透明な回想録 ~Transparent reminiscences~

スーパーアドシスO

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目覚めは唐突に

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澄んだ泉のほとりを散歩する夢。
夢が告げる異変から、重い瞼をこじ開け現実へと這い出る。

「どうしたものか……」


唐突に深い眠りから引きずり出された、その理由に悩んでいた。
眠りを妨げる不快極まりない犯人の正体には覚えがある。


……尿意だ。


窓の外は黒で塗りつぶされた装いから、青白い光彩が僅かに指し朝の色に染められていこうとしている。
夜明け前といったところだろうか、かろうじて周囲の様子は視認可能だ。

昨日一度もトイレに行かなかった自分を呪うしかない。
そもそもトイレというものが存在するのだろうか?

中世ヨーロッパでは溜めた糞尿を窓から投げていたと聞いた事がある。

しかしここは中世のそれと異なり、それなりに文明が進化しているようだし独自の文化があると見て間違いないだろう。


選択肢はいくつかある。


まず、このクソ広い建物のどこかに存在するであろうトイレと思しきものを探すこと。
次に、とりあえず屋外まで出て、人知れず放尿する。

……三つ目は、窓から外へ向けて放尿。

そして最後の手段は、尿意を我慢することだ。
朝になり、セリカが起こしにくるであろうその時まで。


絶望的に方向音痴な俺がこの部屋から出てトイレを探したとして、間に合わずにお漏らし状態でさまようところを誰かに発見される場面しか浮かばない。
どうにか外に出れたとして、間違いなく元来た道を引き返せる自信は無い。

つまり、一つ目と二つ目の方法は避けたほうが無難と言える。

窓から放尿は最終手段と言えるだろう、道に迷うことも避けつつ尿意からも解放され魅力的な方法に一見思える。
限りなく無に等しいと思われるが、万が一目撃されるという危険性は残るのが難点か。

無駄な思考を繰り返しているうちに、セリカを起こして聞くのが一番手っ取り早いんじゃないか、という結論に辿り着く。
しかし彼女の安眠を妨害するのはどうにもはばかられる。
……机で彼女を寝させてしまった責任は俺にあるのだから。

昔から困った時は現状維持というのが俺の信条である。

ここからは、脳より送られた信号で収縮を繰り返す排尿筋と、それを阻害する内尿道括約筋の戦いだ。

高速道路で渋滞に巻き込まれてSAまで先が見えない地獄を味わうのに比べれば、朝までという期限が設けられている今回の方がずっとイージーモードなはずだ。

もっとも、セリカがいつ起こしに来るのかは不明なのだが……。

何故、尿意を我慢する時に限って水辺を連想してしまうのだろうか。
寝転がったまま色々な体勢をとってみたがどれもいまいち効果は感じられなかった。
特にうつ伏せはダメだ、圧迫されて抑えていた堰が決壊するかと思った。

セリカが高齢者並みに早起きであることを祈りつつ、俺はベッドから立ち上がった。
全身に感じる重力のおかげか、尿路の向きが変わったのか、それはわからないが若干気が紛れたようだ。


目覚めた初日は命の危機に遭遇して、二日目は尊厳の危機を迎えることになるとは……。

気を紛らわせるために窓の外に目をやった。
そして、……俺は驚愕の事実に気付いてしまうのである。

「……はめ殺しじゃねぇかっ!」

思わず声が出た。
そう、窓は破壊する以外の手段では永遠に開くことのない構造だった。
もしやと思って開閉出来る方法を探ってみたが、押しても引いても殴ってもビクともしなかった。

窓の外への放尿という希望が断たれた瞬間である。


明け方だというのにまだ星達は自らの位置を主張するかのように煌々と輝いていた。
俺は星の数を数える作業を始めた。


……2271。

……2272。

……2273。

肉眼で見える星を数え続けていたが全く終わる気配が無い。

……そろそろタイムアップか。

空が白み始めて、しょぼしょぼする眼で星の明かりが捉えきれなくなった。
高齢者が散歩から帰宅して、朝飯前に朝刊を読んでいるくらいの時間だろうか。
下半身に力を入れ続けたせいか足がプルプルする。


……ギィ。


ただひたすらに静寂に包まれていた空間に軋む音が響く。
星を数えるという無意味な作業を中断せざるを得なくなり、その代わりの壁沿いにカニ歩きを続けるという奇行を繰り返していた俺の耳に小さくその音が届いた。

しめた、ついに起きてくれたか!

再度軋む音と金属同士が触れ合う音が響く、扉の開閉音だろう。
微かな足音が近づいてきて、扉の前で止まる。

あぁ、助かった……。

安堵のせいで下半身の力が緩み少しちびりそうになる。
後はノックされるのを待ち、何事も無く爽やかに朝の挨拶を交わし楽園へ導いてもらえばミッションコンプリートだ。

陶器製で花模様の入ったレバー状の取っ手が90度下がった。
もちろん取っ手は外からの動きと連動している。
その動きが意味するところ、それは中に入るべく開けようと押し下げられたという事だ。

待て、ノックが来ない……?

セリカの律儀な性格を考えると、当然扉が叩かれるのだろうと予測していた俺は違和感を覚えた。

まさか、彼女ではないのか?

昨日の件も有り、侵入者という可能性が頭をよぎり身構える。
まぁ、身構えたところで無力なわけだが。

扉を隔てた相手の正体が侵入者であったとして、俺の持ちうる対抗策は下半身を丸出しにして放尿するぐらいしかない。

少しずつ扉が開かれ、その先に居る者の影が露わになっていく。
長く黒い髪が扉の隙間から垂れ下がっている。

……どう見てもホラーなその光景に全身がゾワっとする。

艶やかな光沢を放つその髪の持ち主に直ぐに見当がつき、小水を放つことを免れた。


少し間を置いて、中を覗き込むように金色の双眸が姿を見せる。
目尻の上がった澄んだ大きな瞳が、ベッドと壁沿いの俺とを何往復かする。
そして、うるうると潤んだ瞳が揺れる。

「なっ、な、なんで、起きてるんですかぁっ!」

隣の部屋の扉が開閉した音が聞こえた後に、俺の部屋の扉が開かれたので当たり前と言えばそうなのだが、扉の向こうに居るのはセリカだった。

正体が侵入者でも幽霊でも無かったのだが、次の瞬間に俺の意思に反し括約筋が緩む。


太腿に暖かいものが少しだけ伝う感触。

水を並々と注ぎ表面張力でギリギリ耐えている状態のグラスを傾けるかの如く、溢れ出た液体。


「……、おい、なぜ下着姿な……」

俺が言い終わるより先に勢いよく扉が閉められ、バタバタと走り去っていくセリカ。


神よ、ここまで耐えた小さき者に救いは無かったのですか?
何故、このような理不尽な仕打ちをなさるのですか?

……神というか猫だったが。

セラへの罪悪感を感じつつも少し溢れてしまった液体を衣服で拭う。


「おはようございます、ご主人さま」

少々間を置いて、衣服を纏ったセリカが何事も無かったかのように笑顔で部屋に戻ってきた。
張り付けたような不自然な笑顔が彼女の動揺を物語る。

「あぁ、おはよう。 で、さっきの件だが……」


「ご、ご主人さま、今日はずいぶんと早起きなんですね。 そんなにお出かけが楽しみだったんですか?」

くっ、あからさまに会話を被せてくるぞ。
だが、俺は真理の追及を諦めない。

「あぁ、で、さっきの件だが……」

無かったことにしたい様子がありありと見て取れたが、俺は追撃を繰り返した。
さぁ、観念して吐け。

「あっ、あれは出来心というか、魔が差したというか、……ごめんなさいっ」

バツが悪そうに視線を彷徨わせるセリカ。

「そうか、出来心で下着姿になる性分なのか?」

「そ、その、びっくりして直ぐ起きるかなぁ、と思いましてっ」

おい、本当に起こす目的で此処に訪れたのか?
耳まで真っ赤にして俯く彼女がとても愛らしく感じられ、俺はそれ以上の追求を諦める。
それよりも、今は一分一秒を争う深刻極まりない事態なのだ。


「事情はわかった、……ところで、トイレはどこにある?」



少しばかり手遅れである感は否めないが、俺は無事に楽園への切符を手にすることに成功した。
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