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「掃除だ! もっと徹底的に磨け! 埃(ほこり)一つ残すな!」
「クラウス様、落ち着いてください。もう床は鏡のように輝いております」
「ダメだ! 母上の視力を甘く見るな! あの人は3キロ先の蟻の行列も見分ける『千里眼』の持ち主だぞ!」
『ベーカリー・シナモン』の早朝。
いつもは冷静沈着なクラウスが、今日は半狂乱になってモップを振り回していた。
その姿は、歴戦の魔導騎士ではなく、ただの「母親に怯える息子」だ。
私はカウンターで頬杖をつきながら、その様子を眺めていた。
「すごいプレッシャーですね。大公妃様って、そんなに怖い方なのですか?」
「怖いなんて言葉じゃ足りない」
クラウスは蒼白な顔で手を止めた。
「母上――アデラ・フォン・ライ麦大公妃は、隣国で『氷の女帝』と呼ばれている。父上が亡くなった後、女手一つで公爵領を治め、反乱分子をその微笑み一つで凍らせてきた鉄の女だ」
「へえ、かっこいい」
「そして極度の『辛党』だ。彼女の食卓には、常に真っ赤な香辛料が並ぶ。……甘いパンなど出せば、『軟弱者の食べ物』として窓から投げ捨てられるぞ」
「パンを投げ捨てる……?」
私の目がスッと冷たくなった。
「それは許せませんね。たとえお義母様(予定)でも、パンへの冒涜は万死に値します」
「頼むから喧嘩腰にならないでくれ! 俺の寿命が縮む!」
その時だった。
店の外の気温が、急激に下がった気がした。
ザワッ……と鳥たちが飛び去り、辺りが静まり返る。
「……来た」
クラウスが絶望的な顔で呟いた。
カツ、カツ、カツ。
冷たく、正確な足音が近づいてくる。
そして、店の扉が開かれた。
「ごめんください」
現れたのは、息を呑むような美女だった。
クラウスと同じ銀色の髪を高く結い上げ、漆黒のドレスに身を包んでいる。
年齢は四十代くらいだろうか。しかし、その肌は陶器のように白く、シワ一つない。
そして何より、その瞳。
アイスブルーの瞳は、絶対零度の冷気を放っていた。
「……ここが、噂の店ですか」
彼女の声は美しかったが、聞く者の背筋を凍らせる響きがあった。
「は、母上……! 遠路はるばる、ようこそお越しくださいました!」
クラウスが直立不動で敬礼した。
セバスとフェリクス(弟)も、壁際で小さくなっている。
アデラ大公妃は、息子たちを一瞥(いちべつ)もしなかった。
彼女の視線は、まっすぐに私――シナモンに向けられた。
「貴女が、シナモン・クラスツ嬢ね」
「はい。店主のシナモンです。いらっしゃいませ」
私は負けじと笑顔で応対した。
「ふうん……」
大公妃は私を上から下まで値踏みするように眺めた。
「見た目は……まあ、悪くないわね。少し粉っぽいけれど」
「パン屋ですので。これが私の化粧(メイク)です」
「口が減らない子ね。……それで?」
大公妃は陳列棚に並んだパンを見た。
ふわふわのクリームパン。
サクサクのクロワッサン。
甘い香りのメロンパン。
彼女は美しい眉をひそめ、ハンカチで鼻を覆った。
「……甘ったるい。ここは菓子屋? それとも子供の遊び場かしら」
「パン屋です」
「パンね。……小麦粉を膨らませただけの、中身のスカスカな食べ物。噛みごたえもなければ、刺激もない。まるで、今のクラウスのようね」
彼女は冷ややかに言い放った。
「家を捨て、剣を捨て、こんな場所で粉遊びに興じる……。貴女がたぶらかしたの? この軟弱な『スポンジ』で」
ピキッ。
私の脳内で何かが切れる音がした。
パンをスポンジ呼ばわり。
しかも、クラウスの今の生き方を「軟弱」だと?
「……訂正していただけますか」
私は静かに言った。
「パンはスカスカではありません。気泡の一つ一つに、酵母の命と職人の魂が詰まっています。そして、今のクラウスさんは軟弱ではありません。毎朝4時に起きて粉袋を運び、数百度の窯と向き合う、立派な戦士です」
「ほう?」
大公妃の目が細められた。
「私に口答えするとは、いい度胸ね。……でも、言葉だけなら何とでも言えるわ」
彼女は懐から、真っ赤な扇子を取り出した。
「私は『刺激』のないものが嫌いなの。食事も、人間もね。……この店には、私の舌を満足させるだけの『熱』があるのかしら?」
挑発だ。
完全に、喧嘩を売られている。
クラウスが「母上、やめてください!」と割って入ろうとしたが、私はそれを手で制した。
「わかりました」
私は不敵に笑った。
「お望みとあらば、提供しましょう。貴女のその涼しい顔を、汗と涙でぐちゃぐちゃにするほどの『熱いパン』を」
「……面白い。やってごらんなさい」
大公妃は優雅に椅子に座った。
「制限時間は一時間。もし私の舌を唸らせられなければ……クラウスは連れて帰ります。そして、この店を氷漬けにしてあげるわ」
「上等です! 厨房へ!」
私はエプロンの紐を締め直し、戦場(キッチン)へと飛び込んだ。
***
「どうするんだシナモン! 母上は、隣国の激辛料理コンテストで優勝するほどの味覚の持ち主だぞ!」
厨房で、クラウスが頭を抱えていた。
「普通の唐辛子じゃ効かない! 『ドラゴンブレス・チリ』を丸かじりして『甘いわね』と言うような人だ!」
「ふふふ、甘いのは彼女の認識よ」
私は粉を計量しながら言った。
「パンを舐めないでほしいわね。パン生地というのは、どんな食材でも包み込む『無限の包容力』を持っているのよ」
「包容力?」
「そう。辛さをただ加えるだけじゃ芸がない。パン生地の甘みと旨味で辛さをコーティングし、油断させてから……喉元で爆発させるの」
私は棚の奥から、厳重に封印された瓶を取り出した。
ドクロマークが描かれた、禍々しい瓶だ。
「これは……?」
「かつて、害獣避けのために開発した『特製スパイス・煉獄(れんごく)』よ。ハバネロ、ジョロキア、キャロライナ・リーパーを粉末にし、さらに『火吹きキノコ』の胞子を混ぜて発酵させたもの」
「発酵させたのか!? 毒物を!?」
「発酵させると旨味が出るのよ。これを生地に練り込むわ」
私は赤い粉末を、真っ白な小麦粉に投入した。
一瞬にして、生地が血のような赤色に染まる。
「クラウスさん、チーズを用意して! それも、一番クセの強いブルーチーズを!」
「わ、わかった!」
「フェリクス様は、ハチミツの準備を!」
「私も手伝うのですか!? ……まあ、兄上が連れ戻されると、また私の仕事が増えるので協力しますが」
私たちは総力戦で挑んだ。
赤い生地をこね、中にたっぷりのチーズと、刻んだチョリソー、そして『煉獄スパイス』のペーストを包み込む。
「形はどうする?」
「可愛らしく『ハート型』にしましょう」
「悪趣味だな……」
仕上げに、表面にオリーブオイルを塗り、高温の窯へ放り込む。
「燃えろ、石窯! 地獄の業火で焼き上げるのよ!」
「炎よ! 我が母の舌を焼き尽くす温度になれ!」
クラウスの魔法で、窯の温度がマックスになる。
ジューーーッ!
香ばしい、しかし目と鼻を強烈に刺激する匂いが厨房に充満した。
「げほっ! ごほっ! 目が!」
「換気! 換気を!」
私たちは涙を流しながら、焼き上がりを待った。
そして一時間後。
「お待たせいたしました」
私はトレイを持って、大公妃の前に立った。
そこにあるのは、見た目は美しい赤色の、ハート型のパンだ。
湯気と共に、甘辛い香りが漂う。
「……見た目は可愛らしいわね」
大公妃は鼻をひくつかせた。
「商品名は?」
「『初恋の情熱(バーニング・ラブ)』です」
「……ふん。ネーミングセンスは0点ね」
大公妃はナイフとフォークを手に取った。
「いただきましょう。もし期待外れだったら……覚悟なさい」
彼女は優雅にパンを切り、一口サイズにして口へ運んだ。
パクッ。
店内が静まり返る。
クラウスとフェリクスが、祈るように見守る。
大公妃は、ゆっくりと咀嚼した。
「……」
無表情だ。
「……パン生地は、モチモチしているわね。トマトとパプリカの風味がするわ」
あれ?
反応が薄い?
「辛さは……ピリッとする程度。……期待外れね。これなら幼児の離乳食よ」
彼女がフォークを置こうとした、その時だった。
ドクン。
「……っ?」
大公妃の眉がピクリと動いた。
時間差攻撃(タイムラグ)。
パン生地の甘み(オブラート)が溶け、中に封じ込められた『煉獄スパイス』が牙を剥いたのだ。
「……んッ!?」
彼女の白い肌が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「な、なにこれ……!?」
「来ましたか」
私はニヤリと笑った。
「そのパンは二段構えです。最初は生地の甘みで油断させ、飲み込んだ瞬間に喉の奥からカプサイシンが爆発します。そして……」
「あ、熱い……! 喉が……胃が……燃えるよう……!」
大公妃が胸元を押さえる。
しかし、彼女の手は止まらなかった。
「辛い……辛いけれど……止まらない! この中から溢れ出るチーズのコクと、ハチミツの甘みが、辛さを中和して……また次の一口を誘う……!」
「そうです。辛さ(ムチ)と甘さ(アメ)。この無限ループこそが、パンの魔力です」
「くっ……! 生意気な……!」
大公妃は汗を流しながら、パンを貪(むさぼ)り始めた。
「ハフッ、ハフッ! 水! いいえ、ワインを!」
「どうぞ、冷たいミルクです」
セバスが絶妙なタイミングでミルクを差し出す。
「んぐっ、んぐっ……ぷはぁ! ……もう一口!」
もはや「氷の女帝」の面影はない。
そこにいるのは、美味しい激辛パンに夢中になる、ただの食いしん坊な女性だった。
完食。
皿の上には、パン屑一つ残っていなかった。
大公妃はナプキンで口元を拭い、荒い息を整えた。
その瞳は、涙で潤み、頬はバラ色に輝いている。
「……ふう。……いい汗をかいたわ」
彼女は私をキッと睨んだ。
「……美味しかったわよ。悔しいけれど」
「ありがとうございます!」
「パンが、これほど攻撃的で、情熱的な食べ物だとは思わなかった。……撤回するわ。パンは軟弱ではない」
「分かっていただけて嬉しいです」
「そして……」
彼女は視線をクラウスに移した。
「クラウス。……お前も、いい顔をするようになったわね」
「え?」
「昔のお前は、氷像のように冷たい顔をしていた。でも今は……汗をかいて、必死になって、生きている顔をしている」
大公妃は立ち上がり、息子の肩に手を置いた。
「ここにいなさい。どうやら、公爵家の当主の座よりも、この店の『温度管理係』の方が、お前には合っているようだから」
「母上……!」
クラウスの顔が輝いた。
「認めてくださるのですか!」
「ええ。ただし」
大公妃は私に向き直った。
「シナモン嬢。貴女には一つ課題を与えます」
「課題?」
「この『激辛パン』、まだ改良の余地があるわ。来月また来るから、それまでにもっと刺激的な新作を用意しておきなさい。もし私の舌が満足しなければ……その時は店ごと没収よ」
「ええーっ!?」
「楽しみにしてるわよ、私の可愛い『嫁』候補さん」
大公妃はフフッと妖艶に笑い、颯爽(さっそう)と店を出ていった。
残された私たちは、ドッと疲れが出たようにその場にへたり込んだ。
「……勝ったのか?」
「一応、防衛戦には成功しましたね」
私は額の汗を拭った。
「でも、来月また来るって……」
「気に入られたな、シナモン」
クラウスが苦笑する。
「母上は、気に入った相手にしか課題を出さない。……どうやら、俺たちの平穏な日々はまだまだ遠そうだ」
「望むところですよ」
私は立ち上がった。
「パン職人に限界はありません。来月は『唐辛子酵母』を使った、世界一辛いカレーパンで迎え撃ちましょう!」
「……俺の胃袋が持つか心配だ」
こうして、最強の姑との戦いは、長期戦の様相を呈してきたのだった。
「クラウス様、落ち着いてください。もう床は鏡のように輝いております」
「ダメだ! 母上の視力を甘く見るな! あの人は3キロ先の蟻の行列も見分ける『千里眼』の持ち主だぞ!」
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その姿は、歴戦の魔導騎士ではなく、ただの「母親に怯える息子」だ。
私はカウンターで頬杖をつきながら、その様子を眺めていた。
「すごいプレッシャーですね。大公妃様って、そんなに怖い方なのですか?」
「怖いなんて言葉じゃ足りない」
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「へえ、かっこいい」
「そして極度の『辛党』だ。彼女の食卓には、常に真っ赤な香辛料が並ぶ。……甘いパンなど出せば、『軟弱者の食べ物』として窓から投げ捨てられるぞ」
「パンを投げ捨てる……?」
私の目がスッと冷たくなった。
「それは許せませんね。たとえお義母様(予定)でも、パンへの冒涜は万死に値します」
「頼むから喧嘩腰にならないでくれ! 俺の寿命が縮む!」
その時だった。
店の外の気温が、急激に下がった気がした。
ザワッ……と鳥たちが飛び去り、辺りが静まり返る。
「……来た」
クラウスが絶望的な顔で呟いた。
カツ、カツ、カツ。
冷たく、正確な足音が近づいてくる。
そして、店の扉が開かれた。
「ごめんください」
現れたのは、息を呑むような美女だった。
クラウスと同じ銀色の髪を高く結い上げ、漆黒のドレスに身を包んでいる。
年齢は四十代くらいだろうか。しかし、その肌は陶器のように白く、シワ一つない。
そして何より、その瞳。
アイスブルーの瞳は、絶対零度の冷気を放っていた。
「……ここが、噂の店ですか」
彼女の声は美しかったが、聞く者の背筋を凍らせる響きがあった。
「は、母上……! 遠路はるばる、ようこそお越しくださいました!」
クラウスが直立不動で敬礼した。
セバスとフェリクス(弟)も、壁際で小さくなっている。
アデラ大公妃は、息子たちを一瞥(いちべつ)もしなかった。
彼女の視線は、まっすぐに私――シナモンに向けられた。
「貴女が、シナモン・クラスツ嬢ね」
「はい。店主のシナモンです。いらっしゃいませ」
私は負けじと笑顔で応対した。
「ふうん……」
大公妃は私を上から下まで値踏みするように眺めた。
「見た目は……まあ、悪くないわね。少し粉っぽいけれど」
「パン屋ですので。これが私の化粧(メイク)です」
「口が減らない子ね。……それで?」
大公妃は陳列棚に並んだパンを見た。
ふわふわのクリームパン。
サクサクのクロワッサン。
甘い香りのメロンパン。
彼女は美しい眉をひそめ、ハンカチで鼻を覆った。
「……甘ったるい。ここは菓子屋? それとも子供の遊び場かしら」
「パン屋です」
「パンね。……小麦粉を膨らませただけの、中身のスカスカな食べ物。噛みごたえもなければ、刺激もない。まるで、今のクラウスのようね」
彼女は冷ややかに言い放った。
「家を捨て、剣を捨て、こんな場所で粉遊びに興じる……。貴女がたぶらかしたの? この軟弱な『スポンジ』で」
ピキッ。
私の脳内で何かが切れる音がした。
パンをスポンジ呼ばわり。
しかも、クラウスの今の生き方を「軟弱」だと?
「……訂正していただけますか」
私は静かに言った。
「パンはスカスカではありません。気泡の一つ一つに、酵母の命と職人の魂が詰まっています。そして、今のクラウスさんは軟弱ではありません。毎朝4時に起きて粉袋を運び、数百度の窯と向き合う、立派な戦士です」
「ほう?」
大公妃の目が細められた。
「私に口答えするとは、いい度胸ね。……でも、言葉だけなら何とでも言えるわ」
彼女は懐から、真っ赤な扇子を取り出した。
「私は『刺激』のないものが嫌いなの。食事も、人間もね。……この店には、私の舌を満足させるだけの『熱』があるのかしら?」
挑発だ。
完全に、喧嘩を売られている。
クラウスが「母上、やめてください!」と割って入ろうとしたが、私はそれを手で制した。
「わかりました」
私は不敵に笑った。
「お望みとあらば、提供しましょう。貴女のその涼しい顔を、汗と涙でぐちゃぐちゃにするほどの『熱いパン』を」
「……面白い。やってごらんなさい」
大公妃は優雅に椅子に座った。
「制限時間は一時間。もし私の舌を唸らせられなければ……クラウスは連れて帰ります。そして、この店を氷漬けにしてあげるわ」
「上等です! 厨房へ!」
私はエプロンの紐を締め直し、戦場(キッチン)へと飛び込んだ。
***
「どうするんだシナモン! 母上は、隣国の激辛料理コンテストで優勝するほどの味覚の持ち主だぞ!」
厨房で、クラウスが頭を抱えていた。
「普通の唐辛子じゃ効かない! 『ドラゴンブレス・チリ』を丸かじりして『甘いわね』と言うような人だ!」
「ふふふ、甘いのは彼女の認識よ」
私は粉を計量しながら言った。
「パンを舐めないでほしいわね。パン生地というのは、どんな食材でも包み込む『無限の包容力』を持っているのよ」
「包容力?」
「そう。辛さをただ加えるだけじゃ芸がない。パン生地の甘みと旨味で辛さをコーティングし、油断させてから……喉元で爆発させるの」
私は棚の奥から、厳重に封印された瓶を取り出した。
ドクロマークが描かれた、禍々しい瓶だ。
「これは……?」
「かつて、害獣避けのために開発した『特製スパイス・煉獄(れんごく)』よ。ハバネロ、ジョロキア、キャロライナ・リーパーを粉末にし、さらに『火吹きキノコ』の胞子を混ぜて発酵させたもの」
「発酵させたのか!? 毒物を!?」
「発酵させると旨味が出るのよ。これを生地に練り込むわ」
私は赤い粉末を、真っ白な小麦粉に投入した。
一瞬にして、生地が血のような赤色に染まる。
「クラウスさん、チーズを用意して! それも、一番クセの強いブルーチーズを!」
「わ、わかった!」
「フェリクス様は、ハチミツの準備を!」
「私も手伝うのですか!? ……まあ、兄上が連れ戻されると、また私の仕事が増えるので協力しますが」
私たちは総力戦で挑んだ。
赤い生地をこね、中にたっぷりのチーズと、刻んだチョリソー、そして『煉獄スパイス』のペーストを包み込む。
「形はどうする?」
「可愛らしく『ハート型』にしましょう」
「悪趣味だな……」
仕上げに、表面にオリーブオイルを塗り、高温の窯へ放り込む。
「燃えろ、石窯! 地獄の業火で焼き上げるのよ!」
「炎よ! 我が母の舌を焼き尽くす温度になれ!」
クラウスの魔法で、窯の温度がマックスになる。
ジューーーッ!
香ばしい、しかし目と鼻を強烈に刺激する匂いが厨房に充満した。
「げほっ! ごほっ! 目が!」
「換気! 換気を!」
私たちは涙を流しながら、焼き上がりを待った。
そして一時間後。
「お待たせいたしました」
私はトレイを持って、大公妃の前に立った。
そこにあるのは、見た目は美しい赤色の、ハート型のパンだ。
湯気と共に、甘辛い香りが漂う。
「……見た目は可愛らしいわね」
大公妃は鼻をひくつかせた。
「商品名は?」
「『初恋の情熱(バーニング・ラブ)』です」
「……ふん。ネーミングセンスは0点ね」
大公妃はナイフとフォークを手に取った。
「いただきましょう。もし期待外れだったら……覚悟なさい」
彼女は優雅にパンを切り、一口サイズにして口へ運んだ。
パクッ。
店内が静まり返る。
クラウスとフェリクスが、祈るように見守る。
大公妃は、ゆっくりと咀嚼した。
「……」
無表情だ。
「……パン生地は、モチモチしているわね。トマトとパプリカの風味がするわ」
あれ?
反応が薄い?
「辛さは……ピリッとする程度。……期待外れね。これなら幼児の離乳食よ」
彼女がフォークを置こうとした、その時だった。
ドクン。
「……っ?」
大公妃の眉がピクリと動いた。
時間差攻撃(タイムラグ)。
パン生地の甘み(オブラート)が溶け、中に封じ込められた『煉獄スパイス』が牙を剥いたのだ。
「……んッ!?」
彼女の白い肌が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「な、なにこれ……!?」
「来ましたか」
私はニヤリと笑った。
「そのパンは二段構えです。最初は生地の甘みで油断させ、飲み込んだ瞬間に喉の奥からカプサイシンが爆発します。そして……」
「あ、熱い……! 喉が……胃が……燃えるよう……!」
大公妃が胸元を押さえる。
しかし、彼女の手は止まらなかった。
「辛い……辛いけれど……止まらない! この中から溢れ出るチーズのコクと、ハチミツの甘みが、辛さを中和して……また次の一口を誘う……!」
「そうです。辛さ(ムチ)と甘さ(アメ)。この無限ループこそが、パンの魔力です」
「くっ……! 生意気な……!」
大公妃は汗を流しながら、パンを貪(むさぼ)り始めた。
「ハフッ、ハフッ! 水! いいえ、ワインを!」
「どうぞ、冷たいミルクです」
セバスが絶妙なタイミングでミルクを差し出す。
「んぐっ、んぐっ……ぷはぁ! ……もう一口!」
もはや「氷の女帝」の面影はない。
そこにいるのは、美味しい激辛パンに夢中になる、ただの食いしん坊な女性だった。
完食。
皿の上には、パン屑一つ残っていなかった。
大公妃はナプキンで口元を拭い、荒い息を整えた。
その瞳は、涙で潤み、頬はバラ色に輝いている。
「……ふう。……いい汗をかいたわ」
彼女は私をキッと睨んだ。
「……美味しかったわよ。悔しいけれど」
「ありがとうございます!」
「パンが、これほど攻撃的で、情熱的な食べ物だとは思わなかった。……撤回するわ。パンは軟弱ではない」
「分かっていただけて嬉しいです」
「そして……」
彼女は視線をクラウスに移した。
「クラウス。……お前も、いい顔をするようになったわね」
「え?」
「昔のお前は、氷像のように冷たい顔をしていた。でも今は……汗をかいて、必死になって、生きている顔をしている」
大公妃は立ち上がり、息子の肩に手を置いた。
「ここにいなさい。どうやら、公爵家の当主の座よりも、この店の『温度管理係』の方が、お前には合っているようだから」
「母上……!」
クラウスの顔が輝いた。
「認めてくださるのですか!」
「ええ。ただし」
大公妃は私に向き直った。
「シナモン嬢。貴女には一つ課題を与えます」
「課題?」
「この『激辛パン』、まだ改良の余地があるわ。来月また来るから、それまでにもっと刺激的な新作を用意しておきなさい。もし私の舌が満足しなければ……その時は店ごと没収よ」
「ええーっ!?」
「楽しみにしてるわよ、私の可愛い『嫁』候補さん」
大公妃はフフッと妖艶に笑い、颯爽(さっそう)と店を出ていった。
残された私たちは、ドッと疲れが出たようにその場にへたり込んだ。
「……勝ったのか?」
「一応、防衛戦には成功しましたね」
私は額の汗を拭った。
「でも、来月また来るって……」
「気に入られたな、シナモン」
クラウスが苦笑する。
「母上は、気に入った相手にしか課題を出さない。……どうやら、俺たちの平穏な日々はまだまだ遠そうだ」
「望むところですよ」
私は立ち上がった。
「パン職人に限界はありません。来月は『唐辛子酵母』を使った、世界一辛いカレーパンで迎え撃ちましょう!」
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