30 / 43
負けたことないから……
負けたことないから……(1)
しおりを挟む
*****
火神が化学室へと続く階段を上っていると、前を行く女子三人組の後ろ姿が目に入った。
(えーと……真ん中の髪の長い子が山本で、右側のボブが高木……だっけ? で、左のショートカットが……)
これから授業を行う二年C組の生徒だったはずだ。
火神は三人の名前を思い出しながら、彼女たちの後をついていく。
記憶力は悪い方ではないが、この春に就職してからというもの、同じ年頃で同じ制服を身にまとった生徒たちの区別がつかず、個々の名前がなかなか覚えられないでいた。
「でも、火神先生、カッコいいよね~」
「うんうん、うちの学校では貴重な二十代の先生だし」
「もう私なんて、授業中、火神先生の顔しか見てないもん」
自分の噂話など聞きたくもなかったが、女子高生たちの姦しい声は嫌でも耳につく。火神は足を止めると、彼女たちに気づかれないように階段の陰へと身を隠した。
「先生の顔しか見てないって……それは授業がつまんないからでしょ?」
「そう! そもそも何言ってるかわかんないんだよね~」
「なんかブツブツ言ってるだけで全然聞こえないし……お経かよっ!」
高木の言葉に、他のふたりがキャハハハ、と甲高い声をあげて笑う。
――そんな風に思われていたのか。
自分でも気づいてはいたが、はっきり言われるとさすがに堪える。
火神はうつむいて小さく息を吐いた。
「……正直だな、子供は」
正直で残酷。
しかもそれほど悪意があるわけでもない。だからこそタチが悪い。
「やってけんのか、俺……」
これから先何十年も、この厄介な生き物たちの相手をしないといけないのかと思うと、火神の心は重くなった。
教師という仕事がしっくりこない。
サービス残業に、モンスターペアレント。
今どき教師なんてブラックな仕事に就こうなんて物好きは、よっぽど教育に対して熱い志を持った奴が多いものだが……火神の場合は違う。
生活のため、そして少しでも学生時代の専攻を活かして化学に関わっていたかったから……それ以上でも以下でもなかった。
だから生徒に期待なんかしない。信用もしない。
そうすれば失望させられることもないのだから。
火神がこの学校に新任教師として赴任してきてから、三か月が経っていた。
自分でも異性にウケる顔だという自覚はあったが、やたら纏わりついてくる女子たちには早くも辟易していた。
ただ、そうやって懐いてくる生徒たちが、自分を「教師」として見ていないであろうことも、うすうす感じてはいる。
――自分はまだ認められていない。
新人だから当たり前といえば当たり前だが、今までどこへ行ってもそれなりにソツなくマイペースにこなしてきた火神にとっては想像以上にきつかった。
*****
「あっついなぁ」
吐き出した白い煙が木立の隙間へと吸い込まれていくのをぼんやりと見つめながら、火神はぼやいた。
煙草の量が増えている。健康と節約のために止めていたはずなのに。
ストレスが原因だということはわかっていたが止められなかった。
校内はもちろん禁煙だったので、吸いたいときは、校庭の端にある屋外プールの裏まで足を運ぶ。
近くには更衣室があったが、運動部の連中はそれぞれの部室を使うため、放課後になるとこの辺りに立ち入る生徒もほとんどいない。
そこにはなぜか木製の古いベンチとテーブルが置いてあり、昔は生徒たちの憩いの場として賑わっていたのかもしれなかった。もっともここ数年は人が寄り付いた気配もなく、火神が初めてこの場所を見つけたときには乾いた泥と枯れ葉がこびりついていたのだが。
すぐ側には学校の敷地と外の世界を隔てるフェンスが設置されていた。
その向こうには鬱蒼とした雑木林が広がっている。フェンスを跨いで伸びた枝が陰を作り、この場所の気温を少しだけ下げてくれていた。
「それでも暑いけどな」
本格的な夏はまだ少し先だというのに、すでに蒸し暑い日がつづいている。
火神はテーブルの上に置いた携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し付けると、重い腰を上げた。
今日のテストの採点、明日の授業の準備、その他もろもろの事務作業……やらなければならないことは山ほど残っている。
火神が校舎に向かって踵を返すと、
「ひぃ……っく、んぐ……く、そ……っ」
泣き声?
火神は嗚咽の主を捜して、プールの方へと足を向けた。
「そういえば、もう屋外プールも解放されたんだな。先週からだっけ……?」
朝のミーティングで体育担当の教師が言っていたことを思い出す。
自分にはまったく関係ない報告だったため、すっかり忘れていた。
この学校の水泳部は結構強くて、屋内プールも完備されているが、夏場には屋外プールも使われる。スポーツ推薦で入ってくる生徒なんかもいて、インターハイへ出場することも珍しくない。
水泳部の誰かか?
プールの四方を順番に回っていくと、二つ目の角を曲がったところで、それらしき人影が目に入った。火神は気づかれないように息をひそめて、耳をそばだてる。
「くそっ……なんで、俺……負けた、んだ……よ」
「りゅうちゃん……」
ふたり分の声が生温かい風に運ばれて、火神の耳にまで届いた。遠目に様子をうかがうと、水着姿の男子と制服姿の女子がプールの外壁にもたれるようにして、しゃがみこんでいる。
泣いているのは男の方か……?
火神が化学室へと続く階段を上っていると、前を行く女子三人組の後ろ姿が目に入った。
(えーと……真ん中の髪の長い子が山本で、右側のボブが高木……だっけ? で、左のショートカットが……)
これから授業を行う二年C組の生徒だったはずだ。
火神は三人の名前を思い出しながら、彼女たちの後をついていく。
記憶力は悪い方ではないが、この春に就職してからというもの、同じ年頃で同じ制服を身にまとった生徒たちの区別がつかず、個々の名前がなかなか覚えられないでいた。
「でも、火神先生、カッコいいよね~」
「うんうん、うちの学校では貴重な二十代の先生だし」
「もう私なんて、授業中、火神先生の顔しか見てないもん」
自分の噂話など聞きたくもなかったが、女子高生たちの姦しい声は嫌でも耳につく。火神は足を止めると、彼女たちに気づかれないように階段の陰へと身を隠した。
「先生の顔しか見てないって……それは授業がつまんないからでしょ?」
「そう! そもそも何言ってるかわかんないんだよね~」
「なんかブツブツ言ってるだけで全然聞こえないし……お経かよっ!」
高木の言葉に、他のふたりがキャハハハ、と甲高い声をあげて笑う。
――そんな風に思われていたのか。
自分でも気づいてはいたが、はっきり言われるとさすがに堪える。
火神はうつむいて小さく息を吐いた。
「……正直だな、子供は」
正直で残酷。
しかもそれほど悪意があるわけでもない。だからこそタチが悪い。
「やってけんのか、俺……」
これから先何十年も、この厄介な生き物たちの相手をしないといけないのかと思うと、火神の心は重くなった。
教師という仕事がしっくりこない。
サービス残業に、モンスターペアレント。
今どき教師なんてブラックな仕事に就こうなんて物好きは、よっぽど教育に対して熱い志を持った奴が多いものだが……火神の場合は違う。
生活のため、そして少しでも学生時代の専攻を活かして化学に関わっていたかったから……それ以上でも以下でもなかった。
だから生徒に期待なんかしない。信用もしない。
そうすれば失望させられることもないのだから。
火神がこの学校に新任教師として赴任してきてから、三か月が経っていた。
自分でも異性にウケる顔だという自覚はあったが、やたら纏わりついてくる女子たちには早くも辟易していた。
ただ、そうやって懐いてくる生徒たちが、自分を「教師」として見ていないであろうことも、うすうす感じてはいる。
――自分はまだ認められていない。
新人だから当たり前といえば当たり前だが、今までどこへ行ってもそれなりにソツなくマイペースにこなしてきた火神にとっては想像以上にきつかった。
*****
「あっついなぁ」
吐き出した白い煙が木立の隙間へと吸い込まれていくのをぼんやりと見つめながら、火神はぼやいた。
煙草の量が増えている。健康と節約のために止めていたはずなのに。
ストレスが原因だということはわかっていたが止められなかった。
校内はもちろん禁煙だったので、吸いたいときは、校庭の端にある屋外プールの裏まで足を運ぶ。
近くには更衣室があったが、運動部の連中はそれぞれの部室を使うため、放課後になるとこの辺りに立ち入る生徒もほとんどいない。
そこにはなぜか木製の古いベンチとテーブルが置いてあり、昔は生徒たちの憩いの場として賑わっていたのかもしれなかった。もっともここ数年は人が寄り付いた気配もなく、火神が初めてこの場所を見つけたときには乾いた泥と枯れ葉がこびりついていたのだが。
すぐ側には学校の敷地と外の世界を隔てるフェンスが設置されていた。
その向こうには鬱蒼とした雑木林が広がっている。フェンスを跨いで伸びた枝が陰を作り、この場所の気温を少しだけ下げてくれていた。
「それでも暑いけどな」
本格的な夏はまだ少し先だというのに、すでに蒸し暑い日がつづいている。
火神はテーブルの上に置いた携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し付けると、重い腰を上げた。
今日のテストの採点、明日の授業の準備、その他もろもろの事務作業……やらなければならないことは山ほど残っている。
火神が校舎に向かって踵を返すと、
「ひぃ……っく、んぐ……く、そ……っ」
泣き声?
火神は嗚咽の主を捜して、プールの方へと足を向けた。
「そういえば、もう屋外プールも解放されたんだな。先週からだっけ……?」
朝のミーティングで体育担当の教師が言っていたことを思い出す。
自分にはまったく関係ない報告だったため、すっかり忘れていた。
この学校の水泳部は結構強くて、屋内プールも完備されているが、夏場には屋外プールも使われる。スポーツ推薦で入ってくる生徒なんかもいて、インターハイへ出場することも珍しくない。
水泳部の誰かか?
プールの四方を順番に回っていくと、二つ目の角を曲がったところで、それらしき人影が目に入った。火神は気づかれないように息をひそめて、耳をそばだてる。
「くそっ……なんで、俺……負けた、んだ……よ」
「りゅうちゃん……」
ふたり分の声が生温かい風に運ばれて、火神の耳にまで届いた。遠目に様子をうかがうと、水着姿の男子と制服姿の女子がプールの外壁にもたれるようにして、しゃがみこんでいる。
泣いているのは男の方か……?
0
あなたにおすすめの小説
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛
ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎
潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。
大学卒業後、海外に留学した。
過去の恋愛にトラウマを抱えていた。
そんな時、気になる女性社員と巡り会う。
八神あやか
村藤コーポレーション社員の四十歳。
過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。
恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。
そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に......
八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。
訳あり冷徹社長はただの優男でした
あさの紅茶
恋愛
独身喪女の私に、突然お姉ちゃんが子供(2歳)を押し付けてきた
いや、待て
育児放棄にも程があるでしょう
音信不通の姉
泣き出す子供
父親は誰だよ
怒り心頭の中、なしくずし的に子育てをすることになった私、橋本美咲(23歳)
これはもう、人生詰んだと思った
**********
この作品は他のサイトにも掲載しています
俺に抱かれる覚悟をしろ〜俺様御曹司の溺愛
ラヴ KAZU
恋愛
みゆは付き合う度に騙されて男性不信になり
もう絶対に男性の言葉は信じないと決心した。
そんなある日会社の休憩室で一人の男性と出会う
これが桂木廉也との出会いである。
廉也はみゆに信じられない程の愛情を注ぐ。
みゆは一瞬にして廉也と恋に落ちたが同じ過ちを犯してはいけないと廉也と距離を取ろうとする。
以前愛した御曹司龍司との別れ、それは会社役員に結婚を反対された為だった。
二人の恋の行方は……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる