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心の扉
しおりを挟む冷たい風が、森の木々を揺らしていた。遠くの空は夕暮れに染まり、山の端へと沈む太陽が、地上に長い影を落としている。夕闇の訪れとともに、大地に眠る数々の秘密が、そっと目を覚ますかのように漂い始めていた。
紗耶は森の奥深く、ひっそりと身を潜めるようにして小さな隠れ家にいた。簡素な木造の小屋は、以前から誰かが住んでいた形跡こそあったものの、今はただ、静寂とともにそこに佇んでいた。壁に寄りかかりながら、彼女は深く息をついた。長い逃亡の果てに、ここまで来た。だが、胸の内には未だ消えない不安と、逃れられぬ恐怖があった。
彼女は、膝を抱え込むようにして目を閉じた。頭の中には、ルシアンとの出会いが浮かんでくる。森の中で交わした言葉、彼の瞳に映る優しさと孤独。彼の手が触れたときの温もりが、未だに彼女の指先に残っているような気がした。だが、その温もりを信じることは、今の紗耶にはあまりに怖かった。
過去、彼女は何度も信じることで傷ついてきた。家族に縛られ、望まぬ婚約を強いられ、愛を知らぬまま閉ざされた日々。何もかもがまるで牢獄のようだった。だからこそ、自由を求めて逃げ出したのに、今になって心が迷い始めているのはなぜなのか。
「私は……何を恐れているの?」
彼女は、ぽつりと呟いた。
そのとき、不意に扉の向こうから音がした。紗耶は、瞬時に身を硬くする。誰かが、森の中を歩いている気配がする。彼女は、そっと身を屈めながら、慎重に小窓から外を覗いた。
そして、次の瞬間、彼女の心臓は一気に跳ね上がった。
そこに立っていたのは、エドモンド公爵だった。
彼は、いつもと変わらぬ冷徹な表情を浮かべ、静かに佇んでいた。だが、彼の瞳の奥には、どこか深い思索の色が滲んでいた。
「……見つけたぞ。」
低く響く声が、紗耶の耳を貫いた。彼女は、息を呑んだまま、動くことができなかった。
なぜ、ここがわかったのか。どうして、彼がここまで来たのか。
紗耶の思考は混乱し、心臓の鼓動が早まる。逃げなければ。そう思った瞬間、エドモンドが静かに口を開いた。
「怖がるな。」
その言葉は、意外なほど穏やかだった。冷酷公爵と呼ばれる男の声とは思えぬほど、静かで、どこか優しさを含んでいた。
「……あなたは、私を捕らえに来たのでは?」
紗耶は、震える声で問いかけた。
「そうかもしれない。」
エドモンドは、ゆっくりと歩を進める。その姿は、まるで獲物を狙う猛獣のようでありながら、どこか苦悩を抱えた影のようでもあった。
「だが……本当にそうなのかは、私自身もわからない。」
彼の言葉に、紗耶は戸惑った。彼女は、もう一度窓の外を確認する。彼の背後には、護衛の姿はない。彼は、たった一人でここまで来たのだ。
「……あなたは、何が目的なの?」
彼女の問いに、エドモンドはわずかに目を伏せた。
「私は……お前に聞きたいことがある。」
「聞きたいこと?」
「なぜ、逃げた?」
その問いに、紗耶の指が強く拳を握った。
「……それを、あなたが聞くの?」
彼女の声は、怒りを滲ませていた。
「私は……ただ、自由が欲しかった。それだけよ。」
「それだけか?」
エドモンドの目が、鋭く光る。
「お前の瞳は、何かを恐れているように見える。」
紗耶は、言葉を失った。彼の言葉が、彼女の心の奥深くに突き刺さる。
「私のことなど関係ないでしょう。」
彼女は、拒絶するように言い放った。
だが、エドモンドは静かに首を振った。
「関係ないことなど、ない。」
彼は、一歩、また一歩と近づいてくる。その姿に、紗耶は逃げるべきかどうか迷った。だが、なぜか彼女の足は動かない。
エドモンドは、彼女のすぐ目の前まで来ると、静かに呟いた。
「私もまた、過去に縛られた男だ。」
その言葉に、紗耶は目を見開いた。
「……あなたが?」
「私は、ずっと愛を信じられずにいた。」
エドモンドの声は、どこか遠い記憶を呼び起こすように、低く静かだった。
「愛は、時に人を縛り、傷つける。だから、私は長い間、それを避けてきた。」
紗耶は、じっと彼の瞳を見つめた。そこには、かつての冷酷な公爵とは違う、一人の男の素顔があった。
「それでも、私は……お前に聞きたい。」
「何を……?」
「お前の傷を、私に預ける気はないか?」
紗耶の心が、大きく揺れた。
彼の言葉が、本心なのかどうか、彼女にはわからない。だが、彼の瞳の奥に宿るものが、嘘ではないと、彼女の直感が告げていた。
「私は……」
言葉が、喉の奥で詰まる。
逃げたい。だけど、逃げたくない。
怖い。だけど、信じてみたい。
そんな矛盾した想いが、彼女の胸の中で交錯する。
そして、紗耶はゆっくりと目を閉じた。
エドモンドの手が、そっと彼女の頬に触れる。その手は、意外なほどに温かかった。
「私と、お前は似ているのかもしれないな。」
彼の呟きが、静かに森の風に溶けていった。
その夜、彼女は初めて、自らの心の扉が少しだけ開いたような気がした。
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