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突然の訪問者
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新天地に降り立ってから数日が経過したエレノアは、宮廷の煌びやかな喧騒とは無縁の、ゆったりとした田園の風景の中で、静かな生活を送っていた。朝露に濡れた草花の香り、遠くでさざめく小川のせせらぎ、そして鳥たちのさえずりが、彼女の日常を優しく包み込んでいた。毎朝、柔らかな陽光が邸宅の窓から差し込み、エレノアはその光に迎えられながら、これまでの重圧から解放された自由な時間を心から味わっていた。
だが、その穏やかな日々は、ある朝の訪問者によって一変することになる。まだ薄明かりの中、エレノアが庭先の小さな茶室で一服の茶を楽しんでいると、遠くから重厚な馬車の車輪の音が響いてきた。初めは、ただの偶然の旅人かと目を細めた彼女。しかし、次第にその音は大きくなり、茶室の扉の前で馬車が止まった。車体は漆黒に輝き、威厳と重々しさが漂っている。エレノアは、一抹の不安を覚えながらも、身を整え、ゆっくりと扉を開ける決意を固めた。
扉が軋む音とともに、茶室に入ってきたのは、これまで一度も出会ったことのなかった人物であった。深い闇夜を彷彿とさせる漆黒の髪、鋭い眼差し、そして整った顔立ち――その男は、冷徹な印象を与える一方で、どこか品格に満ちた雰囲気を漂わせていた。彼の存在感は、まるで邸宅の静寂な空気さえも凍りつかせるかのようであった。
「エレノア嬢」
低く、しかし確固たる声が空間に響く。男は、ゆっくりとした動作で一歩前に出ると、丁寧な敬礼を欠かさずに頭を下げた。だが、その眼差しは決して柔らかいものではなく、むしろ容赦なく、鋭くエレノアの内面を見透かすかのように感じられた。
エレノアは、思わず胸騒ぎを覚えながらも、淡々と返事をする。「あなたは……?」と、問いかける声は、かすかな警戒心を隠しながらも、どこか好奇心を帯びていた。
「私はヴィンセント。王国宰相として、この王国の未来を見据える者である。長らく、あなたにお会いする時を待ち望んでおりました」
彼の返答は、冷静かつ断固たる決意を感じさせ、その言葉の一つ一つが、エレノアの心に突き刺さるようであった。
エレノアは、内心でその意味を咀嚼しながらも、口元に微かな苦笑みを浮かべた。――ここまで静かな隠居生活を夢見ていたのに、まさかこのような形で訪問者が現れるとは。
しかし、彼女はすぐに冷静さを取り戻し、優雅な立ち振る舞いで応対した。「ヴィンセント殿、どうか突然の訪問にお心当たりは……?」と、尋ねるその声には、これまでの宮廷生活で鍛えられた毅然とした響きがあった。
ヴィンセントは、わずかに頷くと、ゆっくりと言葉を続けた。「エレノア嬢、あなたは王太子との婚約が破棄された後、ここに隠居生活を選んだと伺っております。しかし、私にはその決断をただの偶然とは思えぬ理由があると感じさせる何かがございます」
彼の瞳は、遠くの過去を見つめるかのように、また同時に現実を見据えている。口調には、疑問と確信が同居しており、その全てが、彼の内に秘められた計り知れぬ情熱と野心を暗示していた。
邸宅の広々とした玄関ホールに引き寄せられるように、二人はゆっくりと移動しながら、静かな廊下を歩んでいった。壁に飾られた過去の肖像画や歴史を感じさせる彫刻が、二人の会話を陰ながら見守る。エレノアは、これまで感じたことのなかった緊張感とともに、心の中で問いかける。「なぜ、こんなにも冷徹な男が、私の前に現れるのか?」その答えは、未だ彼女には分からなかった。
途中、邸宅の中庭に差し掛かると、月明かりに照らされた石畳の上で、ヴィンセントは一旦立ち止まった。背後に広がる庭園は、昼間の陽光とは異なる幻想的な雰囲気を醸し出しており、どこか神秘的な静けさが漂っていた。ヴィンセントは、その庭園を一瞥すると、再びエレノアの方を向き、低い声で告げた。
「エレノア嬢。あなたが選んだこの隠居の地は、美しい。しかし、隠れる場所など存在しない。私の視線から、あなたは逃れることは決してできぬのだ」
その言葉は、まるで冷たい鉄槌のように響き、エレノアの胸に鋭く突き刺さった。彼女は一瞬、身震いするが、すぐに立ち直り、毅然とした声で答えた。「ヴィンセント殿、私の選んだ道は私自身の意思であり、あなたに左右されるものではありません。もし、私を何かの目的に利用しようというのなら、その考えは誤解です」
しかし、ヴィンセントは微笑みを浮かべ、その表情には一切の嘲笑や軽蔑は見えなかった。むしろ、その瞳は、何かを確信しているかのように静かに輝いていた。「利用する? いや、エレノア嬢。私が望むのは、あなたと共に歩む未来であり、あなたが本来持っている輝きを再び取り戻してほしいという、ただ一つの願いである」
その言葉に、エレノアは一瞬戸惑いながらも、心のどこかでその情熱に触れたような気がして、わずかに視線を落とした。
会話は続き、二人は邸宅内の広間に腰を下ろし、暖かな暖炉の火が揺れる中、静かに話し合いを始めた。ヴィンセントは、これまでの宮廷での彼自身の役割、そして王国全体の未来について語り始めた。彼の話し方は冷徹でありながらも、その裏に潜む情熱と信念が伝わってくるものだった。エレノアは、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けながら、自分の心の内を整理していた。過去の束縛から解放された今、彼女は新たな人生を歩む覚悟を持っていた。しかし、ヴィンセントという存在が、彼女の前に現れたことで、その静寂な日々が今まさに脅かされようとしているのを感じずにはいられなかった。
ヴィンセントは、彼女に対して執拗なまでの熱意を示すとともに、これまでの宮廷での立場や名誉とは無縁の、真摯な感情をむき出しに語った。「あなたが抱える孤独、そしてこれまでの運命に翻弄された心を、私は深く理解している。だからこそ、あなたには新たな未来がふさわしいと確信しているのだ」
その声には、威圧と優しさが同居しており、エレノアは自らの中で何かが揺れ動くのを感じた。過去の栄光も、今の解放感も、すべてが彼の存在によって再び意味を帯びるのではないかと、わずかな期待と恐れが交錯する瞬間であった。
広間に流れる時間は、ゆったりと、しかし確実に二人の心の距離を縮めていった。エレノアは、これまで誰にも見せなかった内面の脆さや、自由への渇望を、ひそかにヴィンセントに委ねるようになっていく自分に気づく。一方、ヴィンセントもまた、冷徹な外見の裏側に隠された、ひとりの男としての情熱と孤独を、エレノアの瞳の奥に読み取っていた。互いの存在が、まるで鏡のように自分自身を映し出すかのようで、二人の間には言葉以上の何かが流れ始めていた。
「あなたは、なぜここに?」とエレノアは問いかけた。
「それは、あなたをただ傍観することができなかったからだ」と、ヴィンセントは静かに応じた。その声には、冷たい断言とともに、温かな情念が込められているように感じられた。
「私は、あなたにとっての『理想』なのか……?」と、エレノアはかすかに呟いた。だがその問いに対し、ヴィンセントはただ一言、「君は、君自身だ」とだけ返す。そのシンプルな答えは、エレノアの心に深い衝撃を与え、彼女はしばらく言葉を失った。
時折、暖炉の炎が揺れるたびに、二人の顔には淡い陰影が走る。外の風が窓を叩き、古びたガラス越しに月明かりが差し込む中、互いに向けられた視線は、ただ一方的な執着や強引さだけでなく、深い理解と共感の色合いを帯び始めていた。エレノアは、これまで誰にも明かさなかった自身の心の奥底に潜む孤独や迷いが、ヴィンセントの冷たくも真摯な眼差しによって、ゆっくりと浮かび上がってくるのを感じた。
「私の隠居生活は、ただの逃避ではない」と、エレノアは静かに告げた。「私は、自分の内に秘めた真実を見つめ直すためにここへ来たの。宮廷での日々が、どれほど偽りに満ちたものだったかを、今こそ知りたくないのよ」
ヴィンセントは、ゆっくりと頷きながら、彼女の目をじっと見据えた。「真実は、時に残酷でありながらも、美しいものだ。君が自らの心に正直であろうとするその姿勢は、まさに私が求めるものだ」
その言葉は、エレノアにとって予期せぬ温もりとなり、彼女は初めて心から安心できるような感覚を覚えた。
やがて、広間での対話が一区切りついた頃、ヴィンセントは立ち上がり、静かに告げる。「この夜は、君にとっても私にとっても、新たな始まりの日の予感に満ちている。君が望むならば、今宵はもうひとつの物語を紡ぐ時としよう」
その誘いの言葉は、まるで冷徹な意志の断片でありながらも、どこか甘美な約束のように響いた。エレノアは一瞬、ためらいの表情を見せたが、次第にその瞳は静かに決意を帯び、微かに頷いた。
庭に出ると、月光に照らされた草花が幻想的な影を落とし、遠くの森のざわめきが二人の周囲を包み込む。ヴィンセントは、ゆっくりとエレノアの手を取り、その冷たくも力強い手のぬくもりを感じながら、そっと歩み出す。歩みながら、彼はこれまで自分が抱えてきた孤独と苦悩、そして王国を背負う重責を一瞬忘れさせるような、柔らかな笑みを浮かべた。
「エレノア嬢。君は、この広大な世界の中で、どんな夢を見ているのだろうか?」と、彼は静かに問いかけた。
エレノアは、遠くを見つめながら、自分自身に問いかけるように答えた。「夢……夢は、自由であること。誰にも縛られず、ただ自分の心が求めるままに生きることなの」
その言葉に、ヴィンセントは再び頷きながら、「その夢は、決して儚いものではない。君が真摯に歩む限り、必ず道は拓ける」と、低く力強い声で応じた。
夜も更け、庭園の灯りが一層幻想的な輝きを放つ中、二人はゆっくりと邸宅へと戻る。互いの存在が、これまで感じたことのなかったほどに心を寄せ合う感覚を、静かに、しかし確実に刻んでいく。その帰路、エレノアはふと、かすかな不安とともに問いかけた。「あなたは、本当に私のためにここに来たのですか?」
ヴィンセントは、その問いに対し、一言も躊躇せずに答えた。「君が逃げられぬ運命を背負っているならば、私はその運命を変えるためにここにいる。決して、ただの偶然ではないのだ」
その答えに、エレノアは心の奥底で何かが音を立てるのを感じた。自由を求めた彼女の決意と、運命に抗う意志――それらが、今この瞬間、ひとつの奇跡のように交わったかのようだった。
邸宅の暖かな室内に戻った後も、二人の対話は途切れることなく続いた。暖炉の前に座り、ヴィンセントは自身の過去や、これまで見てきた数々の物語、そして王国全体の未来について静かに語り始めた。彼の話は、厳しい現実と希望が交錯する、まるで詩のような重みがあった。エレノアは、その語られる一言一言に心を傾けながら、次第に自らの胸に秘めた感情が再び蘇るのを感じた。
こうして、夜の帳が完全に降りる頃、ヴィンセントはゆっくりと立ち上がり、エレノアの前に跪くような仕草を見せたわけではなかったが、その視線は、確固たる決意と情熱に満ちたものだった。「今宵、君に伝えたいことがある」と、彼は静かに口を開いた。「君の人生が、これまでのような孤独な闇に沈むのを、私は決して見過ごすことはできなかった。君にふさわしい輝きを、再び取り戻してほしい。私と共に、歩んでみないか?」
その問いかけは、ただの執拗な誘いではなく、彼自身の心の叫びそのものだった。エレノアは、言葉にできない感情が胸中に広がるのを感じながら、ただしばらく沈黙し、そして、ゆっくりとその瞳に答えを浮かべた。
「ヴィンセント殿……」
エレノアの声は、かすかに震えながらも、どこか決意に満ちた響きを帯びていた。彼女は、これまでの孤独な日々に別れを告げ、新たな未来へと一歩を踏み出す準備が整いつつあることを、自覚していた。
その夜、邸宅の静かな一室で、エレノアは日記に今日の出来事を書き留めた。そこには、冷徹な宰相の突然の訪問、そしてその言葉に触発された心の変化が、細やかに記されていた。彼女は、これからの未来に対する不安と期待、そして何よりも、自分自身の内に秘めた本当の願いに気づき始めたのだった。
朝が訪れる前の、ほの暗い一瞬。エレノアは窓辺に立ち、外の静寂を見つめながら、心の中でそっとつぶやいた。「私の人生は、これからどう変わるのだろうか……」
そして、遠くでまた馬車の軋む音が聞こえ、彼女はふと、あの冷徹な瞳と静かな声が、これからの日々をどのように彩っていくのかを想像せずにはいられなかった。自由を求めて歩き出したその道の先に、果たして待ち受けるものは、甘美な愛情だけなのか――それとも、また新たな運命が静かに忍び寄るのか。
だが、その穏やかな日々は、ある朝の訪問者によって一変することになる。まだ薄明かりの中、エレノアが庭先の小さな茶室で一服の茶を楽しんでいると、遠くから重厚な馬車の車輪の音が響いてきた。初めは、ただの偶然の旅人かと目を細めた彼女。しかし、次第にその音は大きくなり、茶室の扉の前で馬車が止まった。車体は漆黒に輝き、威厳と重々しさが漂っている。エレノアは、一抹の不安を覚えながらも、身を整え、ゆっくりと扉を開ける決意を固めた。
扉が軋む音とともに、茶室に入ってきたのは、これまで一度も出会ったことのなかった人物であった。深い闇夜を彷彿とさせる漆黒の髪、鋭い眼差し、そして整った顔立ち――その男は、冷徹な印象を与える一方で、どこか品格に満ちた雰囲気を漂わせていた。彼の存在感は、まるで邸宅の静寂な空気さえも凍りつかせるかのようであった。
「エレノア嬢」
低く、しかし確固たる声が空間に響く。男は、ゆっくりとした動作で一歩前に出ると、丁寧な敬礼を欠かさずに頭を下げた。だが、その眼差しは決して柔らかいものではなく、むしろ容赦なく、鋭くエレノアの内面を見透かすかのように感じられた。
エレノアは、思わず胸騒ぎを覚えながらも、淡々と返事をする。「あなたは……?」と、問いかける声は、かすかな警戒心を隠しながらも、どこか好奇心を帯びていた。
「私はヴィンセント。王国宰相として、この王国の未来を見据える者である。長らく、あなたにお会いする時を待ち望んでおりました」
彼の返答は、冷静かつ断固たる決意を感じさせ、その言葉の一つ一つが、エレノアの心に突き刺さるようであった。
エレノアは、内心でその意味を咀嚼しながらも、口元に微かな苦笑みを浮かべた。――ここまで静かな隠居生活を夢見ていたのに、まさかこのような形で訪問者が現れるとは。
しかし、彼女はすぐに冷静さを取り戻し、優雅な立ち振る舞いで応対した。「ヴィンセント殿、どうか突然の訪問にお心当たりは……?」と、尋ねるその声には、これまでの宮廷生活で鍛えられた毅然とした響きがあった。
ヴィンセントは、わずかに頷くと、ゆっくりと言葉を続けた。「エレノア嬢、あなたは王太子との婚約が破棄された後、ここに隠居生活を選んだと伺っております。しかし、私にはその決断をただの偶然とは思えぬ理由があると感じさせる何かがございます」
彼の瞳は、遠くの過去を見つめるかのように、また同時に現実を見据えている。口調には、疑問と確信が同居しており、その全てが、彼の内に秘められた計り知れぬ情熱と野心を暗示していた。
邸宅の広々とした玄関ホールに引き寄せられるように、二人はゆっくりと移動しながら、静かな廊下を歩んでいった。壁に飾られた過去の肖像画や歴史を感じさせる彫刻が、二人の会話を陰ながら見守る。エレノアは、これまで感じたことのなかった緊張感とともに、心の中で問いかける。「なぜ、こんなにも冷徹な男が、私の前に現れるのか?」その答えは、未だ彼女には分からなかった。
途中、邸宅の中庭に差し掛かると、月明かりに照らされた石畳の上で、ヴィンセントは一旦立ち止まった。背後に広がる庭園は、昼間の陽光とは異なる幻想的な雰囲気を醸し出しており、どこか神秘的な静けさが漂っていた。ヴィンセントは、その庭園を一瞥すると、再びエレノアの方を向き、低い声で告げた。
「エレノア嬢。あなたが選んだこの隠居の地は、美しい。しかし、隠れる場所など存在しない。私の視線から、あなたは逃れることは決してできぬのだ」
その言葉は、まるで冷たい鉄槌のように響き、エレノアの胸に鋭く突き刺さった。彼女は一瞬、身震いするが、すぐに立ち直り、毅然とした声で答えた。「ヴィンセント殿、私の選んだ道は私自身の意思であり、あなたに左右されるものではありません。もし、私を何かの目的に利用しようというのなら、その考えは誤解です」
しかし、ヴィンセントは微笑みを浮かべ、その表情には一切の嘲笑や軽蔑は見えなかった。むしろ、その瞳は、何かを確信しているかのように静かに輝いていた。「利用する? いや、エレノア嬢。私が望むのは、あなたと共に歩む未来であり、あなたが本来持っている輝きを再び取り戻してほしいという、ただ一つの願いである」
その言葉に、エレノアは一瞬戸惑いながらも、心のどこかでその情熱に触れたような気がして、わずかに視線を落とした。
会話は続き、二人は邸宅内の広間に腰を下ろし、暖かな暖炉の火が揺れる中、静かに話し合いを始めた。ヴィンセントは、これまでの宮廷での彼自身の役割、そして王国全体の未来について語り始めた。彼の話し方は冷徹でありながらも、その裏に潜む情熱と信念が伝わってくるものだった。エレノアは、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けながら、自分の心の内を整理していた。過去の束縛から解放された今、彼女は新たな人生を歩む覚悟を持っていた。しかし、ヴィンセントという存在が、彼女の前に現れたことで、その静寂な日々が今まさに脅かされようとしているのを感じずにはいられなかった。
ヴィンセントは、彼女に対して執拗なまでの熱意を示すとともに、これまでの宮廷での立場や名誉とは無縁の、真摯な感情をむき出しに語った。「あなたが抱える孤独、そしてこれまでの運命に翻弄された心を、私は深く理解している。だからこそ、あなたには新たな未来がふさわしいと確信しているのだ」
その声には、威圧と優しさが同居しており、エレノアは自らの中で何かが揺れ動くのを感じた。過去の栄光も、今の解放感も、すべてが彼の存在によって再び意味を帯びるのではないかと、わずかな期待と恐れが交錯する瞬間であった。
広間に流れる時間は、ゆったりと、しかし確実に二人の心の距離を縮めていった。エレノアは、これまで誰にも見せなかった内面の脆さや、自由への渇望を、ひそかにヴィンセントに委ねるようになっていく自分に気づく。一方、ヴィンセントもまた、冷徹な外見の裏側に隠された、ひとりの男としての情熱と孤独を、エレノアの瞳の奥に読み取っていた。互いの存在が、まるで鏡のように自分自身を映し出すかのようで、二人の間には言葉以上の何かが流れ始めていた。
「あなたは、なぜここに?」とエレノアは問いかけた。
「それは、あなたをただ傍観することができなかったからだ」と、ヴィンセントは静かに応じた。その声には、冷たい断言とともに、温かな情念が込められているように感じられた。
「私は、あなたにとっての『理想』なのか……?」と、エレノアはかすかに呟いた。だがその問いに対し、ヴィンセントはただ一言、「君は、君自身だ」とだけ返す。そのシンプルな答えは、エレノアの心に深い衝撃を与え、彼女はしばらく言葉を失った。
時折、暖炉の炎が揺れるたびに、二人の顔には淡い陰影が走る。外の風が窓を叩き、古びたガラス越しに月明かりが差し込む中、互いに向けられた視線は、ただ一方的な執着や強引さだけでなく、深い理解と共感の色合いを帯び始めていた。エレノアは、これまで誰にも明かさなかった自身の心の奥底に潜む孤独や迷いが、ヴィンセントの冷たくも真摯な眼差しによって、ゆっくりと浮かび上がってくるのを感じた。
「私の隠居生活は、ただの逃避ではない」と、エレノアは静かに告げた。「私は、自分の内に秘めた真実を見つめ直すためにここへ来たの。宮廷での日々が、どれほど偽りに満ちたものだったかを、今こそ知りたくないのよ」
ヴィンセントは、ゆっくりと頷きながら、彼女の目をじっと見据えた。「真実は、時に残酷でありながらも、美しいものだ。君が自らの心に正直であろうとするその姿勢は、まさに私が求めるものだ」
その言葉は、エレノアにとって予期せぬ温もりとなり、彼女は初めて心から安心できるような感覚を覚えた。
やがて、広間での対話が一区切りついた頃、ヴィンセントは立ち上がり、静かに告げる。「この夜は、君にとっても私にとっても、新たな始まりの日の予感に満ちている。君が望むならば、今宵はもうひとつの物語を紡ぐ時としよう」
その誘いの言葉は、まるで冷徹な意志の断片でありながらも、どこか甘美な約束のように響いた。エレノアは一瞬、ためらいの表情を見せたが、次第にその瞳は静かに決意を帯び、微かに頷いた。
庭に出ると、月光に照らされた草花が幻想的な影を落とし、遠くの森のざわめきが二人の周囲を包み込む。ヴィンセントは、ゆっくりとエレノアの手を取り、その冷たくも力強い手のぬくもりを感じながら、そっと歩み出す。歩みながら、彼はこれまで自分が抱えてきた孤独と苦悩、そして王国を背負う重責を一瞬忘れさせるような、柔らかな笑みを浮かべた。
「エレノア嬢。君は、この広大な世界の中で、どんな夢を見ているのだろうか?」と、彼は静かに問いかけた。
エレノアは、遠くを見つめながら、自分自身に問いかけるように答えた。「夢……夢は、自由であること。誰にも縛られず、ただ自分の心が求めるままに生きることなの」
その言葉に、ヴィンセントは再び頷きながら、「その夢は、決して儚いものではない。君が真摯に歩む限り、必ず道は拓ける」と、低く力強い声で応じた。
夜も更け、庭園の灯りが一層幻想的な輝きを放つ中、二人はゆっくりと邸宅へと戻る。互いの存在が、これまで感じたことのなかったほどに心を寄せ合う感覚を、静かに、しかし確実に刻んでいく。その帰路、エレノアはふと、かすかな不安とともに問いかけた。「あなたは、本当に私のためにここに来たのですか?」
ヴィンセントは、その問いに対し、一言も躊躇せずに答えた。「君が逃げられぬ運命を背負っているならば、私はその運命を変えるためにここにいる。決して、ただの偶然ではないのだ」
その答えに、エレノアは心の奥底で何かが音を立てるのを感じた。自由を求めた彼女の決意と、運命に抗う意志――それらが、今この瞬間、ひとつの奇跡のように交わったかのようだった。
邸宅の暖かな室内に戻った後も、二人の対話は途切れることなく続いた。暖炉の前に座り、ヴィンセントは自身の過去や、これまで見てきた数々の物語、そして王国全体の未来について静かに語り始めた。彼の話は、厳しい現実と希望が交錯する、まるで詩のような重みがあった。エレノアは、その語られる一言一言に心を傾けながら、次第に自らの胸に秘めた感情が再び蘇るのを感じた。
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その問いかけは、ただの執拗な誘いではなく、彼自身の心の叫びそのものだった。エレノアは、言葉にできない感情が胸中に広がるのを感じながら、ただしばらく沈黙し、そして、ゆっくりとその瞳に答えを浮かべた。
「ヴィンセント殿……」
エレノアの声は、かすかに震えながらも、どこか決意に満ちた響きを帯びていた。彼女は、これまでの孤独な日々に別れを告げ、新たな未来へと一歩を踏み出す準備が整いつつあることを、自覚していた。
その夜、邸宅の静かな一室で、エレノアは日記に今日の出来事を書き留めた。そこには、冷徹な宰相の突然の訪問、そしてその言葉に触発された心の変化が、細やかに記されていた。彼女は、これからの未来に対する不安と期待、そして何よりも、自分自身の内に秘めた本当の願いに気づき始めたのだった。
朝が訪れる前の、ほの暗い一瞬。エレノアは窓辺に立ち、外の静寂を見つめながら、心の中でそっとつぶやいた。「私の人生は、これからどう変わるのだろうか……」
そして、遠くでまた馬車の軋む音が聞こえ、彼女はふと、あの冷徹な瞳と静かな声が、これからの日々をどのように彩っていくのかを想像せずにはいられなかった。自由を求めて歩き出したその道の先に、果たして待ち受けるものは、甘美な愛情だけなのか――それとも、また新たな運命が静かに忍び寄るのか。
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――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!
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