婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「おめでとうございます、シナモン様。ご懐妊です」

王都から急遽呼び出された王宮医師が、私の手首から指を離し、満面の笑みで告げた。

『ベーカリー・シナモン』の寝室。

ベッドに横たわる私と、心配そうに手を握りしめていたクラウスが、同時に固まった。

「……え?」

私の脳内コンピューターがフリーズする。

(懐妊? つまり……妊娠?)

(お腹の中に、新しい命が?)

(酵母菌の培養に成功したわけではなく?)

私が混乱していると、クラウスが震える声で尋ねた。

「せ、先生……本当か? シナモンが……俺の子を?」

「はい。今の体調不良はつわりです。母子ともに健康ですよ」

「うおおおおおおッ!!」

クラウスが雄叫びを上げた。

彼はベッドに突っ伏し、私の布団に顔を埋めて男泣きし始めた。

「よかった……! 本当によかった……! 俺が父親に……シナモンが母親に……!」

「クラウスさん、苦しいです。布団が濡れます」

私は彼を優しく撫でながら、自分のお腹に手を当てた。

まだ膨らみはない。

でも、ここに私とクラウスの「合作(コラボレーション)」がいるのだと思うと、不思議な温かさが込み上げてきた。

「……ねえ、クラウスさん」

「なんだ? 何でも言ってくれ。水か? 果物か? それともダイヤモンドか?」

「いえ。……この子、将来はどんなパン職人になるかしら?」

「……そこか」

クラウスは涙を拭いて笑った。

「気が早すぎるが……まあ、君の子だ。きっと産声の代わりに『発酵!』と叫んで生まれてくるだろうな」

***

妊娠のニュースは、瞬く間に親族一同に知れ渡った。

そして数日後。

案の定、我が店のイートインスペースにて、緊急サミット『第一回・ライ麦家次期当主命名会議』が開催された。

メンバーは例のごとく、最強にして最悪にキャラの濃い面々だ。

「孫が生まれると聞いて飛んできたわ!」

アデラ大公妃が、大量のベビー服(唐辛子柄)を抱えて現れた。

「俺の孫か……。くくっ、闇の帝王として英才教育を施してやらねばな」

ロダン元皇帝(父)が、黒いガラガラ(振ると不気味な音がする)を持参した。

「筋肉質な子が生まれるように、プロテインを用意したぞ!」

アルフレッド国王が、粉ミルクの缶と間違えてプロテイン缶を積み上げた。

「……静かにしてください、皆さん」

フェリクス(弟)が頭を抱えている。

「妊婦にストレスは厳禁です。……シナモン義姉さん、体調はどうですか?」

「ええ、すこぶる元気ですよ。ただ、つわりのせいで『焼き立てパンの匂い』が少し鼻につくのが辛いですけど」

「それはパン屋として致命的では?」

「なので、今は無臭の『冷凍パン』をかじっています」

私は氷のように冷たいパンをガリガリと齧りながら、議題に入った。

「さて、名前についてですが」

私はスケッチブックを開いた。

「私の希望案はこちらです」

『男の子なら:バゲット、カンパーニュ、クロワッサン』
『女の子なら:メロン、コロネ、ブリオッシュ』

「却下だ」

全員の声が重なった。

「なぜですか! どれも愛らしく、香ばしい名前じゃないですか!」

「子供は食べ物じゃないのよ!」

大公妃が扇子で私の頭を軽く叩いた。

「もっとこう……強くて美しい名前になさい。例えば『カイエン(唐辛子)』とか」

「それも食べ物(スパイス)じゃないですか!」

「俺の案は『ディアボロ(悪魔)』だ」

「父上、中二病は引退してください」

フェリクスが冷静に却下する。

「クラウス兄さんはどう考えているんですか?」

話を振られたクラウスは、真剣な顔で腕組みをしていた。

「……俺は、シナモンと出会って世界が変わった。だから、二人の思い出に関連する名前がいいと思うんだ」

「ほう、例えば?」

「『イースト(酵母)』」

「お前もかよ!」

フェリクスがテーブルに突っ伏した。

「どいつもこいつもパン脳すぎる……! まともなのは私だけか!」

結局、名前は生まれてから顔を見て決めること(ただし食材名は禁止)で合意に至った。

***

それからの数ヶ月は、私にとって試練と幸福の日々だった。

お腹は日に日に大きくなり、今までのように厨房で激しく動くことはできなくなった。

「ダメだシナモン! 重いものを持つな!」

「でも、小麦粉の袋(25キロ)が……」

「俺がやる! 君は椅子に座って、指示だけ出していればいい!」

クラウスは過保護モード全開だった。

彼は私の代わりにパンをこね、焼き、そして接客までこなした。

その手つきは、もはや一流の職人と呼べるレベルに達していた。

「すごいわ、クラウスさん。クープ(切れ込み)の角度が芸術的よ」

「君の指導のおかげだ。……それに、お腹の子に『パパのパンは下手くそ』と言われたくないからな」

彼は焼き上がったパンを、愛おしそうにお腹に近づけた。

「ほら、匂いを嗅いでみろ。パパの自信作だぞ」

すると。

ポコン!

お腹の中で、赤ちゃんが元気に蹴り返した。

「うわっ! 蹴った! 今、蹴ったぞ!」

クラウスが子供のようにはしゃぐ。

「『いい匂い!』って言ってますね」

「そうかそうか! よし、次はクリームパンを焼いてやるからな!」

そんな幸せな光景を見ながら、私は「胎教」にも力を入れた。

夜、ベッドの中で。

普通の母親なら童話や絵本を読み聞かせるところだが、私は違った。

「いい? 赤ちゃん。聞いてね」

私は分厚い本を開いた。

「まずは『基本のフランスパン』の配合よ。準強力粉100%に対し、水は68%、塩2%、モルト0.4%、イーストは微量で低温長時間発酵……」

「……シナモン、それは寝物語か?」

隣で聞いていたクラウスが苦笑する。

「英才教育です。生まれる前から配合比率(ベーカーズパーセント)を叩き込んでおけば、離乳食が終わった頃には一人前の職人になれます」

「……この子が初めて喋る言葉が『グルテン!』だったらどうするんだ」

「泣いて喜びます」

「俺は『パパ』って呼んでほしいんだが……」

クラウスは私のお腹に耳を当てて、小声で囁いた。

「いいかー。パンより先に『パパ』だぞー。約束だぞー」

その必死な姿がおかしくて、私は声を上げて笑った。

***

季節が巡り、春が来た。

臨月を迎えた私は、体が重くて動くのも一苦労だった。

「予定日まであと一週間か……」

店は休業し、出産準備に入っている。

マリーやセバス、そしてフェリクスたちが、ベビーベッドやオムツを完璧に準備してくれていた。

「いつ生まれても大丈夫ですね」

私は窓辺で日向ぼっこをしながら、大きなお腹を撫でた。

「ねえ、赤ちゃん。早く出ておいで。美味しいパンが待ってるわよ」

その時だった。

ズキン。

下腹部に、鋭い痛みが走った。

「……っ!」

「どうしたシナモン!?」

そばにいたクラウスが飛び起きた。

「い、痛い……。これは……」

ズキン、ズキン。

痛みは規則的にやってくる。

「陣痛……かも」

「なっ! 予定より早いじゃないか!」

クラウスが顔面蒼白になる。

「ど、どうすればいい! お湯か! タオルか! それともパンか!?」

「パンはいりません! ……あ、でも待って」

私は痛みに耐えながら、ふと思い出した。

「厨房に……仕込みかけの『特製・安産祈願パン』の生地が……!」

「今そんなこと言ってる場合か!」

「ダメよ! あれを発酵オーバーにさせるわけにはいかないわ! クラウスさん、私の代わりに焼いて!」

「お前ってやつは……!」

クラウスは私をマリーたちに託すと、涙目で厨房へ走った。

「焼いてくる! 最高に美味しく焼いて、君と子供の元へ戻ってくるから! だから……頑張れシナモン!」

「はい! ……ううっ、痛いぃぃ!」

私は寝室へ運ばれた。

いよいよだ。

私の人生最大の「共同作業(出産)」が始まる。

分娩室(寝室)の外では、フェリクスや大公妃、国王たちが大騒ぎしている声が聞こえる。

「頑張れシナモン! 気合だ!」

「医者はまだか! 私が魔法で痛みを取ってやる!」

「ダメです母上! 魔法干渉は危険です!」

カオスな声援をBGMに、私は歯を食いしばった。

(負けないわ……!)

(美味しいパンを焼くには、忍耐と体力が必要なのと同じ!)

(この痛みを乗り越えれば……最高の「焼き上がり(赤ちゃん)」に会えるんだから!)

「うーーーーんっ!!」

数時間後。

厨房から、パンの焼き上がる香ばしい匂いが漂ってきた頃。

オギャァァァァァッ!!

元気な産声が、屋敷中に響き渡った。

それは、新しい物語(パンライフ)の始まりを告げる、力強い声だった。
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