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「……なんだ、これは。何の嫌がらせだ、これはッ!」
翌朝。王立アカデミーの華やかな余韻も冷めやらぬ王宮で、ウィルフレッド王子の怒声が再び響いた。
彼の執務机の上には、一晩で届けられたとは思えないほど分厚い束が置かれている。
表紙には流麗な筆致で『婚約解消に伴う清算事務報告書』と記されていた。
「殿下、落ち着いてください。イザベル様からの、その……最後のご挨拶かと」
側近が冷や汗を流しながら答えるが、ウィルフレッドは中身を一瞥して絶句した。
「挨拶だと!? 一ページ目から『公務代行手数料:金貨五百枚』とあるぞ! その下には『不祥事揉み消し諸費用』『深夜残業手当』……貴様、これはどういうことだ!」
「お言葉ですが殿下。イザベル様がこれまで殿下の代わりに行っていた書類仕事、それから殿下が酔って壊された備品の修理代、さらに浮気調査の口止め料まで、すべて証拠付きで計上されています」
「う、浮気だと!? 私はアリスと真実の愛を――」
「世間一般ではそれを浮気と呼びます。イザベル様はそれらをすべて『対外的なリスク管理』として個人資産から算出されていたようです。……合計金額をご覧ください。王宮の半年分の運営費に匹敵します」
ウィルフレッドは震える指で最終ページをめくり、そこに書かれた数字を見て卒倒しかけた。
そこには追い打ちをかけるように、追伸が添えられている。
『なお、本日正午までにお支払いの意思表示がない場合、本債権を隣国の債権回収専門業者に売却いたします。あしからず。 ――イザベル』
「あの女……! どこまで計算高いんだ!」
その頃、当のイザベルは、王国の国境にある検問所に到着していた。
通常なら数時間はかかるはずの出国手続きを、彼女はわずか数分で終わらせようとしていた。
「係官さん。こちらの書類に不備はありません。また、後続の馬車が三台来ますが、それらは私の『廃棄資産』ですので、適当にオークションへ流してください。売上の十パーセントは手数料として差し上げます」
「は、はあ……。左様でございますか……」
係官が呆然とする中、イザベルは国境の門をくぐった。
そこはもう、隣国・ノアール公国領である。
しかし、門を出てすぐの街道で、一台の豪華な馬車が立ち往生しているのが見えた。
「あら、非効率な光景ですね。あんな見通しの良い場所で停車して、交通の妨げですわ」
イザベルは馬車を降り、迷うことなくその現場へと向かった。
そこでは、数人の騎士たちが慌てふためき、一人の男が冷徹な表情でそれを見守っていた。
男は雪のように白い肌と、氷の結晶のような鋭い瞳を持つ絶世の美男子だった。
「……車軸が折れたか。修理にどれくらいかかる」
「はっ! 急ぎ職人を呼びますが、最低でも二時間は……」
「二時間か。後の予定がすべて狂うな。……チッ」
男が苛立たしげに舌打ちをした瞬間、背後から凛とした声が響いた。
「お困りのようですね。私が三分で解決して差し上げましょうか?」
男――アリストテレス・フォン・ノアール公爵は、不審な女を見る目でイザベルを振り返った。
「……三分だと? 職人でもない令嬢が、何の冗談だ」
「冗談を言うほど、私の時給は安くありません。そこの騎士の方、予備の部品は馬車の左後方の収納にあるはずです。それを使いなさい。それから、あなたはそこを支えて。角度は三十度です」
イザベルは流れるような動作で指示を出し始めた。
あまりに迷いのない言葉に、騎士たちは反射的に動かされてしまう。
「はい、そこ! 摩擦係数を減らすために油を。……よろしい。最後にネジを締めれば完了です」
カチリ、と小気味良い音が響く。
イザベルは懐中時計を確認し、満足げに頷いた。
「二分四十五秒。予定より十五秒早まりましたわね。お疲れ様でした」
アリストテレスは呆然として、直ったばかりの馬車とイザベルを交互に見た。
彼はこの領地の主であり、冷徹なまでの完璧主義者として知られていたが、これほどの「効率」を目の当たりにしたのは初めてだった。
「貴様……。何者だ。なぜ我が馬車の構造を知っている。なぜこれほど的確に動ける」
「通りすがりの、無職の元令嬢ですわ。構造については、先ほど馬車の紋章を見て、製造元と型番を特定したまでのこと。基礎知識の範疇です」
イザベルは優雅に一礼し、立ち去ろうとした。
しかし、アリストテレスがその手首を掴んで引き止めた。
「待て。貴様、名前は」
「イザベル・ヴァン・クロムウェルです。……お言葉ですが公爵様、見ず知らずの女性の手を握り続けるのは、非常にエネルギーの無駄使いかと存じます」
アリストテレスの瞳に、初めて好奇心という名の火が灯った。
「クロムウェル……。隣国の『効率狂いの悪役令嬢』か。噂は聞いていたが、まさかこれほどとは。……イザベル。お前、今『無職』だと言ったな?」
「ええ。つい数時間前に、婚約破棄と国外追放をセットで注文(オーダー)されましたので」
「なら、今すぐ私の所有物(スタッフ)になれ」
「はい?」
イザベルが眉を寄せると、アリストテレスは不敵な笑みを浮かべて顔を近づけた。
「我が公爵領のマネジメントを任せたい。年収は言い値で払おう。住居も提供する。どうだ、悪い話ではないだろう?」
イザベルはしばし沈黙し、頭の中で高速計算(シミュレーション)を行った。
(ノアール公国は資源豊富だが、行政組織が古く、無駄が多いと聞くわ。……つまり、私が改善できる余地(伸び代)が無限にあるということ。これは……!)
「……承認いたします。ただし、福利厚生については後ほど詳細に詰めさせていただきますわよ、アリ公爵様」
「アリ……? 私を略称で呼ぶ女は初めてだが。……いいだろう、効率的で気に入った」
こうして、追放からわずか数十分。
イザベルは爆速で再就職先を、それも隣国最強のパトロンを確保したのである。
翌朝。王立アカデミーの華やかな余韻も冷めやらぬ王宮で、ウィルフレッド王子の怒声が再び響いた。
彼の執務机の上には、一晩で届けられたとは思えないほど分厚い束が置かれている。
表紙には流麗な筆致で『婚約解消に伴う清算事務報告書』と記されていた。
「殿下、落ち着いてください。イザベル様からの、その……最後のご挨拶かと」
側近が冷や汗を流しながら答えるが、ウィルフレッドは中身を一瞥して絶句した。
「挨拶だと!? 一ページ目から『公務代行手数料:金貨五百枚』とあるぞ! その下には『不祥事揉み消し諸費用』『深夜残業手当』……貴様、これはどういうことだ!」
「お言葉ですが殿下。イザベル様がこれまで殿下の代わりに行っていた書類仕事、それから殿下が酔って壊された備品の修理代、さらに浮気調査の口止め料まで、すべて証拠付きで計上されています」
「う、浮気だと!? 私はアリスと真実の愛を――」
「世間一般ではそれを浮気と呼びます。イザベル様はそれらをすべて『対外的なリスク管理』として個人資産から算出されていたようです。……合計金額をご覧ください。王宮の半年分の運営費に匹敵します」
ウィルフレッドは震える指で最終ページをめくり、そこに書かれた数字を見て卒倒しかけた。
そこには追い打ちをかけるように、追伸が添えられている。
『なお、本日正午までにお支払いの意思表示がない場合、本債権を隣国の債権回収専門業者に売却いたします。あしからず。 ――イザベル』
「あの女……! どこまで計算高いんだ!」
その頃、当のイザベルは、王国の国境にある検問所に到着していた。
通常なら数時間はかかるはずの出国手続きを、彼女はわずか数分で終わらせようとしていた。
「係官さん。こちらの書類に不備はありません。また、後続の馬車が三台来ますが、それらは私の『廃棄資産』ですので、適当にオークションへ流してください。売上の十パーセントは手数料として差し上げます」
「は、はあ……。左様でございますか……」
係官が呆然とする中、イザベルは国境の門をくぐった。
そこはもう、隣国・ノアール公国領である。
しかし、門を出てすぐの街道で、一台の豪華な馬車が立ち往生しているのが見えた。
「あら、非効率な光景ですね。あんな見通しの良い場所で停車して、交通の妨げですわ」
イザベルは馬車を降り、迷うことなくその現場へと向かった。
そこでは、数人の騎士たちが慌てふためき、一人の男が冷徹な表情でそれを見守っていた。
男は雪のように白い肌と、氷の結晶のような鋭い瞳を持つ絶世の美男子だった。
「……車軸が折れたか。修理にどれくらいかかる」
「はっ! 急ぎ職人を呼びますが、最低でも二時間は……」
「二時間か。後の予定がすべて狂うな。……チッ」
男が苛立たしげに舌打ちをした瞬間、背後から凛とした声が響いた。
「お困りのようですね。私が三分で解決して差し上げましょうか?」
男――アリストテレス・フォン・ノアール公爵は、不審な女を見る目でイザベルを振り返った。
「……三分だと? 職人でもない令嬢が、何の冗談だ」
「冗談を言うほど、私の時給は安くありません。そこの騎士の方、予備の部品は馬車の左後方の収納にあるはずです。それを使いなさい。それから、あなたはそこを支えて。角度は三十度です」
イザベルは流れるような動作で指示を出し始めた。
あまりに迷いのない言葉に、騎士たちは反射的に動かされてしまう。
「はい、そこ! 摩擦係数を減らすために油を。……よろしい。最後にネジを締めれば完了です」
カチリ、と小気味良い音が響く。
イザベルは懐中時計を確認し、満足げに頷いた。
「二分四十五秒。予定より十五秒早まりましたわね。お疲れ様でした」
アリストテレスは呆然として、直ったばかりの馬車とイザベルを交互に見た。
彼はこの領地の主であり、冷徹なまでの完璧主義者として知られていたが、これほどの「効率」を目の当たりにしたのは初めてだった。
「貴様……。何者だ。なぜ我が馬車の構造を知っている。なぜこれほど的確に動ける」
「通りすがりの、無職の元令嬢ですわ。構造については、先ほど馬車の紋章を見て、製造元と型番を特定したまでのこと。基礎知識の範疇です」
イザベルは優雅に一礼し、立ち去ろうとした。
しかし、アリストテレスがその手首を掴んで引き止めた。
「待て。貴様、名前は」
「イザベル・ヴァン・クロムウェルです。……お言葉ですが公爵様、見ず知らずの女性の手を握り続けるのは、非常にエネルギーの無駄使いかと存じます」
アリストテレスの瞳に、初めて好奇心という名の火が灯った。
「クロムウェル……。隣国の『効率狂いの悪役令嬢』か。噂は聞いていたが、まさかこれほどとは。……イザベル。お前、今『無職』だと言ったな?」
「ええ。つい数時間前に、婚約破棄と国外追放をセットで注文(オーダー)されましたので」
「なら、今すぐ私の所有物(スタッフ)になれ」
「はい?」
イザベルが眉を寄せると、アリストテレスは不敵な笑みを浮かべて顔を近づけた。
「我が公爵領のマネジメントを任せたい。年収は言い値で払おう。住居も提供する。どうだ、悪い話ではないだろう?」
イザベルはしばし沈黙し、頭の中で高速計算(シミュレーション)を行った。
(ノアール公国は資源豊富だが、行政組織が古く、無駄が多いと聞くわ。……つまり、私が改善できる余地(伸び代)が無限にあるということ。これは……!)
「……承認いたします。ただし、福利厚生については後ほど詳細に詰めさせていただきますわよ、アリ公爵様」
「アリ……? 私を略称で呼ぶ女は初めてだが。……いいだろう、効率的で気に入った」
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