婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの

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王立アカデミーのサロンは、卒業を間近に控えた貴族の子息たちで賑わっていた。
その中心で、一際大きな笑い声を上げているのが第一王子ジュリアンである。

「いやあ、今回の僕の論文、教授たちが腰を抜かしていたよ。マリス王国の経済を再生させる画期的な理論だとね!」

その傍らでは、リリィが心底感銘を受けたという表情で、彼の腕にしがみついている。

「まあ、ジュリアン様! なんて素晴らしいんでしょう。やはり殿下は、この国を導く選ばれし知性の持ち主なんですわ!」

「ははは、当然だろう。リリィ、君のような可憐な女性に理解してもらうには、少し難解すぎたかな?」

そんな、見ているこちらが恥ずかしくなるような光景の背後から、氷のような声が響いた。

「あら、それは喜ばしいことですわね。殿下」

ジュリアンが飛び上がるように振り返る。そこには、扇で口元を隠したクロナが、冷ややかな、それでいてどこか観察対象を見るような目で立っていた。

「ク、クロナ! ……なんだ、君か。相変わらず可愛げのない。せっかくのサロンの空気が凍りついてしまったじゃないか」

「失礼いたしました。ですが、殿下の『画期的な理論』が完成したと伺いましたので、元・代筆担当……失礼、婚約者としてお祝いを申し上げに来たのですわ」

クロナの言葉に、ジュリアンの顔がわずかに引き攣る。

「だ、代筆などと人聞きの悪いことを言うな! あれは僕のアイデアを、君がただ清書しただけだろう?」

「ええ、その通りですわ。一から十まで、参考文献の選定からデータ集計、論理構築に至るまで、私が『清書』いたしましたものね。おかげで私の睡眠時間は、当時の殿下の夜遊びの時間と同じくらい削られましたわ」

「なっ……!」

「クロナ様、あまりに無礼ですわ!」

リリィがここぞとばかりに割り込んでくる。

「ジュリアン様は夜通し勉強されていたと伺っております。貴女は、自分の手柄にしたいだけではありませんの?」

「お黙りなさい、男爵令嬢。私が殿下と話している最中に口を挟むのは、マナー以前に知性の欠如を露呈させるだけですわよ」

クロナが一瞥すると、リリィは「ひっ」と短い悲鳴を上げてジュリアンの後ろに隠れた。

「やめろクロナ! リリィをいじめるな。君のような女に、僕たちの高尚な理想は理解できないだろう。さあ、もう行ってくれ。僕たちはこれから、論文の最終確認をするんだ」

「最終確認、ですか。それは丁度よろしいですわ。……殿下、あの論文の第百二十八条、三項目にある『国家予算における期待収益の逆関数的再分配』の計算式、正しく理解していらっしゃいます?」

「な、なんだその……ぎゃく、かんすう……? ああ、あれか! もちろん理解しているとも。要は、金が回るということだろう?」

クロナは、そっと扇を閉じた。

「……そうですか。ならば安心いたしましたわ。あの式、実は変数を一つわざと『反転』させておきましたの。そのまま計算を進めれば、結果として『王室の資産は、国民に全て無償で分配されるべきである』という、過激な共産主義的結論が導き出されるようになっていますわ」

サロンが、一瞬にして静まり返った。

「な……ななな、なんだと……!?」

「まあ、殿下ほどのお知性があれば、発表直前に気づいて修正されるだろうと思っておりましたけれど。……もしそのまま発表されたら、王位継承権どころか、王室追放、あるいはギロチン台への最短ルートになりかねませんわね。うっかりしていましたわ、ふふ」

ジュリアンの顔が、みるみるうちに土気色に変わっていく。

「き、君! 今すぐ修正しろ! 僕には……僕には、あんな複雑な式は分からないんだ!」

「お断りいたします。私はもう、『清書係』を引退しましたの。何せ殿下は、私に婚約破棄を突きつける準備をなさっているのでしょう? 敵に塩を送るほど、私はお人好しではありませんわ」

クロナは優雅にカーテシーをした。

「それでは、一週間後の学会発表……そして、卒業パーティーを楽しみにしておりますわね。リリィ様も、未来の『共産主義王妃』として、精一杯着飾っていらしてくださいな。……あ、あのドレス、私の口座から引き落としはさせませんので、悪しからず」

クロナは、呆然と立ち尽くす二人を置いて、軽やかな足取りでサロンを後にした。

「お嬢様、少々やりすぎではありませんか?」

廊下で待っていたサーシャが、苦笑しながら尋ねる。

「やりすぎ? いいえ、これは教育よ。自分の名前で世に出す文章には、責任が伴うということを教えてあげただけ。……さて、次は隣国のゼクス閣下への手紙の続きを書かなければ。あちらの方は、あんなお馬鹿な計算式、一目で見抜いて笑ってくださるでしょうね」

クロナの脳裏には、まだ見ぬ有能な公爵の姿が、美しい数字の羅列のように魅力的に浮かんでいた。
一方、背後のサロンからは、ジュリアンの「誰か! 数学の得意な奴を呼んでこい!」という情けない絶叫が響き渡っていた。
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