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王宮が目に見えない混乱に陥っている頃、アーリヤは新たなプロジェクトに着手していた。
「お父様、クライネルト領の現地視察許可を申請します」
父ヴィクトルの執務室で、アーリヤは一枚の計画書を提出した。
「領地視察だと? なぜ急に」
「先日手伝わせていただいた書類の中に、いくつかデータと現状に乖離があると思われる案件が散見されました。百聞は一見に如かず、と言います。私が直接現地へ赴き、現状を正確に数値化し、今後の領地経営における最適解を導き出すためのレポートを作成します」
あまりにも壮大かつ合理的な目的を、娘が真顔で語るのを聞きヴィクトルはもはや笑うしかなかった。
「……わかった。許可しよう。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「問題ありません。アッシュ副団長も同行しますので」
その言葉に、部屋の隅で控えていたアッシュはぴくりと肩を揺らした。
こうして、アーリヤの領地視察という名の新たな「市場調査」が始まり、アッシュは必然的にその長旅の護衛を務めることになったのである。
◇
王都を出て二日目。馬車はのどかな田園風景が広がる街道を進んでいた。
アーリヤは、揺れる馬車の中でも全く意に介さず膝の上で領地の膨大な資料を読みふけっている。
向かいの席に座るアッシュは、そんな彼女の横顔をどうしたものかという思いで眺めていた。
何か、話すべきだろうか。しかし、何を? 天気の話題など、この人には「非生産的な会話」と一蹴されそうだ。
結局、気まずい沈黙だけが馬車の中を支配していた。
そんな時だった。
ガタンッ、と大きな衝撃と共に、馬車が大きく傾き、その場で動きを止めてしまった。
「どうした!」
アッシュが声を上げると、外から御者の慌てた声が聞こえてきた。
「も、申し訳ありません! 昨夜の雨でできたぬかるみに、車輪がはまってしまいまして……!」
アッシュが馬車から降りて確認すると、確かに左の後輪が泥の中に半分ほど埋まり、完全に動けなくなっている。
「くそっ……! 俺と二人で押すぞ!」
アッシュが御者に指示を出し、力任せに馬車を動かそうとした、その時だった。
「待ってください。その方法は非効率的です」
静かな声と共に、アーリヤがひらりと馬車から降りてきた。
彼女は少し汚れるのも厭わず、ぬかるみに近づくとスカートの裾をたくし上げてしゃがみ込み車輪の状態を冷静に分析し始めた。
「アッシュ副団長、そこに手頃な太さの倒木がありますね。それを、てこの支点として利用します。御者の方、車輪の下に何か硬い板を差し込めますか?」
「え、あ、はい!」
アーリヤは、まるで熟練の工兵のように的確な指示を次々と飛ばしていく。
その姿に、アッシュも御者もただただ圧倒されるばかりだった。
彼女の指示通りに作業を進めると、あれだけびくともしなかった馬車は驚くほどあっさりとぬかるみから脱出することができた。
「……すごい……」
泥だらけになったアッシュが思わず呟くと、アーリヤはパンパンと手の汚れを払いながらこともなげに言った。
「物理法則を応用しただけです。王妃教育では、緊急時の対応策として土木工学の基礎も学びますので」
そのあまりにも規格外な博識ぶりに、アッシュはもはや驚く気力すら湧いてこなかった。
◇
その日の夜、次の街までたどり着くのは困難だと判断し、一行は街道沿いの開けた場所で野営をすることになった。
アッシュが手際よく焚き火の準備をしていると、アーリヤが興味深そうにその手元を見ていた。
夕食は、騎士の携行食である干し肉と堅いパンそれに水筒の水だけだ。
アッシュは、こんな粗末な食事を侯爵令嬢に出すことに、強い罪悪感を覚えていた。
「申し訳ありません、アーリヤ様。このようなものしか……」
「構いません。むしろ、興味深い」
アーリヤは、受け取った堅パンをまじまじと見つめている。
「この携行食のカロリーと栄養素の内訳は? 長期保存性を優先するあまり、ビタミン類が欠乏し、兵士の士気低下に繋がる可能性について、軍は考察しているのでしょうか」
「さ、さあ……」
食事中まで、彼女の分析は止まらないらしい。
やがて、静かな夜の闇が訪れパチパチと燃える焚き火の音だけが響く。
アッシュは、意を決してずっと聞きたかったことを口にした。
「アーリヤ様は……なぜ、そんなに何でもご存知なのですか? 護身術に、土木工学、それに、あれだけの政務の知識……」
アーリヤは、燃え盛る炎を見つめながら、静かに答えた。
「必要だったからです」
「……必要?」
「ええ。王太子妃に、そしていずれは王妃になるということは、この国の全てを、誰よりも深く理解する義務があるということですから。政治も、経済も、歴史も、科学も……その全てが、国を正しく導くためには必要な知識です。私はただ、その義務を果たそうとしていただけです」
その淡々とした口調の中に、アッシュは、彼女が一人で歩んできた、想像を絶するほどの努力の道のりを垣間見た気がした。
彼女は、生まれながらの天才なのではない。
途方もない努力の末に、天才になったのだ。
アーリヤはふと、夜空を見上げた。
満天の星が、手の届きそうなほど近くに輝いている。
「星の配置を読むことは、天文学と航海術の基礎です。あのひときわ明るい星の名は……」
淀みなく語る彼女の横顔を、アッシュはただじっと見つめていた。
美しいと思った。
完璧な知識や、氷のような佇まいではなくその無表情の奥に隠されたひたむきな努力の跡が何よりも美しいと感じた。
「……綺麗ですね」
アッシュが思わず呟くと、アーリヤは少しだけ意外そうな顔で彼を見た。
そして、ほんのわずかに本当に誰にも気づかれないくらいかすかに口元を緩ませた。
「……ええ。合理的で、美しいですね」
静かな夜の中、二人の間にそれまでとは違う穏やかで温かい空気が流れる。
アッシュは、この人を守りたいと心の底から思った。
国を守る騎士としてではない。一人の男として、彼女の隣で彼女が背負ってきたものを少しでも支えたい。
この不器用な騎士の心に、恋という名の炎がはっきりと灯ったそんな夜だった。
「お父様、クライネルト領の現地視察許可を申請します」
父ヴィクトルの執務室で、アーリヤは一枚の計画書を提出した。
「領地視察だと? なぜ急に」
「先日手伝わせていただいた書類の中に、いくつかデータと現状に乖離があると思われる案件が散見されました。百聞は一見に如かず、と言います。私が直接現地へ赴き、現状を正確に数値化し、今後の領地経営における最適解を導き出すためのレポートを作成します」
あまりにも壮大かつ合理的な目的を、娘が真顔で語るのを聞きヴィクトルはもはや笑うしかなかった。
「……わかった。許可しよう。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「問題ありません。アッシュ副団長も同行しますので」
その言葉に、部屋の隅で控えていたアッシュはぴくりと肩を揺らした。
こうして、アーリヤの領地視察という名の新たな「市場調査」が始まり、アッシュは必然的にその長旅の護衛を務めることになったのである。
◇
王都を出て二日目。馬車はのどかな田園風景が広がる街道を進んでいた。
アーリヤは、揺れる馬車の中でも全く意に介さず膝の上で領地の膨大な資料を読みふけっている。
向かいの席に座るアッシュは、そんな彼女の横顔をどうしたものかという思いで眺めていた。
何か、話すべきだろうか。しかし、何を? 天気の話題など、この人には「非生産的な会話」と一蹴されそうだ。
結局、気まずい沈黙だけが馬車の中を支配していた。
そんな時だった。
ガタンッ、と大きな衝撃と共に、馬車が大きく傾き、その場で動きを止めてしまった。
「どうした!」
アッシュが声を上げると、外から御者の慌てた声が聞こえてきた。
「も、申し訳ありません! 昨夜の雨でできたぬかるみに、車輪がはまってしまいまして……!」
アッシュが馬車から降りて確認すると、確かに左の後輪が泥の中に半分ほど埋まり、完全に動けなくなっている。
「くそっ……! 俺と二人で押すぞ!」
アッシュが御者に指示を出し、力任せに馬車を動かそうとした、その時だった。
「待ってください。その方法は非効率的です」
静かな声と共に、アーリヤがひらりと馬車から降りてきた。
彼女は少し汚れるのも厭わず、ぬかるみに近づくとスカートの裾をたくし上げてしゃがみ込み車輪の状態を冷静に分析し始めた。
「アッシュ副団長、そこに手頃な太さの倒木がありますね。それを、てこの支点として利用します。御者の方、車輪の下に何か硬い板を差し込めますか?」
「え、あ、はい!」
アーリヤは、まるで熟練の工兵のように的確な指示を次々と飛ばしていく。
その姿に、アッシュも御者もただただ圧倒されるばかりだった。
彼女の指示通りに作業を進めると、あれだけびくともしなかった馬車は驚くほどあっさりとぬかるみから脱出することができた。
「……すごい……」
泥だらけになったアッシュが思わず呟くと、アーリヤはパンパンと手の汚れを払いながらこともなげに言った。
「物理法則を応用しただけです。王妃教育では、緊急時の対応策として土木工学の基礎も学びますので」
そのあまりにも規格外な博識ぶりに、アッシュはもはや驚く気力すら湧いてこなかった。
◇
その日の夜、次の街までたどり着くのは困難だと判断し、一行は街道沿いの開けた場所で野営をすることになった。
アッシュが手際よく焚き火の準備をしていると、アーリヤが興味深そうにその手元を見ていた。
夕食は、騎士の携行食である干し肉と堅いパンそれに水筒の水だけだ。
アッシュは、こんな粗末な食事を侯爵令嬢に出すことに、強い罪悪感を覚えていた。
「申し訳ありません、アーリヤ様。このようなものしか……」
「構いません。むしろ、興味深い」
アーリヤは、受け取った堅パンをまじまじと見つめている。
「この携行食のカロリーと栄養素の内訳は? 長期保存性を優先するあまり、ビタミン類が欠乏し、兵士の士気低下に繋がる可能性について、軍は考察しているのでしょうか」
「さ、さあ……」
食事中まで、彼女の分析は止まらないらしい。
やがて、静かな夜の闇が訪れパチパチと燃える焚き火の音だけが響く。
アッシュは、意を決してずっと聞きたかったことを口にした。
「アーリヤ様は……なぜ、そんなに何でもご存知なのですか? 護身術に、土木工学、それに、あれだけの政務の知識……」
アーリヤは、燃え盛る炎を見つめながら、静かに答えた。
「必要だったからです」
「……必要?」
「ええ。王太子妃に、そしていずれは王妃になるということは、この国の全てを、誰よりも深く理解する義務があるということですから。政治も、経済も、歴史も、科学も……その全てが、国を正しく導くためには必要な知識です。私はただ、その義務を果たそうとしていただけです」
その淡々とした口調の中に、アッシュは、彼女が一人で歩んできた、想像を絶するほどの努力の道のりを垣間見た気がした。
彼女は、生まれながらの天才なのではない。
途方もない努力の末に、天才になったのだ。
アーリヤはふと、夜空を見上げた。
満天の星が、手の届きそうなほど近くに輝いている。
「星の配置を読むことは、天文学と航海術の基礎です。あのひときわ明るい星の名は……」
淀みなく語る彼女の横顔を、アッシュはただじっと見つめていた。
美しいと思った。
完璧な知識や、氷のような佇まいではなくその無表情の奥に隠されたひたむきな努力の跡が何よりも美しいと感じた。
「……綺麗ですね」
アッシュが思わず呟くと、アーリヤは少しだけ意外そうな顔で彼を見た。
そして、ほんのわずかに本当に誰にも気づかれないくらいかすかに口元を緩ませた。
「……ええ。合理的で、美しいですね」
静かな夜の中、二人の間にそれまでとは違う穏やかで温かい空気が流れる。
アッシュは、この人を守りたいと心の底から思った。
国を守る騎士としてではない。一人の男として、彼女の隣で彼女が背負ってきたものを少しでも支えたい。
この不器用な騎士の心に、恋という名の炎がはっきりと灯ったそんな夜だった。
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