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契約結婚の始まり
しおりを挟む「愛のない結婚で構いません。どうか私を放っておいてください」
侯爵令嬢クラリス・ド・ラルフォンは、まっすぐに前を見つめたまま、隣に座る男性にそう告げた。馬車の中は静寂に包まれ、車輪の音だけが響いている。
「承知した」
低く響く声に、クラリスは胸の奥でほっと息をついた。アルベルト・フォン・ヴァイスハイト公爵。王国でも屈指の名門の当主であり、「氷の公爵」と呼ばれる無表情で冷酷な男として有名だった。
今日、彼女は彼と結婚したばかりだった。
理由は単純だった。ラルフォン侯爵家の経営する商会が破綻寸前まで追い込まれ、その責任を取る形で、クラリスがヴァイスハイト公爵家との政略結婚に応じることになったのだ。家の名誉と引き換えに、彼女は自分の人生を差し出した。
「互いに干渉しない、形だけの結婚生活を送ること」
それが唯一の条件だった。クラリスにとって、それは救いでもあった。愛し合うことのない結婚生活なら、傷つくこともない。期待することもない。ただ、義務を果たすだけでいい。
馬車が止まり、立派な門構えの屋敷が見えた。ヴァイスハイト公爵邸。これから彼女が住む場所だ。
「到着したようだな」
アルベルトが先に馬車から降り、手を差し出してくれた。クラリスはその手を借りて降り立つ。彼の手は大きく、温かかった。
屋敷の使用人たちが整列して出迎えてくれる。皆、丁寧にお辞儀をしているが、その表情は硬い。新しい公爵夫人である自分を、まだ受け入れられずにいるのだろう。
「夫人の部屋は東の棟に用意してある。必要なものがあれば、メイドのエマに申し付けてくれ」
アルベルトは事務的に説明すると、さっさと奥へ向かっていってしまった。クラリスは一人残され、改めて自分の置かれた状況を実感した。
エマと名乗る若いメイドに案内されて、クラリスは自分の部屋に向かった。廊下は長く、装飾品も立派だったが、どこか冷たい印象を与える。
「こちらがお部屋になります」
案内された部屋は、予想以上に広く、調度品も上質だった。大きな窓からは庭が見え、夕日が差し込んでいる。
「何かご不明な点がございましたら、いつでもお声をかけてください」
エマは丁寧にお辞儀をして部屋を出ていった。クラリスは一人きりになり、ベッドに腰を下ろした。
これから始まる新しい生活。愛のない結婚生活。でも、それでいい。期待しなければ、失望することもない。
窓の外で鳥が鳴いている。穏やかな午後の風景だった。
その夜、クラリスは一人で夕食を取った。大きな食堂で、長いテーブルの片端に座り、使用人たちがそっと給仕してくれる。アルベルトの姿はない。
「旦那様はお仕事でお忙しく、お食事も書斎で取られることが多いのです」
エマが小声で説明してくれた。クラリスは安堵とともに、なぜか少しの寂しさも感じた。
食事を終えて部屋に戻ると、ドレッサーの上に小さな花瓶が置かれていた。白いバラが一輪、活けられている。
「これは?」
「旦那様からです。奥様の部屋に花を絶やさないようにと、仰せつかっております」
エマの説明に、クラリスは驚いた。互いに干渉しないと言ったのに、なぜこんな配慮を?
「旦那様は、お優しい方なのです」
エマが小さく微笑んだ。クラリスは白いバラを見つめながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じた。
これは、ただの気遣いなのだろう。深い意味はない。そう自分に言い聞かせながら、クラリスはベッドに入った。
長い一日が終わり、新しい生活が始まったのだった。
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