脱ぎなさい~没落令嬢は主人の命令に逆らえない~

スケキヨ

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失くしたもの

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「ふぅ、ちょっと暑いな」

 リザはパタパタと手で顔を扇いだ。
 季節は着々と夏に近づいていて、日中は汗ばむ日も多くなってきた。
 掃除に夢中になっている間に落ちてきた髪の毛がうなじに張り付いている。リザは緩んでいたリボンをいったん外して、もう一度高い位置で結いなおした。

「あとはここを拭いて、と……」

 やるべきことを確認しつつ、リザは桶に布巾を浸した。ひんやりとした水が心地よい。

 今日は朝からヨハネスの私室の掃除に勤しんでいた。高価な品物も多い家人の部屋を任されるようになったのはつい最近のことである。
 とは言え、ヨハネスの部屋には華美な装飾品などほとんど置かれておらず、掃除もしやすい。必要以上の贅沢を好まないヨハネスの性格がよく出ている部屋だった。

 リザは布巾の水気をよく絞ると、ヨハネスの仕事机に向かう。よく使い込まれた飴色の机は磨けば磨くほど艶がでる気がして、リザの手にも力がこもる。
 机のうえは綺麗に整頓されていて、小さなランプとペン立てぐらいしかない。机の端に置かれたペン立てを退かそうとして――リザの目は一本の紅い万年筆に釘付けになった。

「これ……」

 見覚えのあるそれをリザは思わず手に取って、まじまじと見つめた。
 深みのある紅の地に草花を模した金色の文様が刻まれた胴軸。五年前、リザがヨハネスにプレゼントした万年筆だった。

 その頃は父親が胡散臭い投資話に失敗する前で、リザはまだ何の苦労も知らない幸福な伯爵令嬢だった。
 ヨハネスとは互いの母親が従姉同士で仲が良いこともあり、リザが十二歳の頃から、勉強を見てもらっていたのだ。

 ――リザの髪は綺麗だね。よく実った小麦の穂みたいだ。
 ――小麦?

 子供の頃に交わしたヨハネスとの会話を思い出す。

 ――去年は日照りが続いて小麦があまり獲れなかっただろう? 領地のみんなも困っていたはずだ。覚えてるかい?

 頷いたリザを穏やかな眼差しで見つめながら、ヨハネスは彼女の髪を愛おしそうに撫でた。

 ――小麦が獲れないとパンも作れない。パンがなかったら、僕たちはどうなる?
 ――うーん……お腹が空く?
 ――そうだね。食べるものがないと、死んでしまうね。

 「それは困る!」と目を見開いたリザの頭を撫でると、ヨハネスは穏やかに微笑んだ。

 ――だから、不作の年に備えて食料を蓄えておいたり、山から下りてきた動物に畑を荒らされたりしないように、領主は気を配らないといけないんだ。

 当時はあまり深く考えずに聞き流してしまったけれど、いま思えば、ヨハネスは「領主としての心構え」を教えてくれようとしていたのだろう。残念ながら、リザが領地を治めることはなくなってしまったけども……。

 その後、リザの母親が流行り病で亡くなったときも、ヨハネスはリザの傍にいて頭を撫でてくれた。その時の彼の手のひらの温かさを思い出すと、リザの胸は今でも温かな安堵感で満たされる。

 だからヨハネスの父親が急逝した時、きっと心細い思いをしているであろう彼のために、自分も何かお返しをしたいと思ったのだ。
 二十歳そこそこで、突然、侯爵位を継がなければいけなくなったヨハネス。忙しい彼の負担にならない何かを……と子供なりに考えて考えて選んだのが、この万年筆だった。
 鮮やかで深い紅色と、日にかざすとキラキラ輝く金の模様。
 リザは一目で気に入り、きっとヨハネスも喜ぶに違いないと得意満面に贈った品だったのだが、後から相手の好みなど全く考えずに自分の好みを押しつけてしまったのではないか、と少し後悔していた。

 だけど、今ここにあるということは……。

 何年も前の贈り物をヨハネスが今でも使っていてくれたことが言葉にできないくらい嬉しくてたまらない。リザはひとりでニヤニヤしながら、ヨハネスの机をピカピカに磨き上げた。

「よし! 終わったぁ」

 掃除を終えて部屋を出ようとリザの前に――

「リザ、お疲れ」

 ミゲルが立っていた。

 いつからここにいたのだろう?
 もしかして、ひとりでニヤニヤ笑っているところを見られてた……!?

 リザが内心で焦っていると、おもむろに近づいてきたミゲルがリザのうなじに触れた。

「ひゃ……!」

 リザはうなじを手で押さえて奇声をあげて後ずさった。

「え!? なに、いきなり……??」
「ついてる」
「え……?」

 ついてる? 何が?

「もしかして本当なのか? あの噂……」
「噂?」

 ミゲルの口からまたしても意味不明な発言が飛び出した。

「ミゲル、急に何なの? ついてる、って何が? 噂って……?」

 リザが矢継ぎ早に問い返すと、ミゲルは気まずそうに俯いて目を逸らせた。

「うなじに赤い痕がついてる。強く吸われたときにできるやつ。……誰に付けられたんだ?」
「え!?」

 首を回して確認しようとしたが、もちろん自分では見ることができない。
 強く吸われたとき、って……。

「あ」

 数日前、ヨハネスに強く吸い付かれたことを思い出した。サッと顔に血が上ったのが自分でもわかる。

「心当たりがあるのか?」
「…………」

 リザは俯いて、ミゲルの視線を避けることしかできなかった。

「じゃあ、あの噂も本当なのか?」

 沈黙を肯定と受け取ったらしいミゲルが畳みかけるように訊いてくる。

「噂?」
「リザがその……旦那様と関係を持ってる、って」

 リザの心臓がドクン、と大きな音を立てる。

「そんなこと、あるわけないよな?」

 縋りつくようなミゲルの問いかけに、リザはもちろん答えられない。

 最後まではしていない。
 リザは依然として処女のままだ。
 だけど、リザはすでにヨハネスの肌の心地よさを知っている。
 ――その指から与えられる淫らな悦びを知っている。

「知らないのか? 旦那様は……」

 赤くなって黙りこむリザに、ミゲルが追い打ちをかけるように告げた。

「旦那様、ルードウォルフ家の御令嬢と婚約されたんだぞ。愛妾にでもなるつもりなのか?」

 ミゲルの言葉に、リザの心臓がギュッと握り潰されたみたいにドクンと軋む。

 ルードウォルフ家……? 婚約……?
 全く予期していなかったわけではなかった。
 ヨハネスもすでに二十五歳だ。貴族でそのぐらいの年齢であれば、結婚はもちろん、すでに親になっている者も多い。急な爵位の継承でバタバタしていたせいもあるが、むしろ今まで婚約者の一人もいないほうがおかしかったのだ。

 だからヨハネスの婚約自体は驚くことではない。問題なのは――

「お前たち、人の部屋で何をしている?」

 背後から聞こえた叱責の声に、リザはビクリと肩を震わせた。

「旦那様!?」

 慌てふためくミゲルの声につられてリザも顔を上げると、入り口のドアにもたれて腕を組むヨハネスの姿が目に入った。不快そうに眉間に皴を寄せたその表情に、リザの不安が増幅する。

「も、申し訳ありません!」

 ミゲルが震えながら頭を下げた。リザも深く腰を折って動揺を悟られないように顔を隠す。
 ヨハネスはいまの話を聞いていたのだろうか?

「顔を上げなさい」

 主人の命令に、リザとミゲルは恐る恐る顔を上げる。
 相変わらずヨハネスの眉間には深い皴が刻まれており、気分を害していることは間違いない。

「ミゲル、お前に確認したいことがある」
「はっ……!」

 ミゲルが息を呑む音がリザの耳にまで届いた。彼の緊張が伝わってきて、リザまで緊張してしまう。

「お前は……リザに気があるのか?」
「…………え」

 まさか自分の気持ちを問われるとは予想していなかったらしいミゲルが小さく疑問の声をあげると、

「リザのことを女として気に入っているのか、と訊いている」

 ヨハネスが念を押すように言葉を足す。
 ミゲルは後ろに控えるリザをチラリと見やってから口を開いた。

「……い、いえ。リザのことは妹のように思っております」

 おそらくミゲルも何と答えればいいのか迷っているのだろう、当たり障りのない内容で答えを濁した。

「……ほぅ。妹?」
「はい。元貴族という立場でありながら、文句の一つも言わず、慣れない仕事に取り組んでいる姿には感心しています。いつも一生懸命で……」

 ミゲルの言葉にリザは思わず感激して、彼の背中を食い入るように見つめた。
 そんなリザの仕草に、ヨハネスが顔を顰めたことにも気づかずに。

「でも妹ということは、彼女が誰と関係を持とうが、お前にとやかく言われる謂れはないということだな」
「…………そうですが、でも」
「でも?」

 ヨハネスに詰め寄られて、ミゲルが目を泳がせる。言うべきか言わないでおくべきか……彼の逡巡が伝わってきて、リザまで動揺してしまう。
 窓から差しこむ初夏の陽光は輝くばかりに明るいというのに。
 三人の間にどんよりと重苦しい沈黙が流れる。

「リ、リザが……」

 やがて、しばらく黙りこんでいたミゲルが、意を決したように口を開いた。

「辛い思いをするのを見たくないです。弄ばれて、捨てられて……それでも俺たち使用人は黙って泣くことしかできません。俺は……リザが泣くのを見たくないんです」
「……私がリザを泣かすというのか?」
「それは……」

 主人の率直な質問に、ミゲルが言い淀む。だけど、否定できないことがすでに答えだ。少なくとも、ヨハネスはそう受け取ったらしい。

「わかった。ミゲル、もう行け」
「え……?」
「はやくここから出て行け、と言っている」

 決して声を荒げたわけではない。ヨハネスの声はいつものように冷静だ。抑揚もほとんどない。……だからこそ怖かった。

「し、失礼します……っ」

 ミゲルの返事が震えた。
 動揺のためか、足取りが覚束ないものの、なんとかヨハネスに向かって一礼し、彼の傍らを通って部屋を出ていこうとした。

「ドアを閉めていけ」

 ヨハネスが背中越しに命じた。
 掃除中、空気の通りをよくするために入り口を開けっ放しにしていたのだった。

 ミゲルは指示に従ってドアを閉めた。完全に閉じてしまう寸前まで、リザに気づかわしげな視線を送りながら。

 ミゲルの足音が遠ざかるのを確認すると、ヨハネスはつかつかとドアまで歩み寄り、鍵をかけてしまう。
 部屋にはリザとヨハネス、二人きりだった。
 でも、リザにとってはその方が都合がいい。

「……どういうことですか?」
「何がだ?」

 固い口調で問いつめたリザを、ヨハネスはうっすらと笑みを浮かべながら見つめ返した。

「婚約って本当ですか。いえ、それよりも……何なんですか? ルードウォルフ家の御令嬢って」
「すまない、リザ。その話は本当だ。だからもう、君との関係は終わりだよ」

 動揺するリザを横目に、ヨハネスの笑みがどんどん深くなっていく。ミゲルが見たら驚くに違いない。だって、目の前のヨハネスは物凄く嬉しそうで……子供みたいに笑っている。

「悪い冗談はやめてください! だって、ルードウォルフ家なんて、そんな……」

 リザの脳裏に子供時代の記憶が浮かぶ。
 仲の良い家族と使用人に囲まれた幸福な日々。
 黄金色の小麦が実る自慢の故郷。
 優しくて賢い家庭教師のお兄さん……。

 ――すべて失われたものだった。

「ルードウォルフ家なんて、もう無いじゃありませんか……!」


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