婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「はぁ……はぁ……水……水をくれ……」

店内の床で、この国の第一王子エドワード殿下が虫の息になっていた。

私の投げた『真実の口(激辛パン)』のダメージは甚大だったようだ。

しかし、その目はどこか晴れやかで、一種の解脱(げだつ)をしたような賢者の光を宿している。

「……辛かった。だが、その後に来る小麦の甘みが、まるで慈母の愛のようだった……」

「殿下、ポエムは結構ですからそこをどいてください。リリィ様のための席を作りますので」

私は殿下を足で(あ、いけない。お客様でした)優しく押しのけ、リリィ様を椅子に座らせた。

彼女はまだ泣いている。

「ううっ……騙されないわよ……パンなんて……もう見たくもない……」

「まあまあ、そう言わずに。これは私の最高傑作の一つ『お米の国からの使者(ゴパン)』です」

私は白い、丸っとしたパンを皿に乗せた。

見た目は普通の白パンだが、香りが違う。

焼き立てのパン特有の香ばしさの中に、ふわりと漂う、日本人なら誰もがDNAレベルで反応するあの香り。

「……炊きたての、匂い?」

リリィ様がピクリと反応した。

「そうです。このパンは、小麦粉を2割、残り8割をクラスツ領産の『上質なお米』を粉にして使用しています」

「お米が……パンに?」

「どうぞ。怖がらずに一口」

リリィ様は恐る恐る、パンを手に取った。

その瞬間、彼女の指が沈み込む。

「! 柔らかい……?」

普通のパンの弾力とは違う。

吸い付くような、湿り気を帯びた柔らかさ。

彼女は小さくちぎって、口に運んだ。

もぐ。

「…………」

リリィ様の動きが止まる。

店内中が固唾を飲んで見守る中、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。

「んんっ……!!」

「どうですか?」

「もちもちしてるぅぅぅ!!」

リリィ様が叫んだ。

「なにこれ!? パンなのに、噛めば噛むほどお米の甘みが出てくる! 喉に詰まらない! パサパサしない! まるで、お母さんが握ってくれたおにぎりのような安心感!」

彼女はパンを両手で持ち、むしゃむしゃと頬張り始めた。

「美味しい! これなら食べられる! ううん、毎日食べたい! お味噌汁にも合いそう!」

「でしょう? 隠し味に少しだけ塩麹(しおこうじ)を入れてありますから」

「シナモン様、貴女は天才よ! パンの魔女じゃなくて、お米の聖女様だったのね!」

「いえ、パン屋です」

そこは譲れないが、リリィ様の笑顔が戻って良かった。

これで「パンハラによる被害者」はいなくなったわけだ。

「……信じられん」

床から起き上がったエドワード殿下が、その光景を見て呟いた。

「あの偏食のリリィが、パンを食べて笑っているだと……?」

「殿下。食の好みは人それぞれです。無理強いはいけません」

私は殿下に冷たいお水(有料)を差し出した。

「貴方がやるべきだったのは、自分の好みを押し付けることではなく、彼女が何を求めているかを知ることだったんですよ」

「……ぐうっ」

殿下は言葉に詰まった。

「私は……ただ、私が美味しいと思ったものを、愛する者と共有したかっただけなのだ……」

「その気持ちは分かります。私も隙あらば全人類にパンを布教したいと思っていますから」

「同じじゃないか!」

「ですが、私は相手の好みに合わせてパンの種類を変えます。そこが愛の深さ(と商魂)の違いです」

殿下はガックリと項垂(うなだ)れた。

どうやら、自分の行いを深く反省したらしい。

「……負けたよ、シナモン。パン作りにおいても、愛においても、私はお前に勝てなかったようだ」

「勝負していたつもりはありませんが、敗北を認めるなら慰謝料としてパンを買ってください」

「ああ、買おう。店ごと買い占めてもいい」

「それは困ります。他のお客様の分がなくなりますから」

殿下は力なく笑い、そしてふと、厨房にいるクラウスに目を向けた。

「……おい、そこの店員」

「なんだ」

クラウスが腕組みをして出てくる。

「お前……やはり、ライ麦公爵家のクラウスだな?」

「……いかにも」

クラウスは変装用の眼鏡を外した。

その瞬間、店内から黄色い悲鳴が上がる。

「きゃー! やっぱり公爵様だったのー!?」

「隠しきれない気品がダダ漏れだったものね!」

殿下はため息をついた。

「行方不明になったと聞いていたが、まさかこんなところでパンを焼いていたとは。……国一番の魔導騎士が、フライヤーの前で油温調整をしている姿など、誰が想像できる?」

「ここが俺の居場所だ。文句があるか?」

「ないさ。……お前がここにいるなら、シナモンの安全は保証されたようなものだ」

殿下は少し寂しげに、しかし憑き物が落ちたような顔をした。

「シナモン。お前を王都へ連れ戻すのは諦める。……お前はここで、自由に生きるのが似合っているようだ」

「あら、物分かりが良くなりましたね。激辛パンのショック療法が効いたのかしら」

「うるさい。……その代わり、条件がある」

殿下はビシッと指を立てた。

「王宮への定期便だ! 私の朝食には、必ずお前のパンを出せ! 特にあのクリームパンと、リリィが食べているモチモチのやつ! あとカレーパンもだ!」

「承知いたしました。ただし、王族特別価格(通常の三倍)となりますが」

「構わん! 金ならある!」

「まいどあり!」

私は満面の笑みで計算機を叩いた。

こうして、私たちの店は「公爵家御用達」に続き、「王家御用達」の看板まで手に入れてしまったのである。

***

騒動が去った後の夕暮れ時。

店には、心地よい疲労感と、パンの残り香が漂っていた。

「……ふう。やっと静かになったな」

クラウスが椅子の背もたれに体を預けて言った。

「本当に。王族の相手はカロリーを使いますわ」

私は売れ残った(というか、殿下が置いていった大量の金貨の分として確保しておいた)バゲットをスライスしながら言った。

「でも、これで公に認められたことになります。もう誰にも遠慮せず、好きなだけパンが焼けますよ」

「ああ。……そして俺も、堂々とここで働ける」

クラウスは私を見て、柔らかく微笑んだ。

「シナモン。改めて礼を言う。俺の居場所を守ってくれて、ありがとう」

「お礼を言うのは私の方です。あなたがガードしてくれなかったら、店ごと没収されていましたから」

私はバゲットに、たっぷりのレバーペーストを塗って彼に渡した。

「さあ、お疲れ様の乾杯(パン)をしましょう」

「ああ」

二人はパンを齧り合った。

カリッ、という音が重なる。

「……美味い」

「でしょう?」

私たちは顔を見合わせて笑った。

窓の外では、一番星が輝き始めている。

「ところでシナモン」

「はい?」

「殿下への請求書だが、本当に三倍の価格で送るのか?」

「もちろんです。輸送料と、私の精神的苦痛への慰謝料、それに『公爵様を接客係として使ったチャージ料』が含まれていますから」

「俺のチャージ料か。……安売りはするなよ?」

「ええ、あなたの笑顔一つにつき金貨一枚乗せておきます」

「……悪徳商人め」

平和だ。

本当に、平和な夜だった。

だが、物語はここで終わらない。

『起・承・転・結』で言えば、まだ『転』の入り口に過ぎないのだ。

数日後。

店に一通の手紙が届いた。

差出人は、隣国リ・ブレの王太后――つまり、クラウスのお母様である『大公妃』からだった。

『拝啓、愛する息子クラウスへ。

 お前が辺境のパン屋に入れあげているという噂を聞きました。

 しかも、相手は「パンの魔女」と呼ばれる女だとか。

 ライ麦公爵家の嫁として相応しいか、私が直接「味見」に行きます。

 洗って待っていなさい。

 母より』

「……」

手紙を読んだクラウスが、青ざめて震えだした。

「く、来る……」

「誰がです?」

「『氷の女帝』……いや、俺の母上が……!」

「あら、お姑(しゅうとめ)さんですか? ちょうどいいわ、新作の『激甘・マダム殺しブリオッシュ』の実験台になってもらいましょう」

「やめろシナモン! 母上は甘いものが嫌いだ! 超辛党で、主食は唐辛子だ!」

「ええっ!?」

新たな強敵(ラスボス候補)の出現に、私のパン職人魂に火がついた。

「辛党……? 面白い。パンでその舌を唸らせてみせるわ!」

「逃げてくれシナモン! あの人は……あの人は、パンを『軟弱な食べ物』と呼ぶ唯一の人間なんだ!」

次回、『最強の姑襲来! 激辛パン対決で嫁の座(?)を守り抜け!』

私の戦いは、まだまだ終わらない。
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