婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの

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「……素晴らしい。この市場の活気、そして品揃え。マリス王国の市場が、今や『在庫処分の墓場』と化しているのとは対照的ですわ!」


アルトワ公爵領の王都、その中心部に位置する大市場。
クロナは、数日前にゼクスから贈られたサファイアのブローチを胸元で輝かせ、弾むような足取りで石畳を歩いていた。


隣を歩くのは、公爵としての威厳を程よく隠すために上質な平服に身を包んだゼクスだ。
とはいえ、隠しきれない高貴なオーラと整った顔立ちは、道行く人々の視線を釘付けにしている。


「クロナ、今日は『視察』だと念を押しはしたが、君のその目は完全に獲物を狙う鷹のそれだぞ。……少しは花でも眺めて、情緒というものを楽しんだらどうだ?」


「閣下、何を仰いますの。この色とりどりの果実、産地からの輸送コストが適正に反映された価格設定……これほど美しい景色が他にありますこと? あ、そこの香辛料、先週より一レアル安くなっていますわね。卸売業者との交渉に成功したのかしら」


クロナは、手に持ったメモ帳に素早く数字を書き込んでいく。
彼女にとって、市場とは単なる買い物の場ではなく、領地の経済状況をリアルタイムで示す巨大な計算機(ダッシュボード)なのだ。


「……やれやれ。君を普通のデートに連れ出すには、まず算盤を没収する必要がありそうだな」


「デート……? 閣下、今『デート』と仰いました?」


クロナがピタリと足を止め、首を傾げてゼクスを見上げた。
ゼクスは一瞬、しまったという顔をしたが、すぐに観念したように不敵な笑みを浮かべた。


「ああ。仕事抜きの私的な外出、という定義なら、世間一般ではそれをデートと呼ぶらしい。……嫌だったか?」


「い、嫌なはずがありませんわ! ただ、閣下との時間は常に『高付加価値な情報交換』の場だと思っておりましたので……。デート、ですか。……ふふ、投資効率としては未知数ですが、期待値は非常に高いですわね」


クロナは少し照れくさそうに頬を染め、誤魔化すように近くの屋台へと視線を向けた。
そこでは、香ばしい匂いを漂わせながら、肉を焼く煙が上がっている。


「あちらの屋台、回転率が非常に高そうですわ。閣下、せっかくの視察……いえ、デートですもの。この領地の『庶民の味』の原価率を、実際に食べて調査してみるべきだと思いませんこと?」


「……ただ食べたいだけだろう? いいだろう、付き合うよ。ただし、食べている最中に『この肉の仕入れ値は……』などと呟くのは禁止だ」


二人は連れ立って屋台へと向かった。
ゼクスはごく自然に、人混みからクロナを守るように彼女の腰に手を添えた。
その温もりに、クロナの思考回路が一瞬だけショートしかける。


「(……おかしいですわね。市場の気温は二十二度。湿度は四十パーセント。私の体温が上昇する物理的要因は見当たらないはずなのに)」


差し出された串焼きの肉を頬張りながら、クロナは必死に頭の中の数字を整理しようとした。
だが、隣で美味しそうに微笑むゼクスの顔を見るたびに、計算式が霧散していく。


「美味しい……。味付けの塩加減が絶妙ですわ。……閣下、この塩の流通経路を独占している商会、もう少し……」


「……クロナ」


「あ、失礼いたしました。……美味しいですわね、閣下」


ゼクスは満足げに頷くと、指先でクロナの口元に付いたソースをそっと拭った。


「……っ!」


「そんなに驚かなくてもいい。君が有能な事務官である前に、私の大切な婚約者であることを忘れないでほしいだけだ」


ゼクスの低く甘い声が、市場の喧騒を突き抜けてクロナの耳に届く。
クロナは真っ赤になり、手に持った串を握りしめた。


「……閣下。そのような不意打ちは、不当な心理的優位性の確保にあたりますわ。……でも、その……悪い気はいたしませんの」


「それは重畳だ。……さて、次はあの布地ギルドを覗いてみようか。君が目を光らせていた、例の『渋滞』の原因を現地で確認するんだろう?」


「ええ、もちろんですわ! あそこの倉庫の稼働率、実際にこの目で確かめて……」


結局、デートは半分以上が本格的な市場調査へと変貌したが、二人の間の空気は、かつてマリス王宮で流れていた冷ややかなそれとは、根本から異なっていた。


会話が通じ、価値観が重なり、お互いの知性を尊重し合う。
そんな「当たり前」のことが、これほどまでに幸福感をもたらすとは、クロナの算盤では弾き出せなかった結論だった。


一方その頃、マリス王国の市場では。
クロナがいなくなったことで管理が杜撰になった商人たちが、勝手に価格を釣り上げ、民衆の不満が爆発寸前まで膨れ上がっていた。
ジュリアン王子は、その不満を抑えるための「祭りの費用」を、誰からも借りることができずに、空っぽの金庫の前で途方に暮れていた。


「(さあ、ゼクス閣下。次はあそこの両替商ですわ! あそこの為替レート、少しばかり領主の温情に甘えすぎている兆候がありますのよ!)」


「……分かった、分かった。……全く、私の恋人は、金貨を追っている時が一番活き活きしているな」


ゼクスは苦笑しながらも、しっかりとクロナの手を握りしめた。
新しい国での視察デート。
そこには、数字がもたらす豊かさと、それ以上に尊い、確かな「愛」という名の資本が積み上がっていた。
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