最強の悪役令嬢、婚約破棄で逃げます!

パリパリかぷちーの

文字の大きさ
1 / 28

1

しおりを挟む
「カグヤ・ムーンライト! 貴様との婚約を、この場をもって破棄する!」

王立学園の卒業パーティー。

煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが歓談する華やかな会場に、王太子ヘリオスの素っ頓狂な大声が響き渡った。

音楽が止まる。

グラスを合わせる音が消える。

数百人の視線が、会場の中央に立つ二人の男女に突き刺さる。

一人は、壇上で勝ち誇った顔をする金髪の王太子、ヘリオス。

その背後には、おどおどとした様子で彼の腕にしがみつく男爵令嬢、ミナの姿がある。

そして、彼らに見下ろされる位置に立っているのが、私、公爵令嬢カグヤ・ムーンライトだ。

「……」

私は無言のまま、ゆっくりと懐から懐中時計を取り出した。

銀色の蓋を親指で弾いて開ける。

文字盤に目を落とす。

長針と短針が示している時刻は、午後六時三分。

(……あ、過ぎてる)

私の勤務時間は、朝の八時から夕方の六時まで。

王太子の婚約者という立場は、名誉職ではない。

次期王妃としての公務、王太子の補佐、外交文書の添削、そしてこのバカ王子のスケジュール管理に至るまで、実質的には国の運営を担う「超高度専門職」である。

つまり、今の私は「定時後のプライベートな時間」に、職場の上司(王太子)から呼び出しを食らっている状態だ。

私はパチンと時計の蓋を閉め、冷ややかな視線を壇上の王子に向けた。

「殿下。今の発言、公的な決定事項として受理してよろしいのでしょうか?」

私の静かな問いかけに、ヘリオスは鼻を鳴らした。

「ふん、往生際が悪いぞカグヤ! 受理もなにも、これは決定だ! 貴様のような冷酷非道な女に、この国の母となる資格などない!」

「冷酷非道、ですか」

「とぼけるな! ミナから全て聞いているぞ。彼女の教科書を隠したり、ダンスの練習中に足を引っかけたり、お茶会で無視をしたりしたそうだな!」

ヘリオスの後ろで、ミナが「ひっ」と小さな悲鳴を上げて首をすくめる。

「カ、カグヤ様……ごめんなさい……でも、私、もう我慢できなくて……」

涙目で訴えるその姿は、いかにも「権力者に虐げられた可憐なヒロイン」そのものだ。

周囲の貴族たちから、私を非難するひそひそ話が聞こえてくる。

「なんて恐ろしい……」

「公爵令嬢ともあろうお方が……」

「やはりあの噂は本当だったのね」

やれやれ。

私は小さく溜め息をついた。

教科書を隠した?

いいえ、彼女が前日の授業内容すら覚えてこないから、「覚えるまで返しません」と没収して補習を行っただけだ。

足を引っかけた?

いいえ、彼女のステップがあまりにも酷く、自分の足に絡まって転びそうになったのを、私が体を張って支えただけだ。

お茶会で無視?

いいえ、各国の要人が集まる席で、彼女が「このケーキおいしー!」と大声で叫ぼうとしたのを、外交問題になる前に黙らせただけだ。

全ては「次期王妃候補」として最低限のレベルに引き上げるための、私の血と汗と涙の教育的指導である。

だが、弁明はしない。

なぜなら。

(これは、チャンスだ)

私は内心でガッツポーズをした。

王太子の婚約者になって十年。

私の生活は「激務」の一言に尽きた。

無能なヘリオスが書類を書き間違えるたびに、私が徹夜で修正した。

彼が外交の場で失言をするたびに、私が裏で根回しをして戦争を回避した。

休みはない。

睡眠時間は平均三時間。

肌荒れは化粧で隠し、目の下のクマは気合いで飛ばしてきた。

「もう疲れました……」と父である公爵に訴えても、「お前しか国を救えないんだ、頼む」と泣きつかれて辞めるに辞められなかったブラック労働の日々。

それが今、向こうから「クビ」を宣告してくれたのだ。

こんなに嬉しいことはない。

私は扇子で口元を隠し、緩みそうになる頬を必死に引き締めた。

「……そうですか。殿下がそうおっしゃるなら、弁明はいたしません」

「なっ……!?」

予想外の反応だったのか、ヘリオスが目を丸くする。

彼はきっと、私が「誤解です!」と泣き崩れるか、「証拠を見せなさい!」と喚き散らすことを期待していたのだろう。

残念ながら、今の私にとってはどうでもいいことだ。

「私の不徳の致すところです。ミナ様を傷つけてしまい、誠に申し訳ございませんでした」

私は流れるような所作でカーテシー(膝を折る礼)をした。

その角度、静止する時間、全てが完璧な王室マナーである。

「よって、婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」

「え……あ、おい、待てカグヤ」

あっさりと認めた私に、ヘリオスが狼狽する。

「そ、それだけか? 泣いて縋(すが)ったり、悔しがったりしないのか?」

「はい。殿下のご判断は絶対ですので」

私はすっと顔を上げ、事務的な笑みを浮かべた。

「つきましては、今後の引き継ぎ業務について確認させていただきたく」

「は? 引き継ぎ?」

「はい。私が現在担当している公務は、現在進行中のプロジェクトを含めて七十八件ございます」

私は指を折りながら早口でまくし立てた。

「北部の治水工事の予算管理、隣国との関税交渉の最終調整、来月の建国記念パーティーの席次表作成、王立騎士団の装備更新の入札審査、それから殿下の来週のスピーチ原稿の作成……」

「ちょ、ちょっと待て! 多すぎる!」

「これでも減らしたのですが。これら全てを、今後はミナ様、もしくは殿下が引き継ぐことになります」

私は視線をミナに向けた。

「ミナ様。治水工事の予算書は、複雑な複式簿記で管理されていますが、理解されていますか? 関税交渉では、過去五十年の貿易データを暗記している必要がありますが、大丈夫ですか?」

「え、えっと……?」

ミナが目を白黒させる。

「ボ、ボキ……? ボウエキ……?」

「大丈夫そうにありませんね」

私は即座に判断を下し、ヘリオスに向き直った。

「では、全て殿下が処理されるということでよろしいですね? 私は婚約者ではなくなりますので、王家の内部情報に関わる業務を行う権限がなくなります」

「いや、それは……その、カグヤがやればいいだろう! 今まで通り!」

「いいえ、できません」

私はきっぱりと首を横に振った。

「婚約破棄とは、雇用契約の解除と同義です。部外者が国の重要機密に触れるわけにはいきません。それは国法により禁じられております」

「ぐっ……!」

ヘリオスが言葉に詰まる。

法律を持ち出されれば、反論できない。

そこまでは彼も理解しているようだ(奇跡的に)。

「しかし……だ、だが、急に言われても困る! 少しは手伝え!」

「お断りします」

「なっ! 貴様、長年連れ添った私への情はないのか!?」

「情で国は動きません。動くのは予算と労働力です」

私は冷徹に言い放った。

会場がざわめく。

「カグヤ様、あんなにはっきりと……」

「でも、おっしゃっていることは正論だわ」

「王太子殿下、大丈夫なのかしら……」

空気が変わり始めている。

最初は私を「悪役」として見ていた周囲の目が、次第に「有能な部下を失った無能な上司」を見る目に変わっていく。

しかし、ヘリオスだけはその空気に気づいていない。

「ええい、うるさい! とにかく破棄だ! お前のような可愛げのない女は願い下げだ! 出ていけ!」

「承知いたしました」

私は深く一礼した。

「では、直ちに退去させていただきます。……ああ、そうだ」

私は去り際に思い出したように振り返った。

「殿下。これまで私が立て替えておりました、業務上の経費……および、時間外労働手当の請求書は、後日改めて公爵家を通じて送付させていただきます」

「は、はあ!? 請求書だと!?」

「はい。かなりの金額になりますので、王室予算の予備費を崩しておくことをお勧めします」

にっこりと微笑む。

「それでは、皆様。ごきげんよう」

私はドレスの裾を翻し、踵を返した。

背筋を伸ばし、一度も振り返ることなく歩き出す。

会場の扉を開ける衛兵たちが、敬意を込めて敬礼してくれたのが見えた。

(終わった……!)

扉を抜けた瞬間、私は廊下で小さくガッツポーズをした。

解放感。

圧倒的な解放感。

明日からは、朝の六時に叩き起こされて王城へ向かう必要もない。

夜中の二時まで書類の山と格闘する必要もない。

バカ王子の尻拭いに奔走する必要もないのだ。

「自由……! 私は自由よ!」

誰もいない夜の廊下で、私はスキップしたい衝動を必死に抑えながら、早足で出口へと向かった。

目指すは領地の端にある、あのボロ別荘。

あそこなら誰にも邪魔されず、思う存分、惰眠を貪ることができる。

「まずは三日……いや、一週間は寝てやるわ」

私の新しい人生(スローライフ)が、今まさに始まろうとしていた。

――背後で、パーティー会場から王子の悲鳴のような声が聞こえた気がしたが、私は綺麗さっぱり聞かなかったことにした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています

22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」 そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。 理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。 (まあ、そんな気はしてました) 社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。 未練もないし、王宮に居続ける理由もない。 だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。 これからは自由に静かに暮らそう! そう思っていたのに―― 「……なぜ、殿下がここに?」 「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」 婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!? さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。 「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」 「いいや、俺の妻になるべきだろう?」 「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない

もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。 ……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

婚約者が私のことをゴリラと言っていたので、距離を置くことにしました

相馬香子
恋愛
ある日、クローネは婚約者であるレアルと彼の友人たちの会話を盗み聞きしてしまう。 ――男らしい? ゴリラ? クローネに対するレアルの言葉にショックを受けた彼女は、レアルに絶交を突きつけるのだった。 デリカシーゼロ男と男装女子の織り成す、勘違い系ラブコメディです。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?

山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。

一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。

木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」 結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。 彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。 身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。 こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。 マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。 「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」 一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。 それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。 それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。 夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

処理中です...