月と秘密とプールサイド

スケキヨ

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待ちぶせ

待ちぶせ(1)

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*****

「ひな、最近アレ付けてないね?」

 昼休み、弁当を食べ終わった果穂かほが頬杖をついてそう言いながら、ひな子の首元に視線を向ける。

「アレ、って?」

 ひな子は眉を寄せながら首をかしげた。果穂が何のことを言っているのか、本気でわからない。

「アレだよ、アレ。水島みずしまくんに貰ったっていうネックレス!」
「あ……」

 果穂に指摘されて、ひな子は思わず自分の首もとに手をあてた。
 たしかに、最近付けていない。去年の誕生日に龍一郎りゅういちろうから貰ったクローバーのネックレス。
 あの雨の日からだろうか……。
 今までは一日だって外したことなんてなかったのに。果穂に指摘されるまで気づかなかったことに、ひな子は自分でも驚いた。

「なになに? 何かあったの、あんたたち?」

 果穂はそう言うと、ずいっと首を伸ばしてひな子の顔を覗きこんでくる。

「ううん、何にもないよ。ちょっと……チェーンが外れちゃって」

 ひな子は小さく首を振りながら、果穂に向かって笑ってみせる。

「ふーん、そうなんだ。それ、お店に持っていったら直してくれるんじゃないかなぁ?」
「ん……ありがとう。今度行ってみるよ」

 ひな子のついた小さな嘘にも親身に応えてくれる果穂のやさしさが心苦しい。

 ――もしかしたら、もう……付けないかもしれない。

 ふと、そんな予感がして、ひな子の胸がきゅっと痛んだ。
 そんな胸の痛みに気づかないフリをして、ひな子は机の上に広げた化学の教科書に目を落とした。午後には化学の小テストがあるのだ。

「お。勉強熱心だねぇ~」
「当たり前でしょ、受験生なんだから。そろそろ本気でやらないと、ほんっとにヤバいんだから……」

 ひな子の気持ちを置き去りにして、季節はどんどんと進んでいく。気が付けば、すでに十一月も半ばを過ぎていて、受験も日に日に近づいてきていた。
 初めて火神かがみに触れられたあの夏の夜が……ずっと遠くに感じる。
 果穂には絶対に言えないけれど、ひな子が勉強に励む理由は受験のためだけじゃなかった。
 火神先生と「約束」したのだ。
 八十点を取る、と。

 ――何を期待してるんだろう……?

 八十点を取ったからといって、どうなるというのか。ブラジャーを返してもらって、それで終わり。
 それとも……。
 火神先生に、何を望んでいるのか。

 答えはわかっていたけれど、それを自覚するのが怖かった。
 ひな子が先生に望むもの、それは――とてもなものだったから。

「最低だ、私……」
「ん、何が最低なの?」

 果穂がきょとんとした丸い目で聞き返してきた。
 自分でも気づかないうちに、思っていたことを口にしてしまったらしい。

「ううん! 何でもない……」

 ひな子は慌てて作り笑いを浮かべると、大きく首を振った。
 いくら友達だからって、こんなこと言えるわけなかった。むしろ知られたくない。
 ひな子がそんなことを思っているうちに、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴って、果穂がいそいそと自分の席へと戻っていった。
 ガタガタと教室の扉が開いて、先生が入ってくる。

「はい、席について」

 教壇に立つのは火神だ。
 今日もすらっとした長身に白衣がよく映えている。だけど、どこか疲れているみたいだ。教室に入ってきてからずっと俯きがちな火神の様子を見て、ひな子は思った。いつもはパリッとした白衣にも少し皺が寄っていて、何だかくたびれている。

「じゃあ、小テストやります」

 火神は小さく溜め息を吐いてから、テスト用紙を配り始めた。
 ひな子は直前まで机の上に広げていた教科書をあわてて片付けた。気合いを入れるように、パチンと両手で自分の頬っぺたを叩く。
 ふと視線を感じて前方に目をやると、こちらを向く火神と目が合った。先に逸らしたのは火神の方で、ひな子はそんな火神のそっけない態度を恨めしく思いながら、彼のくたびれた白衣を見つめた。
 火神と指切りを交わした右手の小指が熱を帯びる。
 自分でもどうして突然あんなことを口にしてしまったのか……わからない。
 ほかの女子生徒に囲まれる火神先生の気を引きたかった? 自分を見てもらいたかった?

 ――バカみたいだ。

 ひな子は大きく息を吐いてから、白い答案用紙に向かった。 





*****

「うぅ~……ちょっと寒いな」

 灰色の雲が秋の空を覆っていた。太陽が隠れているせいで、実際の気温よりも寒く感じる。
 ひな子が自分の身体を抱え込むようにして腕をさすりながら帰宅すると、家の前にひとりの男が立っていた。
 紺色のブレザーにグレーのパンツ、普通の人よりひと回りは広いがっちりとした肩幅。
 龍一郎だった。

「あ……」

 ひな子に気づいた龍一郎が小さく声を上げる。
 龍一郎はどんな表情かおをしたらいいかわからない、といった風に頭に手を当てて下を向いた。
 龍一郎にそんな表情を向けられたのは初めてだった。ひな子が子供の頃から大好きだった龍一郎の笑顔……あの夏の青空みたいな笑顔はもう二度と見られないような気がして、なんだか泣きたくなった。
 ひな子はおずおずと前に進み出て、龍一郎との距離を詰めた。
 こうしてふたりきりで話すのは――あの雨の日以来だ。

「……今日、練習は?」

 ひな子はできるだけ、いつもの調子で尋ねた。
 でも、声が震えた。

「あぁ、今日は休み」

 龍一郎の声も震えていた。

「そう……」

 小さく相づちを打って、ひな子は俯いた。
 何か話題を……と思うのに、言葉が見つからなくて、気まずい沈黙に包まれる。

「……ひな子、この間は……ごめん」

 沈黙を破ったのは、龍一郎のほうだった。
 言いづらそうに口にした謝罪の言葉に、ひな子の胸が疼いた。あの日、龍一郎に噛み付かれた胸の先が、思い出したように、ズキリと傷む。

「ごめん、俺……」
「大丈夫! 気にしてないから。私のほうこそ……なんか、ごめん」

 ひな子は龍一郎の言葉を遮るように、声を張り上げた。
 なるべく普段通りの笑顔を浮かべて言ったつもりだった……けど、うまく笑えていたかどうかは、わからない。
 龍一郎の顔は見れなかった。
 わかっている。
 割れた破片を接着剤で無理やり繋ぎ合わせたところで、それはもう別のものだ。完全に元の形に戻すことはできない。

 ――ひな子ももう処女ではなかった。

 何も知らない無垢な少女に、今さら戻れるはずもないのだ。
 
「ねぇ。龍ちゃんは……どこまで、知ってるの?」

 龍一郎がハッとしたように息を呑む。

「私が……私が、あのひと、に…………」

 何かを言いかけたひな子の声に涙がまじって、最後まで言うことができない。

「ひな子……大丈夫か?」

 カタカタと震えるひな子の肩に龍一郎が手を添えようとした瞬間――

「やっ……!」

 ひな子は反射的に龍一郎の手を払いのけていた。

「あ、えと、あの、ごめん、龍ちゃん……でも、私、大丈夫、だから」

 自分でも自分がどうしてそんな態度を取ってしまったのかわからなくて、ひな子は譫言うわごとのように言葉をかさねた。全然、『大丈夫』ではなかった。

「ごめん……、ごめん…………」

 項垂うなだれた龍一郎が何度も『ごめん』を繰り返す。
 そんな龍一郎をひとりその場に残して、ひな子は家の中へと逃げ込んだ。

「龍ちゃん、ごめんなさい……許してあげられなくて……」

 玄関のドアに凭れかかりながら、ひな子は呟いた。
 その声は小さすぎて、ドアの向こうの龍一郎にはきっと聞こえていなかった。


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