎回提出させてたかも)

(パンハラスメント……略してパンハラ?)

真相が明らかになった瞬間だった。

「……つまり、貴様はリリィを脅していたわけだな!」

エドワード王子が、なぜか勝ち誇った顔をした。

「やはり悪女だ! リリィの可憐な胃袋を人質に取るとは! 成敗してくれる!」

論点がズレている気がするが、王子の暴走は止まらない。

彼は剣を抜き放ち、私に向かって突進してきた。

「覚悟しろシナモン! お前を斬って、パンのない平和な世界を作るのだ!」

「やめろ!」

クラウスが割って入ろうとするが、距離がある。

私は溜め息をついた。

「……仕方ありませんね」

私はカウンターの下から、あらかじめ用意しておいた『真実の口(激辛パン)』を取り出し、突っ込んでくる王子の口に向けて、野球のボールのように全力投球した。

「食らいなさい! 『直球ストレート(パン)』!!」

ドスッ!!

パンは見事に王子の開いた口にホールインワンした。

「むぐっ!?」

「噛んで!」

王子の動きが止まる。

そして次の瞬間。

「辛らぁぁぁぁぁぁぁいッ!!!」

王子の口から火が出た(ように見えた)。

「なんだこれは! 痛い! 熱い! でも……なんだこの奥深い旨味は!?」

辛さと旨味の波状攻撃。

王子の脳内で、アドレナリンとドーパミンが暴走する。

「水! 水をくれ! ……いや、パンをもう一口!」

王子はその場に転がり回りながら、投げられたパンを必死に追いかけ始めた。

「……勝負ありですね」

フェリクスが冷静に判定を下した。

こうして、王都からの討伐隊は、たった一個のパンによって壊滅(味覚的に)したのである。

だが、これで終わりではなかった。

「お、お米……」

まだ泣いているリリィを見かねて、私はある提案をすることにした。

「リリィ様。……実は当店、新メニューとして『お米パン』の開発に着手しているのですが、試食モニターになりませんか?」

「……お米、パン?」

リリィが顔を上げた。

そこには、新たな沼(ジャンル)への入り口が開いていた。
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