月と秘密とプールサイド

スケキヨ

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約束

約束(1)

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*****

 窓際の棚に置かれた試験管が、ゆるやかに差し込む午後の光を反射してきらめいた。
 まぶしい。
 ひな子は軽く目を細めてから、空いている席に腰かけた。
 放課後の化学室には彼女を含め数人の生徒が集まっている。補習に呼ばれた生徒たちだ。

「はいはいはい、みんな揃ったかな?」

 重そうな身体を引きずるようにして教壇に立ったのは、須藤すどう先生だ。

「あれ~? 今日は火神かがみ先生じゃないんですか~?」

 ひな子の斜め後ろに座っていた女子生徒が不満げな声を上げる。

「ハハハ、悪かったねぇ、火神くんじゃなくて。彼もいろいろ忙しいから、今日は私で我慢してくださいな」

 須藤は女子生徒の失礼な発言に気を悪くする素ぶりも見せず、人の良さそうな笑顔を浮かべて大らかに笑った。寒々とした化学室の空気が和らいだところで補習が始まる。
 ひな子は須藤の授業に耳を傾けながらも、頭の中で火神の顔を思い浮かべた。

 最近、火神の態度がおかしい。
 今日の補習だって、元々は火神先生が担当する予定だったのだ。それが突然、須藤先生に交代になった。そもそも補習対象となる点数のラインが上がったせいで、補習を受ける生徒が増えた。
 まるで、ひな子とふたりきりになるのを避けているみたいだ。
 ひな子は寂しかった。
 火神が触ってくれないことが、寂しい。火神に触れないことが……寂しい。
 そんな風に思ってしまう自分が不思議で仕方ないけれど、このモヤモヤとした感情に名前を付けるとするならば、それしか思いつかなかった。「寂しい」しか、当てはまらない。

 元々ひな子は火神になど興味はなかった。
 他の女子たちが騒いでいても、ひな子にとってはただの「化学の先生」に過ぎなかったのだ。

 ――あの夏のプールサイドで「見つかる」までは……。

 火神だけじゃない……龍一郎りゅういちろうもひな子のことを避けている。
 あの雨の日から二週間。
 龍一郎とは口もきいていないし、目を合わすことすらない。
 あの日から何かが変わってしまった。
 変わってしまったのに……ひな子だけが、あの雨の日に置き去りにされてしまったみたいだった。
 ひな子は先週、十八歳になった。
 今年は龍一郎から何も貰っていない。お祝いの言葉すらなかった。
 火神はひな子の誕生日など知りもしないだろう。

 ――寂しい。

 ひな子は頬杖をついて、窓の外を見つめた。
 四角く切り取られた風景の半分を黄色い銀杏いちょうの葉が占めている。時折、気まぐれに吹きすさぶ秋風が木を揺らし、そのたびに力尽きた葉がハラハラと枝から振り落とされて、青い空へと吸い込まれていく。

 ひな子の知らないあいだに、季節は進もうとしている。





*****

 補習を終えたひな子が、トボトボと廊下を歩いていると、

さむっ……」

 古びた校舎の隙間から吹き込んだ風が肌を刺した。ブラウスの上に羽織っているカーディガンのボタンを全部留めてみたけれど、肌寒さはなくならない。

「そろそろブレザーも着てこないとな……」

 窓の外でヒラヒラと舞う銀杏の葉っぱを見やりながら呟いた。
 自分の足下に目を落としながら、ひとり、廊下を進んでいくと――前方からにぎやかな女子の集団とすれ違う。

 集団の真ん中に、火神がいた。

 女子生徒たちに囲まれて、いつもの白衣を翻して颯爽と歩く火神先生が……。その顔はやっぱり綺麗だったけど、相変わらずのポーカーフェイスで、何を考えているのかは全くわからない。
 ひな子は思わず火神の顔を見つめた。
 前にもこんなことがあったな、と思う。
 あの時は、火神に自分の存在を気づかれるのが恐かった。なのに、その場から動けなかった。
 今は……気づいてほしいような、ほしくないような……自分でもどちらを望んでいるのかわからないのに、それでもやっぱり彼から目が離せなかった。

 ひな子の視線に気づいたのか、彼の視線がふいにひな子に向けられた。
 ふたりの視線が絡む。

「ぁ……」

 何か言いかけたように、火神の唇が薄く開く。
 しかしそれも一瞬のうちに閉じられ、ひな子の視線を避けるように、火神が目を逸らした。

「ねぇねぇ火神先生。真山先生と付き合ってるって、ホントですかぁ?」

 聞こえてきた会話に、ひな子の顔がこわばる。

「ノーコメント」

 やいやいと群がる女子生徒たちを、火神は涼しい顔で軽くあしらう。

「否定しないってことは、やっぱり付き合ってるんだ!?」
「えぇ~、ウソぉ!?」
「ふたりでご飯食べてるのを見た、って子がいたらしいよ」

 女子たちがヒソヒソと噂し合った。
 聞きたくもないのに、耳が勝手に彼女たちの会話を拾ってしまう。少し前のひな子なら何とも思わなかったはずなのに。今は彼女たちのウワサ話が気になって仕方ない。

「……先生っ!」

 自分でも無意識のうちに、ひな子は火神を呼び止めていた。

「……どうした? 羽澄はすみ

 ゆっくりと顔を上げた火神が、抑揚のない声で応える。

「あ、あの……私、今度こそ、八十点取ります」
「ん?」

 脈絡のないひな子の発言に、火神が目をしばたかせる。

「……やくそく……」

 見切り発車で始まった会話に自分でも戸惑いながら、ひな子は火神を引きとめるために、なんとか言葉をひねり出す。

「約束……しましたよね? 八十点取ったら……返してくれる、って」
「あぁー……」

 火神はバツが悪そうに頭に手をやりながら上を向いた。
 彼を取り囲む女子たちが、不審そうにふたりのやり取りを見つめている。

「悪い。アレは……すぐ返すから」

 生徒の手前、「何を」返すかは口にできず、火神は言葉を濁した。まさか戯れに奪ったブラジャーのことだとは、彼女たちには思いもよらないだろう。

「いえ、待っててください。私が点数をクリアするまで」
「いや、でも……」
「約束です」

 ひな子は何か言いかけた火神をさえぎって、彼の前に右手の小指を差し出した。

「……約束、です」

 もう一度、同じ言葉を告げたひな子に、火神が困ったような顔を浮かべる。火神はどうしようか迷いつつ、ひな子の小指に自分のそれを絡ませた。

「何やってんの、あの子?」

 女子たちの声にも気づかないフリをして、ひな子はただひたすら火神の顔を見つめた。火神の指と触れ合っている小指の先が、ぴりぴりと痺れたように熱を帯びる。
 指の先だけじゃ足りないけど――。
 ひな子の潤んだ視線から逃げ出すように、火神が手を離して立ち去っていく。少しくたびれた白衣の背中を見つめながら、ひな子はさっきまで火神が触れていた右の小指をそっと口に含んだ。


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