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待ちぶせ
待ちぶせ(2)
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「働き方改革、って何だ? どこの国の話なんだ!?」
金曜日の夜、ようやく自宅へと帰り着いた火神が忌ま忌ましげに呟いた。
毎日毎日残業つづきで、疲れ果てていた。
大学時代の友人はやれ「残業規制」だ「有給取得の義務化」だなんだと騒いでるというのに……。
車を降り部屋へと向かう火神の口から何度となく大きな溜息が吐き出されては、夜の大気に溶けていく。
今日は水泳部の外部コーチを紹介された。
(脇田、だっけ)
火神は自分とそう変わらない長身の男を思い返した。
この学校の卒業生だというその男は、日本代表に選ばれたこともあるくらいの一流の水泳選手だったらしいが……もちろん火神はまったく知らなかった。そもそもオリンピックでメダルを取るような選手ですら火神はろくに知らないし、はっきり言って興味もない。
「こんなんで顧問なんかやっていいのか……?」
素朴な疑問が浮かんだが、これも仕事と言われれば黙って従うほかない。
それにしても、嫌な感じの男だった。値踏みするような粘ついた視線が不快で仕方なかった。
しかも――
「衣梨奈とは高校んときの同級生なんですよ」
「えりな?」
「真山衣梨奈です。この学校で英語の教師やってる……」
「……あぁ」
真山との親密さをやたらアピールされた気がするが、あの女の知り合いかと思うと、脇田という男への印象がさらに悪くなる。
「寒いな……」
火神は身体をさすりながら、月のない空を見上げた。
(そろそろ、コタツでも出すか)
そんなことを考えながら、火神はポケットに手を入れて足を速めた。
昼から何も食べていないけど、とにかく眠くてしょうがない。
もう寝てしまおう。何も考えずに。
そう思っていたのに――
「ずいぶん遅いんですね」
マンションの前に、真山がいた。
火神の姿をみとめた真山がニコリと笑いかけてくる。
「……真山センセイは、ゲンキですね」
嫌味以外の何物でもない台詞が火神の口からぽろっとこぼれた。
この女は何だかんだとうまく立ち回って、面倒な仕事が自分に振られないようにしている。そんな要領の良さを羨ましく感じると同時に、胸糞悪くてしょうがなかった。
「火神先生のお部屋、お邪魔してもいいですか?」
「……勘弁してくれ、って言ったら、大人しく帰ってくれるんですか?」
「あら、まさかこんな夜中に女性をひとりで帰そうなんて……そんな鬼畜なこと、火神先生はなさらないですよね?」
真山は笑いながら、スマホの画面を火神の前に出してみせる。画面に映っているのは――もちろん、火神とひな子のあの写真だ。
「よく撮れてますよね。せっかくだから、ネットにアップしちゃいましょうか?」
赤く彩られた唇を歪めて、真山が愉しそうに笑っている。
(……どっちが鬼畜だよ)
火神はもう何度目かわからない溜息をついてから、黙ってオートロックの扉を潜った。
当然のように、真山が後ろからついてくる。
「へぇ、意外に散らかってますね」
部屋に入った真山は室内をぐるりと見渡してから、遠慮のない感想を漏らした。
「……片付けてるヒマがないもんで」
(あんたと違ってな)
火神は心の中に浮かんだ嫌味を呑み込む。
真山は特に火神の許可を得ることもなく、部屋の中央に置かれたローテーブルの前に腰を下ろした。
火神は仕方なくふたり分のコーヒーを淹れると、テーブルの上に無造作に置いた。横坐りしている真山の黒いストッキングに包まれたふくらはぎが目に入る。
真山がゆったりとした動作でコーヒーに口をつけると、赤い口紅がべっとりとカップの縁に付着した。
「なぁ、なんで俺なんかにこだわるんだ?」
テーブルを挟んで真山と向かい合わせに座った火神が疲れたように口を開いた。同僚の教師には年齢・性別問わず敬語で話すようにしているが、自宅という気の緩みもあってか、ついついぞんざいな口調になってしまう。
「知ってるだろうけど、給料だって大したことないし、別に将来性もないぞ」
「そうですね」
真山が薄く微笑みながら相槌を打つ。
「遊びたいなら、同じ職場のヤツなんて止めとけ。めんどくさいだけだ」
「……そうですね。同僚ならまだしも、生徒ならもっと面倒ですもんね」
真山の返しに、火神は自分が墓穴を掘ったことを悟る。
苦虫を噛み潰したような顔になる火神を横目に、真山は化粧ポーチを取り出すとマイペースに口紅を塗り直した。鮮血みたいに赤く塗られた唇が、そこだけ別の生き物のようにヌラヌラと赤く息づいている。
火神はそれから目を逸らすように俯いてコーヒーに口をつけた。
「……なぁ、どうすれば気が済むんだ?」
コーヒーの黒い液面に目を落としたまま、火神がぼそっと呟いた。
「俺と羽澄のことを告発すれば気が済むのか?」
真山は微笑みを浮かべたまま、答えない。
「言いたかったら、言えばいい。別に俺はこの仕事を追われたって構わない。ただ……」
胡座をかいていた火神が両膝に手を置いて頭を下げた。
「ネットに流すのは勘弁してほしい。羽澄に傷が残るようなことはやめてくれないか……あんたにとっても教え子だろう?」
火神がひな子の名前を出した途端、真山の顔から笑みが消えた。
下を向いている火神はそのことに気づかない。
気づいたときには真山がすぐ横にいた。
先の尖った女の指がぬうっと伸びてきて、火神の頬をスリスリとなぞった。
「少し伸びてますね」
顎に手を滑らすと、伸びかけた髭の感触を楽しむかのようにジャリジャリと撫でる。
「綺麗な顔」
火神の顎を撫でながら、真山がウットリと目を細めた。
「まさか、顔が好き……とか、ぬかすんじゃないよな?」
火神が呆れたように鼻で嗤う。
「それもありますけど……」
悪びれもせず、真山は正面から火神の顔を覗きこんだ。
「今まで、私が本気になって落とせない男はいませんでした」
「……へぇ」
思わず薄ら笑いを浮かべた火神を、真山が力ずくで押し倒した。火神の胸に耳を当てて心臓の音に耳をすませながら、火神の右の乳首をワイシャツ越しにツンツンと刺激する。
「一発ヤレば気が済むのか?」
天井を見つめたまま、火神が呟いた。
「さあ?」
わざとらしく首を傾げてみせた真山が、火神のシャツのボタンをプチプチとひとつずつ外していく。全部外してしまうと、露わになった小さな乳首を口に含んだ。
「働き方改革、って何だ? どこの国の話なんだ!?」
金曜日の夜、ようやく自宅へと帰り着いた火神が忌ま忌ましげに呟いた。
毎日毎日残業つづきで、疲れ果てていた。
大学時代の友人はやれ「残業規制」だ「有給取得の義務化」だなんだと騒いでるというのに……。
車を降り部屋へと向かう火神の口から何度となく大きな溜息が吐き出されては、夜の大気に溶けていく。
今日は水泳部の外部コーチを紹介された。
(脇田、だっけ)
火神は自分とそう変わらない長身の男を思い返した。
この学校の卒業生だというその男は、日本代表に選ばれたこともあるくらいの一流の水泳選手だったらしいが……もちろん火神はまったく知らなかった。そもそもオリンピックでメダルを取るような選手ですら火神はろくに知らないし、はっきり言って興味もない。
「こんなんで顧問なんかやっていいのか……?」
素朴な疑問が浮かんだが、これも仕事と言われれば黙って従うほかない。
それにしても、嫌な感じの男だった。値踏みするような粘ついた視線が不快で仕方なかった。
しかも――
「衣梨奈とは高校んときの同級生なんですよ」
「えりな?」
「真山衣梨奈です。この学校で英語の教師やってる……」
「……あぁ」
真山との親密さをやたらアピールされた気がするが、あの女の知り合いかと思うと、脇田という男への印象がさらに悪くなる。
「寒いな……」
火神は身体をさすりながら、月のない空を見上げた。
(そろそろ、コタツでも出すか)
そんなことを考えながら、火神はポケットに手を入れて足を速めた。
昼から何も食べていないけど、とにかく眠くてしょうがない。
もう寝てしまおう。何も考えずに。
そう思っていたのに――
「ずいぶん遅いんですね」
マンションの前に、真山がいた。
火神の姿をみとめた真山がニコリと笑いかけてくる。
「……真山センセイは、ゲンキですね」
嫌味以外の何物でもない台詞が火神の口からぽろっとこぼれた。
この女は何だかんだとうまく立ち回って、面倒な仕事が自分に振られないようにしている。そんな要領の良さを羨ましく感じると同時に、胸糞悪くてしょうがなかった。
「火神先生のお部屋、お邪魔してもいいですか?」
「……勘弁してくれ、って言ったら、大人しく帰ってくれるんですか?」
「あら、まさかこんな夜中に女性をひとりで帰そうなんて……そんな鬼畜なこと、火神先生はなさらないですよね?」
真山は笑いながら、スマホの画面を火神の前に出してみせる。画面に映っているのは――もちろん、火神とひな子のあの写真だ。
「よく撮れてますよね。せっかくだから、ネットにアップしちゃいましょうか?」
赤く彩られた唇を歪めて、真山が愉しそうに笑っている。
(……どっちが鬼畜だよ)
火神はもう何度目かわからない溜息をついてから、黙ってオートロックの扉を潜った。
当然のように、真山が後ろからついてくる。
「へぇ、意外に散らかってますね」
部屋に入った真山は室内をぐるりと見渡してから、遠慮のない感想を漏らした。
「……片付けてるヒマがないもんで」
(あんたと違ってな)
火神は心の中に浮かんだ嫌味を呑み込む。
真山は特に火神の許可を得ることもなく、部屋の中央に置かれたローテーブルの前に腰を下ろした。
火神は仕方なくふたり分のコーヒーを淹れると、テーブルの上に無造作に置いた。横坐りしている真山の黒いストッキングに包まれたふくらはぎが目に入る。
真山がゆったりとした動作でコーヒーに口をつけると、赤い口紅がべっとりとカップの縁に付着した。
「なぁ、なんで俺なんかにこだわるんだ?」
テーブルを挟んで真山と向かい合わせに座った火神が疲れたように口を開いた。同僚の教師には年齢・性別問わず敬語で話すようにしているが、自宅という気の緩みもあってか、ついついぞんざいな口調になってしまう。
「知ってるだろうけど、給料だって大したことないし、別に将来性もないぞ」
「そうですね」
真山が薄く微笑みながら相槌を打つ。
「遊びたいなら、同じ職場のヤツなんて止めとけ。めんどくさいだけだ」
「……そうですね。同僚ならまだしも、生徒ならもっと面倒ですもんね」
真山の返しに、火神は自分が墓穴を掘ったことを悟る。
苦虫を噛み潰したような顔になる火神を横目に、真山は化粧ポーチを取り出すとマイペースに口紅を塗り直した。鮮血みたいに赤く塗られた唇が、そこだけ別の生き物のようにヌラヌラと赤く息づいている。
火神はそれから目を逸らすように俯いてコーヒーに口をつけた。
「……なぁ、どうすれば気が済むんだ?」
コーヒーの黒い液面に目を落としたまま、火神がぼそっと呟いた。
「俺と羽澄のことを告発すれば気が済むのか?」
真山は微笑みを浮かべたまま、答えない。
「言いたかったら、言えばいい。別に俺はこの仕事を追われたって構わない。ただ……」
胡座をかいていた火神が両膝に手を置いて頭を下げた。
「ネットに流すのは勘弁してほしい。羽澄に傷が残るようなことはやめてくれないか……あんたにとっても教え子だろう?」
火神がひな子の名前を出した途端、真山の顔から笑みが消えた。
下を向いている火神はそのことに気づかない。
気づいたときには真山がすぐ横にいた。
先の尖った女の指がぬうっと伸びてきて、火神の頬をスリスリとなぞった。
「少し伸びてますね」
顎に手を滑らすと、伸びかけた髭の感触を楽しむかのようにジャリジャリと撫でる。
「綺麗な顔」
火神の顎を撫でながら、真山がウットリと目を細めた。
「まさか、顔が好き……とか、ぬかすんじゃないよな?」
火神が呆れたように鼻で嗤う。
「それもありますけど……」
悪びれもせず、真山は正面から火神の顔を覗きこんだ。
「今まで、私が本気になって落とせない男はいませんでした」
「……へぇ」
思わず薄ら笑いを浮かべた火神を、真山が力ずくで押し倒した。火神の胸に耳を当てて心臓の音に耳をすませながら、火神の右の乳首をワイシャツ越しにツンツンと刺激する。
「一発ヤレば気が済むのか?」
天井を見つめたまま、火神が呟いた。
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