俺も恋愛対象者‼

私欲

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第二章

ウィリアム・風見・レオ 後編

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 汗が首を伝って垂れていく。
 雲一つない青空の下、地面からは湯気が出ており、弓道場の周りには、人だかりができていた。首にタオルを巻いていたり、つば広帽子を被っていたり、各々熱中症対策をしている中、俺達もスポーツドリンクを片手に持ち、固唾を呑んで見守っていた。
 放たれた矢は的を外れた。
 隣に立つ同学年の弓道部員がガッツポーズをする。俺も無意識に手を強く握りしめていた。
 弓道の個人競技である射詰は、一射ずつ矢を放ち、的中した者だけが残っていく。現在、二ノ宮先輩と他校の選手一人が残っていた。さきほど、他校の生徒が外したので、次、二ノ宮先輩が的中すれば、二ノ宮先輩が優勝する。失中した選手は、膝を折った上に腰をおろした姿勢で、次の番が来るのを待っている。
二ノ宮先輩が真っ直ぐ的を見つめながら、弓引きを行う。
 俺でさえ、心臓の音がうるさいというのに、あの場に立っている二ノ宮先輩はどれほどのプレッシャーを感じるのだろう。
  セミの鳴き声が聞こえなくなるほどの緊張感に包まれた空間を破るように、二ノ宮先輩の矢が放たれた。

「「「乾杯!!」」」
 学園付近のファミレスで弓道部の打ち上げが行われた。
「二ノ宮、最後の最後まで、あの場に残ってるの気持ちいいだろ!?」
「ほんとにすごかった!あのプレッシャー見てるだけの私でも倒れそうだったのに」
「先輩、一人だけ違って見えました……」
「わかる、先輩のところだけ、オーラ違ったよね」
 弓道部員が二ノ宮先輩の周りを囲んで、当人よりも数倍興奮した様子で詰め寄っていた。話題の中心である二ノ宮先輩は、恥ずかしそうに照れ笑いをしていた。全国大会の団体戦は準々決勝で敗れたものの、個人戦で先輩が優勝した。
 俺は遠くから二ノ宮先輩が囲まれている光景を、ぼんやり見つめていた。無意識に二ノ宮先輩の隣に広瀬がいたらどうだったんだろう、と考えている自分にハッとして、物騒な想像をかき消すように頭を振る。広瀬と二ノ宮先輩の物語を知っている俺は、先輩の本音を知っている。俺自身が、広瀬と二ノ宮先輩が結ばれないように妨害したというのに、二ノ宮先輩の隣に広瀬がいないことを心配する自分勝手さに軽い自己嫌悪に陥る。
 気を紛らわそうと、俺は席を立つ。近くのコップが空の人達に、ドリンクの有無を聞き、俺の両手が持てる限界である五個のコップを持ってドリンクバーに向かう。頼まれた飲み物を注いでいると肩を叩かれた。振り返ると、二ノ宮先輩が立っていた。
「それ全部持っていけるの?」
「五個ならギリギリ……それよりも、おめでとうございます。俺、まだ言えてませんでした」
 やっと祝いの言葉を伝えられた。常に誰かに囲まれている二ノ宮先輩と、大会が終わってから、一言も話すことが出来なかった。二ノ宮先輩は大きな瞳を細ませ、薄い唇を緩ませ「ありがとうございます」と俺に言う。
 二ノ宮先輩は、紅茶のティーバックを選び、お湯をティーカップに注いでいた。
「先に席に戻っていますね」
 先ほどの自分勝手な想像も相まって、二ノ宮先輩とこれ以上何を話したら良いのか分からず、ドリンクバーから離れようとしたが、二ノ宮先輩から「佐藤君も、今日までありがとうございます」と話しかけられてしまったので、二ノ宮先輩のティーカップの中にお湯が注がれ終わるのを待った。
 ……そうか、俺、今日で期間限定のマネージャ―が終わるのか。
 二ノ宮先輩に言われて、なにかが手の間からすり落ちていった感覚があった。おそらく俺は寂しさを感じていた。大会が始まる数日前にも、弓道部を続けないかと二ノ宮先輩や部員に言われていたが、「そろそろ文芸部に戻らないと……」とやんわり断ると、それ以上はしつこいだろうと思ってくれたのか、引き留めてはこなかった。
 席に戻ると、二ノ宮先輩は俺の隣に座った。二つの大テーブルをファミレスの店員にくっつけてもらっていた俺達の席は、ファミレス内のどの席よりも喜びのオーラに包まれ、賑やかだった。
 今度の話題は、団体戦で活躍した選手を中心に盛り上がっていた。俺はそれを眺めていると、二ノ宮先輩が俺だけに聞こえる程度の小声で話してきた。
「佐藤さんってあの……えっと、広瀬さん? だっけ?」
「え、広瀬がどうかしました?」
「広瀬さんが好きなんですか?」
 ストローで飲んでいたメロンソーダが入ったコップを落とした。それを瞬時にキャッチした二ノ宮先輩。俺の口にはストローだけ残る。
「お、おお~僕、すごくないですか?」
 拾ったドリンクをキャッチした二ノ宮先輩が珍しく興奮した笑顔を俺に向ける。俺はというと、赤くなったり青くなったり忙しかった。
「え、え、え?」
 俺は「え」しか言葉を紡げない人形にでもなったようだった。
 確かに俺は、広瀬のことが好きだということが誰かにバレるのはもう既に構わないと思っていたが、二ノ宮先輩に知られるとなると、なんとも微妙な気持ちだった。
 そんな俺を見て、二ノ宮先輩は眉根を寄せて、大笑いする。意外に二ノ宮先輩は豪快に笑うのだ。それに気付いた部員の視線がこちらに集まってくる。
「どうした? 二ノ宮?」
「なになに? 佐藤、先輩になんて言ったの?」
 突然、注目の的が俺達になり焦る。そんな俺を尻目に、二ノ宮先輩がにっこり微笑んで、部員に話しかける。
「そうそう、皆さん。今日で佐藤さんの麦茶が飲めなくなります。祝賀会もありますが、佐藤さん送別会でもあります」
「そうだった、そうだった! 佐藤、今日でおしまいか!」
「えー佐藤先輩、まだ、いましょーよー」
「そうだよ、佐藤の差し入れ、男のくせにセンスいいんだよな、アイスとか!」
「あ、鈴木! 性差別~最低~」
 ワッと俺に注目が集まる。これほど話題の中心になることは無いので、嬉しいやら恥ずかしいやらで、ぎこちない笑顔になってしまう。段々と俺から話題が逸れ始める頃には、俺の表情筋が音を上げていた。
 二十時、学園の最寄り駅で解散することになった。俺は部員から「いつでも遊びに来いよ」「寂しいな」など嬉しい言葉を最後まで貰えた。
 二ノ宮先輩は、一旦学園に戻るとのことだったので、俺は他の部員に気付かれることなく、二ノ宮先輩の後を追いかけた。日が沈んだとはいえ、夏真っ盛りであったので、ファミレスのクーラーがかかった過ごしやすい温度に慣れていた俺は、生ぬるくジメジメした外の温度が少し、気持ち悪かった。
「……二ノ宮先輩」
 二ノ宮先輩が、校門に足を踏み入れたあたりで声を掛ける。足が長いのか、二ノ宮先輩は一歩一歩が大きくて、俺は若干小走りだった。
「え? 佐藤さん! どうしたんですか?」
 俺が着いてきていたことに気付いていなかった二ノ宮先輩は目を瞬かせていた。
「どうしたんですかじゃないですよ、さっきの打ち上げの時の言葉が気になって、打ち上げ中ずっと俺が、ソワソワしてたの知ってるじゃないですか」
 俺が不満そうに言うと、二ノ宮先輩は少し笑った。
「いや、まさか図星だとは思わなかったので、笑っちゃってすみません」
 綺麗な顔が綺麗に笑う。羞恥心が少しの怒りに舵を切る。湿度のせいか、じとっと背中に汗をかき始めていた。二ノ宮先輩は夜空を見上げて、口元は笑みを浮かべたまま話す。
「……なんとなく、だったんです。本当になんとなく。佐藤さんが期間限定のマネージャ―を辞めるって思って、ふと、初めて会った日のことを思い出して、聞いてみただけです」



 辺りは暗く、学園の等間隔にある外灯照明の中間に先輩は立っいて、良く顔が見えなかった。それでも俺は、二ノ宮先輩が寂しそうな顔をしていると思った。胸に圧迫感を感じた。罪悪感だったのかもしれない。
 広瀬と二ノ宮先輩、俺の妨害が無く、順調に進めば、大会の次の日、広瀬と二ノ宮先輩は結ばれるはずだった。
「先輩、弓道楽しかったですか?」
「……佐藤さんには、どう見えました?」
「……楽しそうでした」
 俺の願望でもあった。
「うん、楽しかったと思います」
 俺の方を向いた二ノ宮先輩の顔は、いつもの頼りがいのある凛とした先輩の顔だった。
「それじゃあ、佐藤さんもがんばってください」
「え?」
「広瀬さん。その調子だと、まだまだなんでしょう?」
 またもや図星を突かれて、俺は苦々しく笑うしかなかった。
「ははっ、佐藤さん、それじゃあ、またね」
 二ノ宮先輩が俺に背を向けて、弓道場に向かって歩き始めた。俺はその背中を見つめていた。短期間ではあったが、俺は二ノ宮先輩に対して、自分自身が思う以上に慕っていたようで、複雑な気持ちになっていた。今だけ、広瀬と二ノ宮先輩が両想いになっても、純粋な気持ちで祝えるかもしれないと思った。
 ……………やっぱり嫌だった。
 俺は学園に背を向けて、家路に着いた。


「もう先生もそろそろお腹空いたので、昼休憩にします。このプリントは宿題です」
 夏期講習中、昼休憩まであと五分。そんな微妙な時間で授業の内容に一区切り着いたせいか、クラス全体の集中力が下がったためだろう。早めに授業が終わる。窓の外はどしゃぶりの雨。隣を見ると広瀬の姿はなく、杉谷の姿があった。期末テスト後に席替えをして俺の隣は広瀬でなくなっていた。
「佐藤、食堂行こうぜ」
「ごめん、ちょっと俺、夏期講習中、勝負だから」
 杉谷の申し出を断る。俺の真剣な眼差しと、「勝負」という俺の発言に、杉谷は「やっと動くのか」と勘違いをしているようだった。
 風見が広瀬を庇ってケガをするのは夏期講習中の昼休憩中のことだ。夏期講習は一週間。この間、必ず広瀬から目を離してはならない。広瀬はよく行動を共にしている友人達と教室を出ていった。おそらく食堂に向かうのだろう。俺は、神経を研ぎ澄まして、近すぎず遠すぎずの距離を保ちながら、広瀬達を追いかけていった。教室から出る際に、杉谷から「がんばれよ」と言われ、叩かれた背中の鈍い痛みを感じながら、広瀬を物陰から見つめる。
 一昨日から始まった夏期講習。今日まで無事に広瀬と風見は関わっていない。ストーカーをしている俺が言うのだから確かだ。しかし今日からバスケ部の練習試合が三日間続けてあるという。不安しかない。
 広瀬を含めた三人の女子が、食堂がある三階へと階段を上っていく。俺もその後を追うと、三階には長身の男がいた。
 風見だと気づいた時には遅かった。
「あ」
「えっ」
 広瀬が階段に落ちていたなにかに足を滑らせたのか、バランスを崩した。
「ショーコ!」
 風見の焦った声が聞こえる。
 咄嗟に俺も広瀬の背中を支えように両手を伸ばして、広瀬の名を叫ぶ。
「広瀬!」
 叫んだ瞬間、広瀬の背中が見えなくなる。黒衣集団だ。視界が黒衣集団で何も見えなくなる。黒衣たちの隙間から風見が広瀬の腕を掴んで、引き上げている様子が見えたが、急いで引き上げたせいで、今度は風見がバランスを崩したようだった。
「どけっ」



 風見の切羽詰まった声が聞こえる。
「え」
 黒衣集団で視界が悪い俺は避けきれなかった。
 鈍い音が二階と三階の踊り場に響いた。

 目を開けると白い天井があった。
 一瞬、今までの奇妙な世界から目が覚めたのかと思った。
「佐藤君?」
 白い天井から広瀬の顔でいっぱいになる。
「え?」
「……お、お見舞いに来ました」
 広瀬は複雑な笑顔を浮かべる。俺の顔を覗き込んでいた広瀬は、そっとベットから手を引き、両手を前で重ねて居心地が悪そうにしていた。
 そうだ、俺、入院してたんだ。
 広瀬は手を強く握っているようで、握られた方の手は白くなっている。
「……広瀬?」
 俺は寝たまま、顔だけ広瀬に向ける。広瀬の後ろには窓と座り心地の悪そうな背もたれのない椅子があった。窓の向こうは青空が広がっており白い雲の流れが速い。
 あの時、俺は風見の下敷きになって、足を骨折した。本来ならここには風見が入院していたのだろう。
「……ごめんなさい」
 広瀬は眉根を寄せて、悲痛な声で俺に謝った。
「え?」
「あれ、もしかして……意識、はっきりして、ない……?」
 広瀬が深刻そうな表情をして、泣きそうになっている。
「ちがうちがう!や、ちょっと起きたばっかだったから、混乱してるだけ」
 ホッと少しだけ表情を和らげた広瀬は、覚悟を決めたように俺をしっかり見つめて頭を下げた。
「ごめんなさい! 私の不注意で……佐藤君にケガさせました」
 深くお辞儀する広瀬。深く頭をさげたままの広瀬に、俺は焦って起き上がろうとした。
「いや、ッ」
 起き上がろうとしたが、折った右足から痛みが走り、少しだけうずくまってしまう。広瀬の行き場の手が見えた。
「……俺が、したくて、したことだから」
 少しでも早く広瀬を安心させたくて、広瀬の目を見て伝える。
「……ありがとう、佐藤君」
 表面張力。広瀬の瞳に涙がたまっている。ゆっくりと上半身を起こす。
「……あのあと風見は大丈夫だったか?」
「うん、佐藤君がいてくれたから、大きなけがはしていないよ」
 その事実にホッとした。これで広瀬と風見が恋愛する未来は、回避出来ただろう。
「今日、レオくんも一緒に来てたんだけど、さっき家の用事で帰っちゃって。レオくん帰った後、すぐ佐藤君目を覚ましたの」
「そっか」
「……どのぐらい入院するの?」
「あ~……先生が言うには、一週間程度? らしい」
「そっか……」
「あ、でも図書受付は俺行くよ」
「えっ」
 広瀬の目がぱちぱち瞬きする。
 夏期講習が終わった後も俺は図書受付の担当として登校する予定になっている。図書委員は、夏期中の図書室解放日に受付を担当しなければならない。それを決めるじゃんけんで俺は見事負けた。幸いなことに広瀬もじゃんけんで負けたので、夏期中の図書受付は、俺の夏休みの一番の楽しみだった。絶対に行く。
 この足での移動は意外に面倒くさいとは思いつつ、この機会を不意にするわけにはいかなかった。
 俺の発言に驚いていた広瀬だったが、何か思いついたらしく、キラキラした瞳をこちらに向け、口を開きかける、が、口を噤んで、なにか考え込んでいる。百面相をしている広瀬に、思わず俺から声を掛ける。
「……広瀬?」
「あの!」
「はい!」
 決心をしたらしい広瀬。俺は背中を伸ばして広瀬の言葉を待つ。
「あの、もし!登校する、なら、送り迎えをさせてほしい、です! 荷物とか持ったり!」
 広瀬が両手を胸付近で握りしめて、俺をまっすぐ見つめる。
「え?」
「退院したとしても、きっと数週間は、松葉づえでの移動だと思うし……。こんなことで恩返しにはならないかもしれないけど……」
 広瀬の送り迎え。本来ならば風見にしていたものだ。しかし、風見ではなく、俺が骨折したことによって、広瀬の送り迎えをしてもらえるのは俺。
 広瀬と風見の恋愛ルートはここで終わったと確信した。
「むしろ迷惑かな……」
 広瀬は眉をしかめて首を傾ける。
「そんなことないっ!」
 チャンスを不意にしてしまう! と焦り過ぎて、広瀬の言葉に被せるように反応してしまう。俺の言葉に広瀬は安心したように笑う。
「うん、そしたらいつでも私のこと呼んで。すぐに行く!」
 広瀬の笑顔が眩しい。広瀬の目尻の皺が愛おしい。
 後ろに窓があるため逆光のはずなのに、俺は広瀬が何よりもキラキラして見えたし、青空をバックにして笑う広瀬は、なによりも一番綺麗なものに見えた。
 俺が広瀬を見つめたまま呆けていると、突然、広瀬が大きな梨を見せてきた。
「え?」
「梨、食べない?」
 ベッド横の収納テーブルの上、果物盛り合わせや、包装された箱が置いてあった。広瀬は、そこから梨を取ったようだ。
「あ、梨、苦手だった?」
「いや、好きだけ……ど」
 意識せずに「好き」と言ったあと、謎に体温が上昇した。広瀬に対してではなく、梨に対しての言葉なのだが、妙に意識する自分が恥ずかしい。
「これって……」
 俺は果物盛り合わせを見ながら、広瀬に尋ねる。
「そう、これは私の家から。レオくん家からはそこに置いてある箱」
「あ、わるいな」
「えっいやいや。美味しく食べてもらえたら! それで、梨、食べる? 一応果物ナイフとか紙皿とかフォークとか持ってきたよ」
 広瀬の用意の良さに感動した。
「ぜ、ぜひ、頂きます」
 好きな子に剥いてもらえることに感動しすぎて、敬語になる。
 俺の言葉に、パッと表情を明るくさせた広瀬が、席に立つ。
「それじゃあ、梨、洗ってくるね」
 俺は頷いて、広瀬を見送った。母親がこの場にいないことに今更気づいて、スマホを見る。
《お友達がお見舞い品を持って来てたよ。お母さんは一六時頃にそっちに行くね》
 時計を見ると一四時だった。好きな子と、母親と、俺、という気恥ずかしいトライアングルにならないことにホッとした。広瀬がタオルで梨を包んで帰ってきた。
 椅子に座り、梨の皮を一枚のまま剥いている広瀬を俺はぼやっと見つめていた。広瀬の白くてすべすべした指で剥かれている梨を、俺はこれから食うのか……と思うと、幸せすぎて死ぬのでは? と頭を過る。 
 チラッと広瀬が見てきて、ガン見していた俺とバチっと目が合ってしまう。
「大丈夫だよ、梨とか林檎は家でも剥いてるから。そんな心配しなくても大丈夫だよ」
 広瀬は俺が広瀬の指を心配していると思ったらしい。違う、ただ単に見惚れてただけだ。
「……不謹慎なんだけど、また、野球部のこと思い出しちゃった」
 梨を剥き終えた広瀬が、立ち上がって紙皿を用意しながら言う。
 まさか、ここで、また俺の忘れたい記憶の話になるとは。
 そういえば、あの時も、ここまでではないけど、ケガしたな、とぼんやり広瀬越しに、窓の外の空を見上げた。


 
「佐藤! 助っ人に入ってくれ!」
 林が発した言葉を理解できなかった。しかし、林は興奮したように俺の肩を前後に揺らす。
「……というわけだ」
「なにも、というわけにならない」
 昼休みに、興奮した林の提案に、俺は聞き流していた。
 赤石のケガは約二週間安静にということだった。試合は二週間後。ギリギリ復帰は出来るとしても、試合には出るべきではないと監督や病院の先生が判断したという。他の部員も、今後のことを考えたら、今回の試合は諦めるべきかもしれないと考えたが、赤石が二週間確実に安静にするので、試合がしたい、俺のせいで試合が無くなるなんて嫌だ、と言う。そこまで言われたら、野球部のメンバーはどうにか試合を行おうとしたらしい。
 そこで何故か俺の出番だという。赤石と俺、二人で一人の選手として試合に出るという。つまり赤石の足の具合によって、俺が出たり出なかったりするらしい。
「いやいやいや、今までも何人か野球部の助っ人で参加してた奴らに頼もうぜ? 俺じゃなくて」
「全員駄目だったんだよ! 丁度そこで、お前が「助っ人で入る」って言ってたじゃんか」
「いや、ま~、そうなんだけど……」
 確かに、助っ人に入ってやろっかとは言ったが、冗談で言ったことだったし……と俺の目が泳ぎ出したので、林がこれみよがしに大きなため息をつく。
「……そうだよな、冗談だったんだよな……。やっぱり今回の練習試合は無しかな……。俺らの中学、他にツテが無いから、いつ、次の試合出来るか分かんないけど、仕方ないよな~…」
 林が項垂れて、ぼそぼそと話し、時折ちらっとこちらを見てくる。
「仕方ないよなあ~~?」
「……わ、分かったよ」
「ほんとか!?」
 分かってはいたが、落ち込んだ表情からパッと一瞬で表情を明るくして、俺の肩を林が両手で掴む。
「だ、だけど俺、実践は、ほぼしたことねーからな!」
「二週間で試合に出られるレベルを目指そうな」
 林のキラキラ笑顔に俺は、目をしょぼくれさせるだけだった。
 この日から二週間、俺は完全に野球部員だった。
 最初で最後の運動部として活動をする俺に対して、野球部全員が俺に協力的だった。林の友人ということもあったが、教室から練習を見ていたことを知っていたらしい。少し恥ずかしかった。
 毎日、筋肉痛で、「俺、なんでこんなことしてんだっけ?」と思うこともあったが、いつも楽しそうに練習するメンバーの仲間に入り、近くで見るのもいいなとも思っていた。
 ある日、赤石に「……すみません、俺のせいで」と言われ、流石に本人に「そうだよ」とは言えず、「超安静して、試合、俺が出なくても良いようにしてくれ」と言うと、林から「お、なんだー佐藤? 弱腰じゃねーか。自信つけるためにも、グラウンドもう一周走るかー? 付き合うぞ?」と言われ、結局多く走らされた。その後、赤石の「すみません……俺のせいで……」は、野球部内の俺を走らせるための振りになった。勘弁してほしかった。
 赤石の足は予想よりも完治するのが早く、病院の先生は職業柄、「安静に」としか言えないが、ポロっと「……無理をしなければ」と呟いていたらしく、俺の出番は無さそうだった。
 試合の前日、赤石自身が平気だと言っても、やはり病院の先生や監督は、すべて通して出場の許可は出来ないという判断になったので、六回目からは俺が出場することになった。俺は完全に気を抜いていたので、出場すると分かって、少し怖気ついた。
 赤石のポジションは外野のライトだった。
「「「お願いします!!!」」」
 両校、一列に並んで威勢のいい声で帽子を取り挨拶をする。
 試合が始まった。
 俺らのチームはやはり試合慣れをしておらず、緊張やプレッシャーから、ピッチャーが4回表でバテてきているのが目に見えて分かった。
 6回表に入った時、1対7だった。
「佐藤先輩、大丈夫ですか……?」
 俺と赤石が交代する時が来て、守備をするためベンチを出た俺は、赤石に声を掛けられた。
「あ、ああ。大丈夫だ……ッうわ」
 俺は赤石の方を見ずに、自分自身を鼓舞する形で、「大丈夫」と言うと、後ろから林が俺と赤石の肩を掴んで、笑いながら言ってきた。
「佐藤! 緊張しすぎだろ! グラウンド走るか?」
 林のその一言で、チーム全体の空気が柔らかくなった気がした。
「そうだ、俺達、10点差も離されてないぞ!」
「だな、俺達にしては意外に健闘してるぞ」
 段々と通夜ムードから、いつもの明るいチームに戻っていた。
「野球部全員揃っての初めての練習試合、目標はコールドゲームにはならないのを目指そう」
 林が八重歯を見せながら、ニッと笑った。
 俺達は、再度やる気を取り戻して、一斉に勢いよくベンチから出ていった。


「結果は、9回までして、1対12。後半戦は、俺のミスばっか。全く活躍もしてないくせに、左足肉離れになるし。俺は完全に荷物」
 2週間で、室内育ち野郎が覚醒するわけがなかった。2週間練習しただけだというのに、少しでもチームの役に立てられるかも、なんて考えていた当時の自分が恥ずかしい。
 知っているならと、こちらから全て話した方が傷は浅いと思って早口で話すも、やはり恥ずかしい過去でもあったため、羞恥心に顔に熱が集まるのを感じた。
「えっでも」
「うん、もうこの話は終わり。そういえば、この本、めちゃくちゃ面白いんだけど、広瀬読んだことある?」
「え? あ……えっと、読んだことない。何系?」
 この場から逃げ出したいほど恥ずかしかった俺は、なにか言いかけた広瀬の言葉を遮って、暇つぶしに買った本が、手に取って話題を変えた。広瀬が持ってきてくれた果物盛り合わせの横に本が置いてあって良かった。
 広瀬との会話はやっぱり楽しくて、時間の進み方が他の物事とは比にならないほど早く進む。広瀬と俺は行きつく考えが同じなのだが、そこまでの過程が異なっているので、会話をすればするほど、広瀬の魅力に惹きつけられていた。
 広瀬が俺の意見に顎に手を寄せ、口を開いた。
「なるほど……。やっぱり佐藤君と話すの楽しい。自分自身じゃ考えもしないことを言ってくれるから」
 心臓が大きく跳ねた。
 俺が思っていたことを広瀬も思っていた事実に、胸が熱くなって、急激に緊張度が高まり、喉がカラカラになる。
 広瀬の長いまつ毛から覗くヘーゼル色の瞳には、耳と頬を染めている俺を映しているような気がする。
 今までずっと帰りを誘いたくても誘えなかった。でも今は、広瀬が俺のために見舞いに来ている。俺の怪我を見て、送り迎えをするとも提案してくれた。
 誘うことは出来なかったとしても、「ずっと帰りを誘いたかった」と言うことは可能なんじゃないかと思った。
「広瀬」
「ん?」
「俺、ずっと」
 案の定、「広瀬のこと、ずっと、一緒に帰ろうって誘おうとしてたんだ」とは言えなかった。
 黒衣集団、最初は3人程度だったのに、今は5人もいる。
 ちらっと出てきそうだな~でも、帰りを誘ってるわけじゃないからな~と期待してみたが、黒衣集団が当たり前のように現れた。いつも通り、持ち看板には「役割違反」と書かれている。今回は「役割違反!」と書かれたタスキを掛けている黒衣もいた。バリエーション変えてくるんだなとぼんやり考えていると、母さんが病室に入ってきたので、俺の幸せ時間は終わりを告げた。


「おはよう、佐藤君」
 家の扉を開けると爽やかな挨拶をしてくる広瀬が眩しくて目を細める。天気の良さと広瀬の眩しさは相乗効果を生み出す。雨の日も眩しいけど。
 家の扉を開ければ、好きな子の笑顔が、朝一番に見れるっていうのは実質、俺は広瀬の彼氏ではないかと思う。
「佐藤君?」
 俺の返事が無いことを不思議に思ったらしい広瀬が首を傾げる。
「あ、ああ、ごめん。おはよう、広瀬」
「友! 水筒忘れてるよって、あ~広瀬さん、今日もありがとうね。もういいんだよ、男なんだから、そこまで気を使わなくて」
 俺の背中をバシバシ叩く母さんは、俺が怪我人だということを忘れているのかもしれない。俺が持ち忘れた水筒を持ってきて、俺の胸にドンっと渡し、広瀬にニコニコと話しかけている母さんを見て、血は争えないとぼんやり思った。
「いえ、夏休みの期間だけですけど、私に出来ることなら」
 広瀬は両手をグッと握りしめ、母親を見つめている。その姿を見た俺と母親は、メロメロである。
「いつでも飽きたら辞めていいからね、気を付けていってらっしゃい」
 俺の顔など一切見ずに、広瀬にだけ見送りの言葉を投げかける母親をジトっと睨みながら、水筒をリュックに入れた。
「「行ってきます」」
 広瀬と松葉づえをついた俺は、家の最寄り駅に向かった。

「やっぱりリュック持つよ。送り迎えしてる意味がほとんど無い」
 学園に向かう途中、広瀬が眉をひそめながら俺のリュックを見る。
「いやいやリュックだから本当に大丈夫だよ」
 松葉づえでの移動を考えて、俺はリュックを買っていた。
 広瀬と登下校を始めて三日目。夏期講習は終わっていたが、図書委員の受付当番として広瀬と俺は学園に向かっていた。
「……佐藤君と図書館当番が一緒に出来て嬉しい、な」
 広瀬が少しぎこちなく照れている様子で、足元を見ながら話している。
「え?」
 俺は広瀬の発言に、性懲りもせず期待をしてしまう。
「佐藤君に紹介したい本もあったし、おすすめの曲や本聞きたかったし」
 広瀬は進行方向を見ながら、わくわくした表情で、俺に紹介したいという本について「あれと、あれと……」と指を折り曲げながら、考えている。
 嬉しくて、ギュッと松葉づえの持ち手の部分を握りしめる。
「俺も、話したかっ」
「えーショーコ、俺は?」
 黒衣集団が現れはしなかったが、ニュっと広瀬と俺の間に割り込んできた男が広瀬の肩を抱いていた。
「レオくん!?」
 広瀬が目を大きく見開いて風見を見る。
 学園内で、一際目立つキラキラした髪の毛を無造作に一つ結びにしているだけで、様になっている風見がこちらを振り向く。顔を顰め「またお前か」という顔をした。こちらだって、お前には会いたくない。
「また先輩、ショーコのこと独り占めにしてさ~。階段から落ちた時も先輩がいなければ、俺がその美味しいポジションだったかもしれないのに」
 図星を言い当てられてドキッとしたが、悟られないように、ゆっくりと松葉づえを使いながら、歩を進める。
「ちょ、レオくん!?」
 広瀬が「なんてこと言うのだ」とギョッとした顔で風見を窘める。
 広瀬は、俺が入院中に梨を剥いてくれた日以外にも、2回ほどお見舞いに来てくれた。広瀬だけでいいのに、必ず風見も腰巾着のように来ていた。風見も最初は居心地が悪そうに「下敷きにして、すみませんでした」と謝り、俺を心配する態度を見せていたが、夏休み中の俺の登下校を広瀬がサポートすると聞いてからは、「それは話が違う」と俺を恨めしそうにし始めた。
 そのため俺の家には来ないものの、広瀬と俺が二人で歩いていれば必ず今のように邪魔をしてくるのだ。
「お前が、もっと上手く広瀬を引っ張りあげてたら、お前の下敷きになることは無かっただろうな」
「えっ佐藤君?」
 俺が足首のくるぶしを骨折することは別に構わない。むしろ広瀬と登下校を一緒に出来ることで、ウエルカムな面しか無いのだが、風見の悪態に対して、俺も悪態を返したくなる。 
広瀬は、まさか俺が風見との言い合いに参加するとは思わなかったようで困惑している。
「俺はショーコをちゃーんと助けたけど、先輩はなーにもしなくて怪我しただけじゃん」
 俺の発言にムッとした風見も、唇をツンと尖らせながら反抗してきた。怪我をしただけという痛いところをグサッと刺された俺は、苦々しく風見を睨むと、風見もこちらを上から見下ろして睨んでいた。
「……私の不注意で、ごめんなさい」
 俺と風見が睨みあっている中、ぽそりと弱弱しく広瀬が呟く。
 俺と風見は一斉に広瀬に顔を向けると、気まずそうに広瀬は肩を窄めて歩いていた。
「ち、ちがう! 広瀬はまったく悪くない」
「そうそう、ショーコはなにも悪くない」
 俺たちは必死に広瀬のせいではないと捲し立てると、顔を上げた広瀬は不思議そうに、俺達を交互に見つめて呟いた。
「……二人とも息ぴったり。実は、仲が良くなってたり…?」
「「なってない!」」
「でも、喧嘩するほど、仲が」
「「良くない!」」
 しょんぼりしていたはずの広瀬が笑いだす。
 風見と俺の声は嫌気がさすほど重なる。
 仲は良くない。
 俺も風見も広瀬がたまらなく好きという共通点があるだけだ。
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