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「ピース・アスター! 貴様との婚約は、この瞬間をもって破棄する!」
学園の卒業パーティーで賑わう王城の大広間。
オーケストラの優雅な調べを切り裂くように、ジェラルド第二王子のヒステリックな叫び声が響き渡った。
集まっていた着飾った貴族たちは、まるで時が止まったかのように静まり返る。
全員の視線が、部屋の中央に立つ二人の人物に突き刺さった。
一人は、顔を真っ赤にして荒い息を吐いている金髪の美青年、ジェラルド王子。
そしてもう一人は、彼に指を突きつけられ、断罪の標的となったアスター公爵家の令嬢、ピースである。
シャンパングラスを片手に持ったまま、ピースはゆっくりと瞬きをした。
長い睫毛が揺れ、アメジスト色の瞳が王子を捉える。
周囲の令嬢たちが扇で口元を隠し、「まあ……」「お可哀想に……」と囁き合うのが聞こえた。
突然の婚約破棄。
それは、貴族令嬢にとって死刑宣告にも等しい恥辱。
誰もがピースの絶望を予想し、あるいは期待した。
泣き崩れるのか。
それとも、無実を訴えて縋り付くのか。
しかし。
ピースの胸中を占めていた感情は、絶望でも悲嘆でもなかった。
(き、きたぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!)
彼女は心の中で、盛大なガッツポーズを決めていたのである。
内なるピースが小躍りしながら祝杯を上げている。
ようやく来た。
待ちに待ったこの瞬間が。
ピースは震える唇をきゅっと引き結んだ。
それは屈辱に耐えているようにも見えたが、実際は笑い出しそうなのを必死に堪えているだけだった。
「……殿下。今、なんと仰いましたか?」
ピースはあえて聞き返した。
言質を取るためである。
ジェラルド王子は、勝ち誇ったように鼻を鳴らし、その整った顔を歪めた。
「聞こえなかったのか? 耳まで悪くなったとは哀れな女だ。婚約は破棄だと言ったんだ! 貴様のような冷酷で陰湿な女は、未来の王妃にふさわしくない!」
王子の背後には、小動物のように震える男爵令嬢、ミナ・コットの姿があった。
彼女は涙目で王子の上着の裾を握りしめている。
「あぅ……ジェラルド様、やめてください……ピース様が怖いですぅ……」
「心配するなミナ! 僕が守る! この悪女の魔の手から、必ず君を救い出してみせる!」
王子はミナを背に庇い、再びピースを睨みつけた。
その茶番劇のような光景を前に、ピースの脳内コンピューターは高速で計算を開始していた。
慰謝料の相場。
精神的苦痛に対する賠償請求。
そして何より、この面倒くさい王子との関係が切れるという、プライスレスな解放感。
「冷酷で陰湿、ですか。具体的にはどのような点を指して仰っているのでしょうか?」
ピースは冷静に問いかけた。
ここで感情的になってはいけない。
あくまで「話し合いに応じる姿勢」を見せつつ、相手のボロを引き出すのが最善手だ。
王子は待っていましたとばかりに声を張り上げる。
「とぼけるな! ミナへの数々の嫌がらせ、知らぬ存ぜぬとは言わせないぞ!」
「嫌がらせ?」
「先日の茶会だ! 貴様、ミナのドレスにわざと紅茶をこぼしただろう! あれは彼女が夜なべして刺繍した大切なドレスだったんだぞ!」
会場がざわめく。
なんて酷いことを、という非難の視線がピースに集まる。
だが、ピースは涼しい顔で首を傾げた。
「お言葉ですが殿下。あの日、ミナ様が着ていらしたのは、季節外れの薄手の生地で作られたドレスでした。しかも会場は換気のために窓が開け放たれており、彼女は寒さで震えておられました」
「だからといって、熱い紅茶をぶっかけていい理由にはならん!」
「ぶっかけたのではありません。手が滑ったふりをして、温かい飲み物を差し上げようとしたのです。結果的にドレスは濡れましたが、すぐに私が予備として持参していた最高級シルクのショールをお貸ししました。あのままでは風邪を召されていたでしょう」
「なっ……」
王子が言葉に詰まる。
ピースは畳み掛けるように続けた。
「それに、濡れたドレスのクリーニング代として、その場で新品が十着は買える金額をお渡ししました。ミナ様は『え、こんなに!? ラッキー!』と満面の笑みで受け取ってくださいましたが、あれは嫌がらせだったのでしょうか?」
「そ、それは……!」
ミナが慌てて王子の背中に隠れる。
その挙動不審さが、むしろ答えを物語っていた。
「まだあるぞ! ミナの教科書を隠したこともあったな!」
「隠したのではありません。あまりにボロボロで読み辛そうだったので、私の専属の職人に頼んで製本し直させたのです。金箔押しの革表紙にしてお返ししましたが」
「き、教室の椅子に画鋲を仕掛けたのはどうだ!」
「あれは画鋲ではなく、姿勢矯正のためのツボ押しシートです。最近、ミナ様が腰痛気味だと仰っていたので」
「階段から突き落としたという目撃証言もある!」
「突き落としたのではなく、足を踏み外されたのを私が受け止めたのです。おかげで私は全治二週間の打撲を負いましたが、ミナ様は無傷でした。治療費も請求しておりません」
ピースの淡々とした反論が続くたびに、会場の空気が微妙に変化していく。
(あれ? なんか話が違わないか?)
(むしろピース様、めちゃくちゃ親切なんじゃ……)
そんな困惑が広がる中、ジェラルド王子だけが引くに引けない状況に陥っていた。
彼は顔を真っ赤にして、地団駄を踏んだ。
「ええい、うるさいうるさい! 口答えをするな! とにかく貴様の顔などもう見たくないんだ! この性悪女め!」
論理で勝てなくなると、大声で威圧する。
いつものパターンだ。
ピースは心底うんざりしつつ、しかし内心ではガッツポーズを維持したまま、深く頭を下げた。
「……左様でございますか。私の善意が、殿下やミナ様にとっては苦痛でしかなかったと。それは大変申し訳ないことをいたしました」
しおらしい声色を作る。
王子は「ふん、やっと認めたか」と鼻を高くした。
「わかればいいんだ。貴様のような女と結婚など、死んでも御免だ。この婚約は白紙に戻す。わかったな?」
「はい、もちろんです」
ピースは即答した。
あまりの食い気味な返事に、王子が一瞬きょとんとする。
その隙を逃さず、ピースはドレスの懐から一束の書類を取り出した。
「そのようなお言葉をいただく予感がしておりましたので、あらかじめ書類を用意して参りました」
「は?」
「『婚約解消に関する合意書』および『慰謝料請求書』、それから『王家主導による一方的な破棄に伴う解決金支払い誓約書』でございます」
ピースは流れるような手つきで、近くの給仕からシルバーのトレイを借り、その上に書類と携帯用のペンを並べた。
そして、恭しく王子の前に差し出す。
「さあ殿下。鉄は熱いうちに打てと申します。お気持ちが変わらないうちに、こちらの署名欄にサインをお願いいたします」
「え、あ、おい……なんだこれは」
王子が目を白黒させる。
ピースは満面の、しかし営業スマイル全開の笑みを浮かべた。
「殿下の高潔なご決断を、法的な拘束力を持つ文書として残すためのものです。口約束では後々トラブルになりますから。さあ、ここです。ここと、ここにも。あ、拇印も忘れずにお願いしますね」
「ちょ、ちょっと待て! 貴様、なんでこんなものを持ち歩いているんだ!?」
「備えあれば憂いなし、でございます」
「準備が良すぎるだろう! まさか、最初からこれを狙っていたのか!?」
王子の指摘は鋭かったが、ピースは表情一つ崩さない。
「滅相もございません。ただ、殿下が常日頃から『ミナこそが真実の愛』と仰っていたので、忠実なる臣下として、いつかこの日が来ることを覚悟していただけです」
「う、ぐ……」
「それとも殿下。まさかとは思いますが、公衆の面前であれほど高らかに『婚約破棄』を宣言されたにも関わらず、署名はできないと仰るのですか? 王族の言葉に二言はないと信じておりますが?」
ピースの言葉は丁寧だが、その目は完全に獲物を追い詰める狩人のそれだった。
周囲の貴族たちも、固唾を飲んで見守っている。
ここでサインしなければ、王子はただの「痴話喧嘩で騒いだ挙げ句、責任も取れない男」になってしまう。
プライドの高いジェラルドに、逃げ道はなかった。
「くっ……! わかった、書けばいいんだろう、書けば!」
王子は乱暴にペンをひったくると、書類にサラサラと署名をした。
内容もろくに確認していない。
ピースは心の中で「よし!」と叫んだ。
慰謝料の金額欄には、王都の一等地にある屋敷が二軒ほど買える額が書き込まれているが、それはサインした時点で了承したとみなされる。
「はい、確かにいただきました」
ピースは素早く書類を回収し、インクが乾くのも待たずに懐へしまい込んだ。
これで契約成立だ。
自由だ。
もう、このナルシスト王子の「僕の髪型、今日の湿気で崩れてない?」という質問に、毎日三回も答えなくていいのだ。
「それでは殿下、ミナ様。末永くお幸せに。私はこれにて失礼いたします」
ピースは優雅にカーテシー(膝を折る礼)をした。
その顔は、この会場にいる誰よりも晴れやかで、輝いていた。
「ま、待てピース! どこへ行く!」
背後から王子の声が聞こえたが、ピースは振り返らなかった。
「実家に戻って荷造りをします! 慰謝料の入金、期日厳守でお願いしますね!」
彼女はドレスの裾を翻し、軽やかな足取りで出口へと向かう。
その足取りはあまりに軽く、今にもスキップをしそうだった。
会場の扉を開け放ち、夜風を浴びた瞬間。
ピースは小さく、しかし力強く呟いた。
「やったぁぁぁぁぁぁ!! 明日から、毎日10時間寝てやるぅぅぅぅ!!」
その叫びは夜空に吸い込まれ、会場に残された王子とミナ、そして呆気にとられる貴族たちだけが取り残された。
こうして、悪役令嬢ピース・アスターの、華麗なる転落人生(予定)……もとい、自由気ままな隠居ライフが幕を開けたのである。
しかし彼女はまだ知らない。
その様子を、会場の片隅から熱い視線で見つめる人物がいたことを。
「……ふっ。面白い女だ」
氷の魔術師と恐れられる辺境伯、サイラス・グレイヴ。
彼が興味深そうに口元を歪めたのを、誰も見てはいなかった。
学園の卒業パーティーで賑わう王城の大広間。
オーケストラの優雅な調べを切り裂くように、ジェラルド第二王子のヒステリックな叫び声が響き渡った。
集まっていた着飾った貴族たちは、まるで時が止まったかのように静まり返る。
全員の視線が、部屋の中央に立つ二人の人物に突き刺さった。
一人は、顔を真っ赤にして荒い息を吐いている金髪の美青年、ジェラルド王子。
そしてもう一人は、彼に指を突きつけられ、断罪の標的となったアスター公爵家の令嬢、ピースである。
シャンパングラスを片手に持ったまま、ピースはゆっくりと瞬きをした。
長い睫毛が揺れ、アメジスト色の瞳が王子を捉える。
周囲の令嬢たちが扇で口元を隠し、「まあ……」「お可哀想に……」と囁き合うのが聞こえた。
突然の婚約破棄。
それは、貴族令嬢にとって死刑宣告にも等しい恥辱。
誰もがピースの絶望を予想し、あるいは期待した。
泣き崩れるのか。
それとも、無実を訴えて縋り付くのか。
しかし。
ピースの胸中を占めていた感情は、絶望でも悲嘆でもなかった。
(き、きたぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!)
彼女は心の中で、盛大なガッツポーズを決めていたのである。
内なるピースが小躍りしながら祝杯を上げている。
ようやく来た。
待ちに待ったこの瞬間が。
ピースは震える唇をきゅっと引き結んだ。
それは屈辱に耐えているようにも見えたが、実際は笑い出しそうなのを必死に堪えているだけだった。
「……殿下。今、なんと仰いましたか?」
ピースはあえて聞き返した。
言質を取るためである。
ジェラルド王子は、勝ち誇ったように鼻を鳴らし、その整った顔を歪めた。
「聞こえなかったのか? 耳まで悪くなったとは哀れな女だ。婚約は破棄だと言ったんだ! 貴様のような冷酷で陰湿な女は、未来の王妃にふさわしくない!」
王子の背後には、小動物のように震える男爵令嬢、ミナ・コットの姿があった。
彼女は涙目で王子の上着の裾を握りしめている。
「あぅ……ジェラルド様、やめてください……ピース様が怖いですぅ……」
「心配するなミナ! 僕が守る! この悪女の魔の手から、必ず君を救い出してみせる!」
王子はミナを背に庇い、再びピースを睨みつけた。
その茶番劇のような光景を前に、ピースの脳内コンピューターは高速で計算を開始していた。
慰謝料の相場。
精神的苦痛に対する賠償請求。
そして何より、この面倒くさい王子との関係が切れるという、プライスレスな解放感。
「冷酷で陰湿、ですか。具体的にはどのような点を指して仰っているのでしょうか?」
ピースは冷静に問いかけた。
ここで感情的になってはいけない。
あくまで「話し合いに応じる姿勢」を見せつつ、相手のボロを引き出すのが最善手だ。
王子は待っていましたとばかりに声を張り上げる。
「とぼけるな! ミナへの数々の嫌がらせ、知らぬ存ぜぬとは言わせないぞ!」
「嫌がらせ?」
「先日の茶会だ! 貴様、ミナのドレスにわざと紅茶をこぼしただろう! あれは彼女が夜なべして刺繍した大切なドレスだったんだぞ!」
会場がざわめく。
なんて酷いことを、という非難の視線がピースに集まる。
だが、ピースは涼しい顔で首を傾げた。
「お言葉ですが殿下。あの日、ミナ様が着ていらしたのは、季節外れの薄手の生地で作られたドレスでした。しかも会場は換気のために窓が開け放たれており、彼女は寒さで震えておられました」
「だからといって、熱い紅茶をぶっかけていい理由にはならん!」
「ぶっかけたのではありません。手が滑ったふりをして、温かい飲み物を差し上げようとしたのです。結果的にドレスは濡れましたが、すぐに私が予備として持参していた最高級シルクのショールをお貸ししました。あのままでは風邪を召されていたでしょう」
「なっ……」
王子が言葉に詰まる。
ピースは畳み掛けるように続けた。
「それに、濡れたドレスのクリーニング代として、その場で新品が十着は買える金額をお渡ししました。ミナ様は『え、こんなに!? ラッキー!』と満面の笑みで受け取ってくださいましたが、あれは嫌がらせだったのでしょうか?」
「そ、それは……!」
ミナが慌てて王子の背中に隠れる。
その挙動不審さが、むしろ答えを物語っていた。
「まだあるぞ! ミナの教科書を隠したこともあったな!」
「隠したのではありません。あまりにボロボロで読み辛そうだったので、私の専属の職人に頼んで製本し直させたのです。金箔押しの革表紙にしてお返ししましたが」
「き、教室の椅子に画鋲を仕掛けたのはどうだ!」
「あれは画鋲ではなく、姿勢矯正のためのツボ押しシートです。最近、ミナ様が腰痛気味だと仰っていたので」
「階段から突き落としたという目撃証言もある!」
「突き落としたのではなく、足を踏み外されたのを私が受け止めたのです。おかげで私は全治二週間の打撲を負いましたが、ミナ様は無傷でした。治療費も請求しておりません」
ピースの淡々とした反論が続くたびに、会場の空気が微妙に変化していく。
(あれ? なんか話が違わないか?)
(むしろピース様、めちゃくちゃ親切なんじゃ……)
そんな困惑が広がる中、ジェラルド王子だけが引くに引けない状況に陥っていた。
彼は顔を真っ赤にして、地団駄を踏んだ。
「ええい、うるさいうるさい! 口答えをするな! とにかく貴様の顔などもう見たくないんだ! この性悪女め!」
論理で勝てなくなると、大声で威圧する。
いつものパターンだ。
ピースは心底うんざりしつつ、しかし内心ではガッツポーズを維持したまま、深く頭を下げた。
「……左様でございますか。私の善意が、殿下やミナ様にとっては苦痛でしかなかったと。それは大変申し訳ないことをいたしました」
しおらしい声色を作る。
王子は「ふん、やっと認めたか」と鼻を高くした。
「わかればいいんだ。貴様のような女と結婚など、死んでも御免だ。この婚約は白紙に戻す。わかったな?」
「はい、もちろんです」
ピースは即答した。
あまりの食い気味な返事に、王子が一瞬きょとんとする。
その隙を逃さず、ピースはドレスの懐から一束の書類を取り出した。
「そのようなお言葉をいただく予感がしておりましたので、あらかじめ書類を用意して参りました」
「は?」
「『婚約解消に関する合意書』および『慰謝料請求書』、それから『王家主導による一方的な破棄に伴う解決金支払い誓約書』でございます」
ピースは流れるような手つきで、近くの給仕からシルバーのトレイを借り、その上に書類と携帯用のペンを並べた。
そして、恭しく王子の前に差し出す。
「さあ殿下。鉄は熱いうちに打てと申します。お気持ちが変わらないうちに、こちらの署名欄にサインをお願いいたします」
「え、あ、おい……なんだこれは」
王子が目を白黒させる。
ピースは満面の、しかし営業スマイル全開の笑みを浮かべた。
「殿下の高潔なご決断を、法的な拘束力を持つ文書として残すためのものです。口約束では後々トラブルになりますから。さあ、ここです。ここと、ここにも。あ、拇印も忘れずにお願いしますね」
「ちょ、ちょっと待て! 貴様、なんでこんなものを持ち歩いているんだ!?」
「備えあれば憂いなし、でございます」
「準備が良すぎるだろう! まさか、最初からこれを狙っていたのか!?」
王子の指摘は鋭かったが、ピースは表情一つ崩さない。
「滅相もございません。ただ、殿下が常日頃から『ミナこそが真実の愛』と仰っていたので、忠実なる臣下として、いつかこの日が来ることを覚悟していただけです」
「う、ぐ……」
「それとも殿下。まさかとは思いますが、公衆の面前であれほど高らかに『婚約破棄』を宣言されたにも関わらず、署名はできないと仰るのですか? 王族の言葉に二言はないと信じておりますが?」
ピースの言葉は丁寧だが、その目は完全に獲物を追い詰める狩人のそれだった。
周囲の貴族たちも、固唾を飲んで見守っている。
ここでサインしなければ、王子はただの「痴話喧嘩で騒いだ挙げ句、責任も取れない男」になってしまう。
プライドの高いジェラルドに、逃げ道はなかった。
「くっ……! わかった、書けばいいんだろう、書けば!」
王子は乱暴にペンをひったくると、書類にサラサラと署名をした。
内容もろくに確認していない。
ピースは心の中で「よし!」と叫んだ。
慰謝料の金額欄には、王都の一等地にある屋敷が二軒ほど買える額が書き込まれているが、それはサインした時点で了承したとみなされる。
「はい、確かにいただきました」
ピースは素早く書類を回収し、インクが乾くのも待たずに懐へしまい込んだ。
これで契約成立だ。
自由だ。
もう、このナルシスト王子の「僕の髪型、今日の湿気で崩れてない?」という質問に、毎日三回も答えなくていいのだ。
「それでは殿下、ミナ様。末永くお幸せに。私はこれにて失礼いたします」
ピースは優雅にカーテシー(膝を折る礼)をした。
その顔は、この会場にいる誰よりも晴れやかで、輝いていた。
「ま、待てピース! どこへ行く!」
背後から王子の声が聞こえたが、ピースは振り返らなかった。
「実家に戻って荷造りをします! 慰謝料の入金、期日厳守でお願いしますね!」
彼女はドレスの裾を翻し、軽やかな足取りで出口へと向かう。
その足取りはあまりに軽く、今にもスキップをしそうだった。
会場の扉を開け放ち、夜風を浴びた瞬間。
ピースは小さく、しかし力強く呟いた。
「やったぁぁぁぁぁぁ!! 明日から、毎日10時間寝てやるぅぅぅぅ!!」
その叫びは夜空に吸い込まれ、会場に残された王子とミナ、そして呆気にとられる貴族たちだけが取り残された。
こうして、悪役令嬢ピース・アスターの、華麗なる転落人生(予定)……もとい、自由気ままな隠居ライフが幕を開けたのである。
しかし彼女はまだ知らない。
その様子を、会場の片隅から熱い視線で見つめる人物がいたことを。
「……ふっ。面白い女だ」
氷の魔術師と恐れられる辺境伯、サイラス・グレイヴ。
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