塩対応の悪役令嬢ですが、婚約破棄?わかりましたわ。

パリパリかぷちーの

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月が、まるで舞台照明のように、冷ややかに大地を照らしていた。
その光の下を、わたくしたちは、二つの部隊に分かれて静かに進んだ。

アレクシス様率いる陽動部隊は、馬の蹄に分厚い布を巻き付けて音を殺し鷲ノ巣砦の正面ゲートへと向かう。
先頭を行く彼の横顔は、これまでに見たことがないほどに硬くその青い瞳の奥には、不安と決意とそしてわたくしへの想いがない交ぜになった複雑な光が宿っていた。

一方、わたくしと猟師のトム、そして老執事のゼバスチャンという、およそ戦闘には不向きな奇襲部隊は闇に溶け込むようにして、険しい獣道を進んでいく。
窮屈なドレスはとうに脱ぎ捨て、動きやすい乗馬服に身を包んだわたくしの顔にもはや恐怖の色はなかった。
むしろ、これから始まるであろうこの地の未来を賭けた戦いに、わたくしは静かな武者震いすら感じていた。



「……よし、ここまでだ」

砦の正面ゲートが見渡せる森の茂みに身を潜めると、アレクシス様は、低くしかしよく通る声で部下たちに命じた。

「松明に火を。だが、まだ掲げるな。俺の合図があるまで、息を殺していろ」

数少ない騎士たちが、緊張した面持ちで頷く。
アレクシス様は、闇の向こうの、静まり返った砦を、鷹のような鋭い目つきで、じっと見つめていた。

待つこと、しばし。
やがて、彼の予測通り、砦の、あの小さな通用門が、ぎぃ、と音を立てて内側から開かれた。
中から現れた内応者の手引きで、森の闇に潜んでいたガルニア帝国の兵士たちが、まるで黒い蛇のように、次々と砦の中へと吸い込まれていく。

(……リリアンヌの、言う通りだ)

アレクシス様は、唇をきつく結んだ。
あの女の慧眼は、本物だ。
ならば、信じるしかない。彼女の立てた、この、あまりにも無謀な作戦を。

全ての兵士が、砦の中へと消えたのを確認すると、彼は、静かに、右手を上げた。

「―――今だ! かかれぇぇぇっ!!」

その号令と共に、騎士たちは、一斉に、雄叫びを上げた。
隠し持っていた何本もの松明に火が灯され、辺りは、一瞬にして、昼間のような明るさに包まれる。
彼らは、まるで、ここに大軍がいるかのように見せかけるため、松明を激しく振りかざし、鬨の声を上げながら、砦へと突撃するふりをした。

その、予期せぬ奇襲に、砦の中のガルニア兵たちは、完全に度肝を抜かれたようだった。

「て、敵襲! 敵襲だーっ!」
「馬鹿な! なぜ、我々の計画がバレたのだ!?」
「敵の数は!?」

砦の中が、混乱と、怒号に包まれる。
敵の注意は、完全に、正面ゲートへと引きつけられた。
陽動は、成功したのだ。



「……始まりましたわね」

正面ゲートの方から微かに聞こえてくる喧騒を背に、わたくしたちは、険しい崖を、必死に登っていた。
道なき道を進むのは、想像以上に困難を極めた。
しかし、先頭を行く猟師のトムの、確かな足取りと、そして、わたくしの背後から、「お嬢様、足元にお気をつけて」と、力強く腕を支えてくれるゼバスチャンの存在が、心強かった。

(閣下は、うまくやってくださっているようですわね。あとは、わたくしたちが、わたくしたちの役目を、果たすだけ……!)

息を切らし、汗を流しながら、どれほど登っただろうか。
やがて、目の前に、月明かりに照らされた、巨大な石造りの建造物が、その姿を現した。
目的の、古い堰だ。

「ゼバスチャン、トム。あれが、堰の門を開閉するための、主水路の装置ですわ。見ての通り、ひどく錆びついていますが、動くかしら……」

装置は、巨大な鉄製の歯車と、それを回すための、太いハンドルで構成されていた。
長年、人の手が加えられていなかったのだろう。全てが、赤黒い錆に覆われている。

「……これは、骨が折れそうですな」

ゼバスチャンが、持ってきた油を歯車に差し、トムが、携帯していた斧の柄を、ハンドルの隙間に差し込んで、てことして使おうと試みる。

「せえのっ!」

二人がかりで、全体重をかける。
しかし、ハンドルは、ぎ、ぎぎぎ、と、嫌な金属音を軋ませるだけで、びくともしない。

(まずいですわ……このままでは、時間が……!)

下の砦では、いつまでも、敵を陽動で引きつけておくことはできないはずだ。
わたくしの心に、焦りが、じわりと広がっていく。



その頃、アレクシス様もまた、同じ焦りを感じていた。

(……敵将は、手強い。思ったよりも早く、こちらの兵力が、極端に少ないことを見抜き始めている……!)

このままでは、陽動が破られるのも、時間の問題だ。
リリアンヌの、第二の作戦を待つだけでは、手遅れになるかもしれない。

彼は、決断した。
あの女の情報を、『全面的に信頼する』という、大きな、大きな、賭けに出ることを。
ただの陽動で終わらせるのではない。
このまま、本当に、この少数で、砦に突入し、敵の将の首を、直接、獲りに行くのだ、と。

「全員、聞け!」

彼は、部下たちに力強く檄を飛ばした。

「これより、我々は砦へと本当に突入する!」

「し、しかし団長!それはあまりにも無謀です!」

若い騎士が、悲鳴のような声を上げた。
だが、アレクシス様は、その不安を、一喝した。

「リリアンヌ嬢を、信じろ!」

その声には、絶対的な確信が込められていた。

「彼女は、必ず、我々のための、好機を作ってくれるはずだ! 俺の命は、今、あの女に預けた! 貴様らも、この俺に、命を預けろ! そして、俺に続けぇぇっ!」

氷の騎士の魂からの熱い叫び。
その、あまりの覚悟に部下たちの瞳に決死の光が宿った。



崖の上では、わたくしもまた歯を食いしばっていた。

「わたくしも、手伝いますわ!」

「お嬢様、なりません!」

ゼバスチャンの制止も聞かず、わたくしは華奢な体で錆びついたハンドルに全体重をかけてしがみついた。

その時だった。

ゴゴンッ!

鈍い、重い音と共に固着していた歯車がようやく噛み合った。

「動いた! 今ですわ!」

わたくしたち三人は、最後の力を振り絞り、ハンドルを力の限り回した。
堰の、分厚い水門が、わずかに、しかし、確実に、開かれていく。
そして、今まで静寂を保っていた水路に、溜め込まれていた水が轟々と地響きのような音を立てて流れ込み始めた。

崖の下の、闇に沈む鷲ノ巣砦へ。
その、濁流が牙を剥いた。

正面ゲートでは、アレクシス様がその美しい剣を抜き放ち雄叫びを上げていた。

「リリアンヌ……!必ず、お前を、迎えに行くぞ!」

砦の内と、外で。
わたくしたち、二人の決意が今確かに交差した。
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