26 / 28
26
しおりを挟む
賑やかな舞踏会の喧騒を離れ、私とギルバート卿は月明かりの差し込む静かなテラスにいた。
夜風は冷たかったが、隣に立つ卿の纏う空気は、不思議といつもの「絶対零度」を感じさせない。
むしろ、微かな緊張を孕んだ熱のようなものが、私たちの間に漂っていた。
「……ポンド。今夜は、散々な夜だったな」
「そうでしょうか。私は特大エビフライを十二尾も堪能できましたし、シイタケの新作もお披露目できました。私の中では、過去最高の『収穫祭』です」
「……ふっ。……君らしい。……だが、私はまだ、君に伝えきれていないことがある」
ギルバート卿が、手摺りに置いていた私の手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
大きな、剣筋の通った掌。
その温もりが、手袋越しにじわりと伝わってくる。
「ポンド。……私は、君が食べ物を愛するように、君という存在そのものを愛している」
「…………」
「君が何を考えているか分からないと言われるその瞳も。美味しそうなものを前にした時の、微かな温度の変化も。……君の全てが、私の凍りついた人生に必要な色彩なんだ」
卿の言葉は、まるで上質なワインのように私の心に染み渡っていく。
比喩ではない。本当に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
私は無表情のまま、じっと彼を見つめ返した。
「アイゼン卿。……私のような『沼』の住人と一緒にいても、光は見えませんよ? 沼にあるのは、美味しい泥……いえ、底知れない食欲だけです」
「構わない。……沼だろうが深淵だろうが、私がそこへ飛び込む。君が沈むなら、私がその底で君を支える土台になろう。……君の隣で、一生、同じ食事を共にしたいんだ」
ギルバート卿の瞳は、冗談抜きで真っ直ぐだった。
彼は一度深く息を吸い込み、月を背にして膝をついた。
騎士が主君に捧げる最上級の礼。……だが、その対象は、一介の「元・悪役令嬢」である私だ。
「ポンド・フォン・マーガリン。……私の妻になってくれないか」
「…………」
「君の胃袋を満足させ、君の安全を守り、君が笑える場所を私が作る。……これが、私の人生を賭けた、最後の『任務』だ」
テラスを流れる風が、ピタリと止まった気がした。
私は、自分の鼓動が少しだけ早くなっているのに気づいた。
これは、揚げ物を食べすぎた時の動悸ではない。……もっと、根源的な、魂の震え。
「……卿。一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「……ああ、なんだ。何でも聞いてくれ」
「……もし、私たちの食卓に、最後の一切れのステーキしか残っていなかったとしたら。……卿は、どうされますか?」
ギルバート卿は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……決まっている。君に差し出すよ。……君が美味しそうにそれを食べる姿を見ることが、私にとって最大の『ご馳走』だからな」
「…………っ」
その瞬間、私の心の「沼」に、初めて鮮やかな花が咲いたような気がした。
自分よりも、相手の満腹を優先する。
それは、私という食欲の権化にとって、何よりも深く、真実味のある「愛」の定義だった。
「……合格です、アイゼン卿」
「……えっ。……合格、か?」
「はい。……最後の一切れを譲ってくださるというのなら、私も、卿の分を半分横取りするのを、三回に一回くらいは我慢しようと思います」
私は、膝をついている彼の頬に、そっと手を触れた。
無骨で冷たいと思っていた「氷結騎士」の肌は、今、驚くほど熱を持っていた。
「アイゼン卿。……私は、愛というものがまだよく分かりません。ですが、卿と一緒に食べるご飯が、世界で一番美味しいことだけは知っています」
「……ポンド……」
「ですから、その……。私の胃袋の隣の席、永久欠番として卿に差し上げます。……私の夫になっていただけますか?」
ギルバート卿は、弾かれたように顔を上げると、信じられないものを見るような、眩しげな表情で私を見つめた。
そして、彼は感極まったように、私の腰を抱き寄せて高く抱き上げた。
「……っ。……ああ! もちろんだ! 君の胃袋、……いや、君の人生の全てを、私が責任を持って幸せにしてみせる!」
「……卿。……嬉しいですが、高いです。……このままだと、さっき食べたエビフライが逆流……いえ、なんでもありません」
「ははは! 君は本当に……最後まで君だな!」
ギルバート卿の笑い声が、夜のテラスに響き渡った。
それは、氷を溶かす太陽のような、明るく力強い響き。
私は彼の首に腕を回し、月明かりの下で、初めて「泥沼」ではない、清流のような穏やかな微笑みを浮かべた。
「……卿。……お腹が空きました」
「……ああ。……帰ったら、二人だけの『祝杯』を挙げよう。……君が好きな、最高級のチーズを用意させてある」
「……一生、ついていきます」
泥沼令嬢と氷結騎士。
二人の間に結ばれたのは、どんな甘い言葉よりも強固な、食卓への誓い。
真実の愛は、どうやら胃袋を通過して、心の一番深い場所に辿り着いたようだった。
夜風は冷たかったが、隣に立つ卿の纏う空気は、不思議といつもの「絶対零度」を感じさせない。
むしろ、微かな緊張を孕んだ熱のようなものが、私たちの間に漂っていた。
「……ポンド。今夜は、散々な夜だったな」
「そうでしょうか。私は特大エビフライを十二尾も堪能できましたし、シイタケの新作もお披露目できました。私の中では、過去最高の『収穫祭』です」
「……ふっ。……君らしい。……だが、私はまだ、君に伝えきれていないことがある」
ギルバート卿が、手摺りに置いていた私の手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
大きな、剣筋の通った掌。
その温もりが、手袋越しにじわりと伝わってくる。
「ポンド。……私は、君が食べ物を愛するように、君という存在そのものを愛している」
「…………」
「君が何を考えているか分からないと言われるその瞳も。美味しそうなものを前にした時の、微かな温度の変化も。……君の全てが、私の凍りついた人生に必要な色彩なんだ」
卿の言葉は、まるで上質なワインのように私の心に染み渡っていく。
比喩ではない。本当に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
私は無表情のまま、じっと彼を見つめ返した。
「アイゼン卿。……私のような『沼』の住人と一緒にいても、光は見えませんよ? 沼にあるのは、美味しい泥……いえ、底知れない食欲だけです」
「構わない。……沼だろうが深淵だろうが、私がそこへ飛び込む。君が沈むなら、私がその底で君を支える土台になろう。……君の隣で、一生、同じ食事を共にしたいんだ」
ギルバート卿の瞳は、冗談抜きで真っ直ぐだった。
彼は一度深く息を吸い込み、月を背にして膝をついた。
騎士が主君に捧げる最上級の礼。……だが、その対象は、一介の「元・悪役令嬢」である私だ。
「ポンド・フォン・マーガリン。……私の妻になってくれないか」
「…………」
「君の胃袋を満足させ、君の安全を守り、君が笑える場所を私が作る。……これが、私の人生を賭けた、最後の『任務』だ」
テラスを流れる風が、ピタリと止まった気がした。
私は、自分の鼓動が少しだけ早くなっているのに気づいた。
これは、揚げ物を食べすぎた時の動悸ではない。……もっと、根源的な、魂の震え。
「……卿。一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「……ああ、なんだ。何でも聞いてくれ」
「……もし、私たちの食卓に、最後の一切れのステーキしか残っていなかったとしたら。……卿は、どうされますか?」
ギルバート卿は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……決まっている。君に差し出すよ。……君が美味しそうにそれを食べる姿を見ることが、私にとって最大の『ご馳走』だからな」
「…………っ」
その瞬間、私の心の「沼」に、初めて鮮やかな花が咲いたような気がした。
自分よりも、相手の満腹を優先する。
それは、私という食欲の権化にとって、何よりも深く、真実味のある「愛」の定義だった。
「……合格です、アイゼン卿」
「……えっ。……合格、か?」
「はい。……最後の一切れを譲ってくださるというのなら、私も、卿の分を半分横取りするのを、三回に一回くらいは我慢しようと思います」
私は、膝をついている彼の頬に、そっと手を触れた。
無骨で冷たいと思っていた「氷結騎士」の肌は、今、驚くほど熱を持っていた。
「アイゼン卿。……私は、愛というものがまだよく分かりません。ですが、卿と一緒に食べるご飯が、世界で一番美味しいことだけは知っています」
「……ポンド……」
「ですから、その……。私の胃袋の隣の席、永久欠番として卿に差し上げます。……私の夫になっていただけますか?」
ギルバート卿は、弾かれたように顔を上げると、信じられないものを見るような、眩しげな表情で私を見つめた。
そして、彼は感極まったように、私の腰を抱き寄せて高く抱き上げた。
「……っ。……ああ! もちろんだ! 君の胃袋、……いや、君の人生の全てを、私が責任を持って幸せにしてみせる!」
「……卿。……嬉しいですが、高いです。……このままだと、さっき食べたエビフライが逆流……いえ、なんでもありません」
「ははは! 君は本当に……最後まで君だな!」
ギルバート卿の笑い声が、夜のテラスに響き渡った。
それは、氷を溶かす太陽のような、明るく力強い響き。
私は彼の首に腕を回し、月明かりの下で、初めて「泥沼」ではない、清流のような穏やかな微笑みを浮かべた。
「……卿。……お腹が空きました」
「……ああ。……帰ったら、二人だけの『祝杯』を挙げよう。……君が好きな、最高級のチーズを用意させてある」
「……一生、ついていきます」
泥沼令嬢と氷結騎士。
二人の間に結ばれたのは、どんな甘い言葉よりも強固な、食卓への誓い。
真実の愛は、どうやら胃袋を通過して、心の一番深い場所に辿り着いたようだった。
24
あなたにおすすめの小説
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
婚約破棄されたショックですっ転び記憶喪失になったので、第二の人生を歩みたいと思います
ととせ
恋愛
「本日この時をもってアリシア・レンホルムとの婚約を解消する」
公爵令嬢アリシアは反論する気力もなくその場を立ち去ろうとするが…見事にすっ転び、記憶喪失になってしまう。
本当に思い出せないのよね。貴方たち、誰ですか? 元婚約者の王子? 私、婚約してたんですか?
義理の妹に取られた? 別にいいです。知ったこっちゃないので。
不遇な立場も過去も忘れてしまったので、心機一転新しい人生を歩みます!
この作品は小説家になろうでも掲載しています
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
婚約破棄された際もらった慰謝料で田舎の土地を買い農家になった元貴族令嬢、野菜を買いにきたベジタリアン第三王子に求婚される
さら
恋愛
婚約破棄された元伯爵令嬢クラリス。
慰謝料代わりに受け取った金で田舎の小さな土地を買い、農業を始めることに。泥にまみれて種を撒き、水をやり、必死に生きる日々。貴族の煌びやかな日々は失ったけれど、土と共に過ごす穏やかな時間が、彼女に新しい幸せをくれる――はずだった。
だがある日、畑に現れたのは野菜好きで有名な第三王子レオニール。
「この野菜は……他とは違う。僕は、あなたが欲しい」
そう言って真剣な瞳で求婚してきて!?
王妃も兄王子たちも立ちはだかる。
「身分違いの恋」なんて笑われても、二人の気持ちは揺るがない。荒れ地を畑に変えるように、愛もまた努力で実を結ぶのか――。
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる