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第3章:山の恵みは規格外編
第59話 地下に流れるもの
王都の空気は、日に日に重くなっていた。
黒花による患者は再び増え続け、教会の浄化も追いついていない。
以前なら軽症で済んでいた者が、数日で寝込むようになり、通常の石鹸だけでは進行を抑えることすら難しくなっていた。
街中へ漂う淀みは、もはや一般人ですら感じ取れるほど濃くなっている。
黒花。
本来は王都を守る為に植えられた植物。
それが今では、人を蝕む災厄へ変わり果てていた。
◇
山から戻った後。
エリオは研究室へ運び込まれた木樽を前に、深く息を吐いた。
マジックボックスから取り出された樽は、研究室の壁際へ順に並べられている。
量の確認と、状態を調べるためだ。
蓋を閉じているにも関わらず、それらからは清浄な気配が漂っていた。
近くにいるだけで、王都の重苦しさが薄れていくのが分かった。
「……改めて見ると、とんでもないですね」
ルークが静かに呟く。
「ああ」
エリオは頭を掻いた。
山では勢いで持ち帰ってきたが、冷静になればなるほど異常だ。
教会の特級聖水など比較にならない。
こんなものを大量に流通させれば、間違いなく騒ぎになる。
「直接患者へ配るには量が足りません」
「だろうな」
「ですが、この濃度なら少量でも広範囲へ影響を与えられる可能性があります」
ルークは木樽へ視線を向けた。
「問題は、“どう使うか”ですね」
エリオは小さく息を吐いた。
こんなものを使い始めれば、確実に誰かが出所を探り始める。
そして辿り着く先は――あの山だ。
顔を上げると、ルークと視線がぶつかった。彼もまた、同じ懸念に行き着いたらしい。
「……こんなことを相談すれば、怪しまれるでしょうね」
ルークは苦笑混じりに呟いた。
「だな」
エリオは否定しなかった。
「ルシアン様なら、まず間違いなく気付かれます」
「だよなぁ……」
エリオは机に額をくっつけたまましばらく考えこんだ。
あの人は鋭い。
曖昧な誤魔化しなど、そう長く通用しないだろう。
それでも。
街へ満ち始めた淀みを思い出す。
教会へ運ばれていく患者たち。
悪化していく黒花。
このまま何もしなければ、もっと被害は広がる。
「……放置も出来ないんだよな」
エリオはゆっくり目を閉じた。
セラは守りたい。
けれど、街も救わなければならない。
その両方を選ぶには、自分一人では限界があった。
しばらく黙り込んだ後、エリオは静かに顔を上げる。
「ルシアン様のところへ行こう」
◇
ルシアンの執務室前で、エリオは案内役のメイドが離れていくのを待った。
重厚な扉が静かに閉まり、室内へ静寂が落ちる。
「やぁ、エリオ殿」
執務机へ腰掛けたまま、ルシアンが視線を上げた。
その声を確認してから、エリオは小さく息を吐く。
「これは例えなのですが……もし、強力な聖水が大量に手に入ったとしたら、どう使えば効率良く利用できるでしょうか。可能なら、あまり目立たないように……」
そこまで言ってから、エリオは口を閉ざした。
勢いで来たものの、いざ説明しようとすると、自分でも驚くほど言葉がまとまらない。
これでは怪しんでくれと言っているようなものだ。
案の定、ルシアンが僅かに目を見開いた。
「随分例えにしては……具体的な相談だね」
「……仮定の話です」
「きみの“仮定”は、興味深い」
穏やかな口調だった。
だが、その視線はしっかりエリオを観察している。
エリオは小さく肩を竦めた。
「黒花対策に使うなら、どこで利用するのが一番効率的かと思いまして」
ルシアンは少し考え込み、やがて机上の地図へ視線を落とした。
「黒花は、本来浄化機能を持つ植物だっただろう」
「……今の状態を見ると、とてもそうは思えませんね」
「そうだな」
ルシアンは古い資料を取り出し、静かにページをめくる。
「王都地下には地脈が流れている。そして黒花は、その地脈へ溜まる瘴気を吸い上げる為に植えられた」
「瘴気を吸う植物、ですか」
「ただ吸収するだけではない。地下浄化路を通し、さらに聖水で中和することで、王都全体の均衡を保っていたそうだ」
ルシアンの指先が、地図へ描かれた地下水路をなぞる。
「つまり、街そのものが巨大な浄化装置だったということですね」
「そういうことになる」
だが、とルシアンは眉を顰めた。
「今は黒花が正常に機能していない。本来浄化されるはずだったものが、逆流するように街中へ漏れ出している」
エリオは腕を組んだ。
確かに、最近の王都は異常だった。
空気そのものが重い。
黒花患者ではない人間ですら、咳や倦怠感を訴え始めている。
「地下浄化路は今も使えるんですか?」
「存在はしている。ただ、今は殆ど機能していない。通常の聖水ではもうどうにもならない」
「そこへ“強力な聖水”を流し込めば?」
「試してみないと分からないが、地下から広範囲へ浄化を行える可能性はある」
ルシアンは静かに続けた。
「だが前例はない。今の浄化路が耐えられる保証もない」
「壊れたら?」
「今度こそ完全に機能停止だね」
「今でも止まりかけてるようなものでは?」
「だからこそ危険なんだ。無理に流せば、残っている均衡まで崩れる可能性がある」
それを聞きながらも、エリオの表情にはどこか吹っ切れたような色があった。
ルシアンはその顔をじっと見つめる。
「……その様子だと、“仮定”ではなさそうだ」
「さて、どうでしょう」
「きみ、隠し事はあまり上手くないよ」
エリオは苦笑しながら、セラから預かった装飾もない簡素なマジックボックスを机に置いた、
ルシアンが僅かに目を細める。
「……その中に?」
「ええ、覚悟して下さい」
エリオがマジックボックスへ魔力を流す。
次の瞬間。
部屋の中へ、大量の木樽が現れた。
「……っ」
ルシアンが息を呑む。
まだ蓋すら開いていない。
それなのに、濃密な清浄さが空気へ滲み出していた。
「これは……」
「だから“仮定”なんですよ」
エリオは困ったように笑った。
少し前までなら、こんな風に笑う余裕などなかっただろう。
黒花。
偽りの聖女。
隠し続けなければならない秘密。
胃が痛くなる問題ばかりだった。
だが、あの山でセラを見ていると、深刻に悩んでいること自体が馬鹿らしくなってくる。
出来ることを積み重ねていたら、いつの間にか常識外れの奇跡を起こしている。
セラは、そういう存在だ。
「……試してみますか」
エリオがそう言うと、ルシアンは数秒黙り込み、小さく息を吐いた。
「失敗したら始末書では済まないよ」
「成功しても面倒なことになる気しかしませんけどね」
「それは同感だ」
◇
地下浄化路は、想像以上に酷い状態だった。
湿った空気。
黒ずんだ水路。
壁へへばりつくような瘴気。
地下へ降りた瞬間、肌へ絡みつくような嫌な感覚が走る。
「……本当に浄化施設ですか、ここ」
「今はただの淀み溜まりだね」
ルシアンが低く答える。
「黒花が正常に機能していない以上、ここへ瘴気が溜まり続ける」
エリオは静かに水路を見下ろした。
黒い泥のような淀みが、ゆっくり蠢いているようにも見える。
「気持ち悪いですね」
「同感だ」
短く言葉を交わし、エリオは木樽の蓋へ手をかけた。
開けた瞬間。
ふわり、と空気が変わる。
「……っ」
ルシアンが目を見開いた。
地下へ満ちていた重苦しい淀みが、まるで怯えるように後退していく。
「特級聖水……いや、違う」
「一応、飲めますよ」
「飲んだのか?」
「少しだけ」
「……正気かい?」
セラはごくごく飲んでいた。
フィンも「普通に美味い」と言っていた。
特別な水だとは理解していたが、二人の様子を見ているうちに、エリオの中では“異常に効能の強い飲み水”のような認識になってしまっていたらしい。
そして、そのまま樽を水路へ傾ける。
透明な水が流れ込む。
その瞬間。
ジュワッ――と。
黒ずんだ水路が激しく反応した。
「なっ……!?」
へばりついていた淀みが、熱湯を浴びた泥みたいに溶け落ちていく。
浄化は止まらなかった。
水路を通じて、一気に地下全体へ広がっていく。
壁。
床。
天井。
染み付いていた瘴気が、まるで最初から存在しなかったみたいに消えていく。
そして。
地下奥の結界術式が、淡く光を取り戻した。
「結界まで……回復している?」
「です……ね」
エリオは乾いた笑みを漏らした。
静かな沈黙が落ちる。
やがて、ルシアンがゆっくり口を開いた。
「……これは誰が作ったんだい?」
エリオは少しだけ視線を逸らした。
「……山で、協力してくれている人がいます」
「協力?」
「ええ。」
短い沈黙。
ルシアンはじっとエリオを見つめた。
「……なるほど。つまり、詳しく話せない相手がいるわけか」
「……」
「隠し通すには、少し目立ちすぎてしまったね」
エリオは即座に首を縦に振った。
その反応に、ルシアンは小さく目を伏せる。
最近の山周辺の異常な浄化。
石鹸。
エリオの頻繁な山通い。
そして――ピンク色の髪の聖女の噂。
全部が繋がる。
「……その協力者って、セラだよね」
エリオの肩が、僅かに揺れた。
否定はなかった。
黒花による患者は再び増え続け、教会の浄化も追いついていない。
以前なら軽症で済んでいた者が、数日で寝込むようになり、通常の石鹸だけでは進行を抑えることすら難しくなっていた。
街中へ漂う淀みは、もはや一般人ですら感じ取れるほど濃くなっている。
黒花。
本来は王都を守る為に植えられた植物。
それが今では、人を蝕む災厄へ変わり果てていた。
◇
山から戻った後。
エリオは研究室へ運び込まれた木樽を前に、深く息を吐いた。
マジックボックスから取り出された樽は、研究室の壁際へ順に並べられている。
量の確認と、状態を調べるためだ。
蓋を閉じているにも関わらず、それらからは清浄な気配が漂っていた。
近くにいるだけで、王都の重苦しさが薄れていくのが分かった。
「……改めて見ると、とんでもないですね」
ルークが静かに呟く。
「ああ」
エリオは頭を掻いた。
山では勢いで持ち帰ってきたが、冷静になればなるほど異常だ。
教会の特級聖水など比較にならない。
こんなものを大量に流通させれば、間違いなく騒ぎになる。
「直接患者へ配るには量が足りません」
「だろうな」
「ですが、この濃度なら少量でも広範囲へ影響を与えられる可能性があります」
ルークは木樽へ視線を向けた。
「問題は、“どう使うか”ですね」
エリオは小さく息を吐いた。
こんなものを使い始めれば、確実に誰かが出所を探り始める。
そして辿り着く先は――あの山だ。
顔を上げると、ルークと視線がぶつかった。彼もまた、同じ懸念に行き着いたらしい。
「……こんなことを相談すれば、怪しまれるでしょうね」
ルークは苦笑混じりに呟いた。
「だな」
エリオは否定しなかった。
「ルシアン様なら、まず間違いなく気付かれます」
「だよなぁ……」
エリオは机に額をくっつけたまましばらく考えこんだ。
あの人は鋭い。
曖昧な誤魔化しなど、そう長く通用しないだろう。
それでも。
街へ満ち始めた淀みを思い出す。
教会へ運ばれていく患者たち。
悪化していく黒花。
このまま何もしなければ、もっと被害は広がる。
「……放置も出来ないんだよな」
エリオはゆっくり目を閉じた。
セラは守りたい。
けれど、街も救わなければならない。
その両方を選ぶには、自分一人では限界があった。
しばらく黙り込んだ後、エリオは静かに顔を上げる。
「ルシアン様のところへ行こう」
◇
ルシアンの執務室前で、エリオは案内役のメイドが離れていくのを待った。
重厚な扉が静かに閉まり、室内へ静寂が落ちる。
「やぁ、エリオ殿」
執務机へ腰掛けたまま、ルシアンが視線を上げた。
その声を確認してから、エリオは小さく息を吐く。
「これは例えなのですが……もし、強力な聖水が大量に手に入ったとしたら、どう使えば効率良く利用できるでしょうか。可能なら、あまり目立たないように……」
そこまで言ってから、エリオは口を閉ざした。
勢いで来たものの、いざ説明しようとすると、自分でも驚くほど言葉がまとまらない。
これでは怪しんでくれと言っているようなものだ。
案の定、ルシアンが僅かに目を見開いた。
「随分例えにしては……具体的な相談だね」
「……仮定の話です」
「きみの“仮定”は、興味深い」
穏やかな口調だった。
だが、その視線はしっかりエリオを観察している。
エリオは小さく肩を竦めた。
「黒花対策に使うなら、どこで利用するのが一番効率的かと思いまして」
ルシアンは少し考え込み、やがて机上の地図へ視線を落とした。
「黒花は、本来浄化機能を持つ植物だっただろう」
「……今の状態を見ると、とてもそうは思えませんね」
「そうだな」
ルシアンは古い資料を取り出し、静かにページをめくる。
「王都地下には地脈が流れている。そして黒花は、その地脈へ溜まる瘴気を吸い上げる為に植えられた」
「瘴気を吸う植物、ですか」
「ただ吸収するだけではない。地下浄化路を通し、さらに聖水で中和することで、王都全体の均衡を保っていたそうだ」
ルシアンの指先が、地図へ描かれた地下水路をなぞる。
「つまり、街そのものが巨大な浄化装置だったということですね」
「そういうことになる」
だが、とルシアンは眉を顰めた。
「今は黒花が正常に機能していない。本来浄化されるはずだったものが、逆流するように街中へ漏れ出している」
エリオは腕を組んだ。
確かに、最近の王都は異常だった。
空気そのものが重い。
黒花患者ではない人間ですら、咳や倦怠感を訴え始めている。
「地下浄化路は今も使えるんですか?」
「存在はしている。ただ、今は殆ど機能していない。通常の聖水ではもうどうにもならない」
「そこへ“強力な聖水”を流し込めば?」
「試してみないと分からないが、地下から広範囲へ浄化を行える可能性はある」
ルシアンは静かに続けた。
「だが前例はない。今の浄化路が耐えられる保証もない」
「壊れたら?」
「今度こそ完全に機能停止だね」
「今でも止まりかけてるようなものでは?」
「だからこそ危険なんだ。無理に流せば、残っている均衡まで崩れる可能性がある」
それを聞きながらも、エリオの表情にはどこか吹っ切れたような色があった。
ルシアンはその顔をじっと見つめる。
「……その様子だと、“仮定”ではなさそうだ」
「さて、どうでしょう」
「きみ、隠し事はあまり上手くないよ」
エリオは苦笑しながら、セラから預かった装飾もない簡素なマジックボックスを机に置いた、
ルシアンが僅かに目を細める。
「……その中に?」
「ええ、覚悟して下さい」
エリオがマジックボックスへ魔力を流す。
次の瞬間。
部屋の中へ、大量の木樽が現れた。
「……っ」
ルシアンが息を呑む。
まだ蓋すら開いていない。
それなのに、濃密な清浄さが空気へ滲み出していた。
「これは……」
「だから“仮定”なんですよ」
エリオは困ったように笑った。
少し前までなら、こんな風に笑う余裕などなかっただろう。
黒花。
偽りの聖女。
隠し続けなければならない秘密。
胃が痛くなる問題ばかりだった。
だが、あの山でセラを見ていると、深刻に悩んでいること自体が馬鹿らしくなってくる。
出来ることを積み重ねていたら、いつの間にか常識外れの奇跡を起こしている。
セラは、そういう存在だ。
「……試してみますか」
エリオがそう言うと、ルシアンは数秒黙り込み、小さく息を吐いた。
「失敗したら始末書では済まないよ」
「成功しても面倒なことになる気しかしませんけどね」
「それは同感だ」
◇
地下浄化路は、想像以上に酷い状態だった。
湿った空気。
黒ずんだ水路。
壁へへばりつくような瘴気。
地下へ降りた瞬間、肌へ絡みつくような嫌な感覚が走る。
「……本当に浄化施設ですか、ここ」
「今はただの淀み溜まりだね」
ルシアンが低く答える。
「黒花が正常に機能していない以上、ここへ瘴気が溜まり続ける」
エリオは静かに水路を見下ろした。
黒い泥のような淀みが、ゆっくり蠢いているようにも見える。
「気持ち悪いですね」
「同感だ」
短く言葉を交わし、エリオは木樽の蓋へ手をかけた。
開けた瞬間。
ふわり、と空気が変わる。
「……っ」
ルシアンが目を見開いた。
地下へ満ちていた重苦しい淀みが、まるで怯えるように後退していく。
「特級聖水……いや、違う」
「一応、飲めますよ」
「飲んだのか?」
「少しだけ」
「……正気かい?」
セラはごくごく飲んでいた。
フィンも「普通に美味い」と言っていた。
特別な水だとは理解していたが、二人の様子を見ているうちに、エリオの中では“異常に効能の強い飲み水”のような認識になってしまっていたらしい。
そして、そのまま樽を水路へ傾ける。
透明な水が流れ込む。
その瞬間。
ジュワッ――と。
黒ずんだ水路が激しく反応した。
「なっ……!?」
へばりついていた淀みが、熱湯を浴びた泥みたいに溶け落ちていく。
浄化は止まらなかった。
水路を通じて、一気に地下全体へ広がっていく。
壁。
床。
天井。
染み付いていた瘴気が、まるで最初から存在しなかったみたいに消えていく。
そして。
地下奥の結界術式が、淡く光を取り戻した。
「結界まで……回復している?」
「です……ね」
エリオは乾いた笑みを漏らした。
静かな沈黙が落ちる。
やがて、ルシアンがゆっくり口を開いた。
「……これは誰が作ったんだい?」
エリオは少しだけ視線を逸らした。
「……山で、協力してくれている人がいます」
「協力?」
「ええ。」
短い沈黙。
ルシアンはじっとエリオを見つめた。
「……なるほど。つまり、詳しく話せない相手がいるわけか」
「……」
「隠し通すには、少し目立ちすぎてしまったね」
エリオは即座に首を縦に振った。
その反応に、ルシアンは小さく目を伏せる。
最近の山周辺の異常な浄化。
石鹸。
エリオの頻繁な山通い。
そして――ピンク色の髪の聖女の噂。
全部が繋がる。
「……その協力者って、セラだよね」
エリオの肩が、僅かに揺れた。
否定はなかった。
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