執事の嗜み

桃瀬わさび

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番外編

分身3 〚マティアス〛

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 目覚めたらケヴィンはいなかった。
 枕元には、黒い手紙と、よく冷えた水。既視感を感じさせるそれらに小さく笑って、乾いた喉に水を流し込む。
 ひりつく喉は、昨晩酷使しすぎたせいだろう。……今までも激しいと思っていたが、随分手加減されていたのだとわかった。

「マティアス様。お食事の用意ができております。」
「一刻後にここに運んでくれ。軽いものだけでいい。」

 外から声を掛けてきたのは、不遜な男ではなく、老執事。
 ということは、奴はもうヴィルの元へ戻ったのだろう。昨日聞いたばかりだと言うのに、急な男だ。

 ふぅと嘆息して、怠い手を伸ばして手紙を手に取った。
 開くとあの不思議な香りがして、見慣れた流麗な文字が綴られている。

『いつもそばにおります。 ケヴィン』

 それだけか!
 そう思いながら、そっとその文字を撫でた。
 はじめて、Kではなくケヴィンと書かれた署名。
 短い文を何度も読み返し、ころりと寝台に寝転がる。


「………ばか。うそつき。」

 そう零して、けれど楽しくてくすくすと笑った。
 嘘つきなんて表現では、生易しすぎる。
 残忍で、冷酷で、眉一つ動かさず数多の人を屠る裏社会の王。
 この世の闇を集めたような、黒い髪。黒い瞳。
 顔には一切の傷はないが、その身体には数多もの傷が刻まれていた。
 灼かれたもの、斬られたもの、つぎはぎのような跡まで、いったいいくつあるのか。けれどすべて古傷で、真新しいものはひとつもない。あれほどたくさんを相手にしていたというのに、ほとんど無傷だなんて、手練の一言では言い尽くせない。



 あんなのの手に堕ちるなんて、本当に信じられない。

 忘れられないように?…………忘れることなんて、できるはずない。
 顔も名前も知らず、最初に襲われたあのときから、忘れられたことなんて一度だってないのに。

 もう一度ケヴィンの文字をなぞって、窓の外を眺めた。
 よく晴れた空を切り取る窓のそばに昨日の鴉がとまっている。

「おいで」

 手を差し出せば、言葉がわかっているかのようにばさりと飛んできた。
 寝台の枠にとまって、鋭いくちばしで優しく掌をつついてくる。
 濡れたように光る黒い羽に触れても、大人しくされるがまま。分身などと言っていたが、あの不遜な男とは大違いだ。

「シュヴァルツと呼ぼうか。異国の言葉で黒という。……あの男とよく似た、綺麗な黒だ。」

 硬い嘴を撫でれば、かぷりと優しく指が噛まれた。
 鴉をかわいいと思ったことなどなかったが、随分と可愛らしい。くすくすと笑って頭を撫でると、気持ちよさそうに僅かに目を細める。
 人間くさいその表情にくすくすと笑って、美しい翼にキスを落とした。


 日が暮れて、世界が闇に満ちるころ、またあの男に会える。
 また会う方法を聞いたころと比べれば、随分恵まれているではないか。

 もう一度だけ短い文に目を通し、振り切るようにそれを畳んだ。

 不思議な香りが、ふわりと鼻をくすぐった。






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